ポケットの中の宝石

「自分の作品をきみは雑に扱いすぎだよ。作品がかわいそうだ」
大学の講評帰りの道すがら、同級生の彼は唐突にこう言った。作品発表の際に、半ばふてくされたような態度を取っていた僕を戒めていたのかもしれない。

「だって構想も手法も面白いじゃん。なのに、自分でその作品を台無しにしてる。大切にすれば、もっともっと良くなるのに」

でも、と僕は切り返す。クソなものはクソじゃん、と。最大限に力を注いだとしても、作品の質には何一つ関係しない。むしろ、みんなが大してレベルが高いわけでもない自分の作品に自信を持てるのかがわからない。あんなもの代わりなんていくらでもあるじゃないか。

「ものを作るってのは、楽しいことだと思うんだよ。そんな肩肘貼ってちゃ、ダメだよ。ほら、みんな楽しそうじゃん」

楽しく作っていいものができるのなら、苦労はしねえよな、と僕は悪態をつく。そんな僕に年下の彼は苦笑いしながら答えた。

「でも楽しくやれば、きっと自分の作ったものを大切にするよ。プラモとかさ、作ったら大切にするじゃん?」

プラモは作ったことないなあ。そんなもんなの?

「じゃあ写真とかね。下手くそな写真でも楽しい思い出があったら、とか」

ああ、それはそうかもね。でもちょっと違くない?

「同じだって! 『たのしい!』とか『これは絶対に面白くなる』とか思って作ってないと、心が持たないって。作品づくりなんてほとんどが辛いわけじゃん。それが初めからずっと下向いて苦しい思いだけしてたら、参っちゃうよね」

そうなのかなあ。

「そうだって。修行も必要だけど、遊びも必要だと思うなあ」

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もう10年近く前の話だ。それでもなお、この会話をたびたび思い出す。ふとした瞬間に呪いのように、頭の中に広がる言葉。与えられたタスクをひたすらにギリギリで回していくプライドもクソもない映像制作会社時代には、彼の無邪気な言葉に胸先三寸を突きつけられたような心地になっていた。

ここ数年でようやく彼の言葉の意味が少しずつ理解できるようになってきた。技術力も発想もようやく人並みになったのだろう。あるいは開き直って、子供がえりすることができたのか。

ものを作ることは、たぶん地獄だ。クリエイターという言葉はキラキラとしてかっこいいけれど、裏側は本当に泥臭いことばかり。大量の素材整理。地味な作業。迫りくる締切。憧れが失望に変わる日はすぐに来る。でも、でもだ。地獄で何が悪いのだ。天国で健やかに暮らすよりも、地獄で騒ぎ続けたほうがきっと楽しい。

いろんな変化が起こり続けているこのご時世、これからの道は決して明るくはないだろう。たぶんみんな大変。死ぬほど苦しい日々が続くかもしれない。それでも、騒ぎ続けていれば、楽しさを見出すことができれば、なんとなくどうにかなる気がするのだ。



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