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「やらなければいけないこと」なんて、ない

本当に「仕事をしたくない」と身体中が叫ぶ日というのが月に数回ある。
そういう日はどんなに頑張っても頭が回らないし、身体が尋常になく重たい。まるで身体が休めと叫んでいるかのようだ。
たしかに疲れてはいるのかもしれないが、周りの人は同じことをしていても、平気そうにしているのである。
どうしてみんなは毎日ふつうに働いているのだろう、とずっと不思議に思っていた。

そんなことをずっと考えていたあるときのことだ。
ふと、それは「やりたかったこと」が「やらなければならない」に変化していることが原因なのではないかと思い当たった。

そもそも昔から僕は「〜するべき」というものがあまり得意ではない。
普段通りにやっていることだとしても、それが義務のように感じてしまった瞬間に、全てがストレスの対象になってしまうし、結果としてうまくいかなくなることが多い。
「〜しなければならない」を完璧にこなそうとするばかりに破綻が生じていく。そして、そのことがまたストレスとなり、徐々に降り積もっていき、いつの日か爆発する。「完璧主義者になってはいけない」という話をよく聞くが、似たようなケースが多いのではないだろうか。

完璧主義者の難しいところは、加点が難しいということだ。自分に課したあらゆる義務を完璧にこなすことができて、初めてスタートラインに立つことができる。要するに義務をこなせなかった時は、減点しか生じない。義務をこなすという対価に対して、想定を上回ることでしか、報酬は存在しないのである。

しかし、報酬の発生しない行為を続けることはとても難しいものだ。それは獲物が発生しないとわかっている狩り場を延々と探し続けるようなものだし、賽の河原で石を積み続ける拷問とも似ている。
だからこそ、人は自分のやった行為に対して、報酬を求める。それは金銭であったり、他者からの反応であったり様々であるが、一番重要なのは自分自身への賛辞なのではないかと思うのだ。なぜなら、他者からの反応や即時的な評価というものは運やタイミングによって左右されているからだ。

この自分への賛辞が少ない人の中には、いわゆる自己肯定感が低い人が一定数存在する。この人たちは、なるべき理想の姿と現在の自分とのギャップばかりが見えてしまうために、ある程度の結果を残したところで、決して満足することはない。
ギャップを埋めるために必要なことは、継続して少しずつ埋めていくことでしかないのだが、ストイックになりすぎてしまうと、どこかで糸がプツンと切れてしまうのだ。その結果、さらに自分を否定してしまうという負のスパイラルへと陥っていく。

これは一般的にストイックと呼ばれ、結果を残し続ける人の考え方と紙一重だ。一見、違いは結果という報酬があるかないかという話にすぎないように見えるが、それだけではないようにも感じる。おそらくそれは、過去の成功体験が左右しているのではないだろうか。

たとえば、何がしか我慢や忍耐を強いられる場面があったとする。そこで積極的に我慢や忍耐をする人というのは「我慢をすることで、後々により気持ちよくなることができる」ことを知っているのである。その体験を知らなければ、自分から進んで苦痛を味わいにいくことなどまずないだろう。

おそらく「好きなことを仕事にする」という言葉の本質はここにある。他の仕事であれば「やらなければいけない」という減点方式のものが、「もっとやった方が、良いものができるはず」という加点方式に自分の中の認識が変わるのだ。何も得ることができなかった義務に対して、報酬が発生するのである。
そしてこの考え方はあらゆることに応用することができるはずだ。「やらなければならない」を「やった方が楽しい」にすることができれば、たぶん僕らはもう少しだけ生きやすくなる。だからこそ、今みんな自分を褒めはじめているのだ。

あらゆる人の正義や理想が目に入ってしまいがちなこの時代。ともすると、「〜しなければならない」という言葉に縛られてしまいがちだ。だからこそ、その呪いを「〜した方がいいよね」に変えてあげよう。単なる言葉遊びにすぎないかもしれないけれど、それって結構大事なことだったりすると思うんだよね。

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