どうしたら詩がうまくなりますか?

 このあいだ、『呪術廻戦』最新刊が出るちょっと前くらいにふっと1巻から読み返していたら「眼より先に手が肥えることはない」(大意)というパンチラインがこの毎日死んだワニの目に飛び込んできた。しびれたね。そもなぜ初読時そこで引っかからなかった(模範解答:泥酔してたからです)。

 こういうものはわたしの大好物とするところで、将棋でいえば郷田真隆先生の「いい手は指がおぼえている」なんて畢生の箴言ではないでしょうか。「身体でおぼえた将棋を教えてやる!」となるとちょっとまたあれだけど。そう、なんでもかんでも敷衍する病とはいえ、冷静に考えて、あ、この場合冷静というのは静かに酒を呑んでいる、という意味ではないですよ、詩においてもまったくもってそのとおりなのである。


 ここ最近、「詩人狼村」「ポエトリー・ナイトフライト」「ににんがし」と、それぞれ種類の異なる詩の場を主宰しているのだけれど、どの砂場で遊んでも「どうしたら詩がうまくなりますか?」という問いは尽きない。真昼間とかけて今年のダービーととく。そのこころは?つきない。はさておき、ひとつのおもしろい傾向があるように感じる。

 わたしはバカオロカ級(超弩級みたいなニュアンスで読んでくださいね)高校生のころから、ウェブ上での10代限定の勉強会「くぐもり」や読書会、京都芸術センターでの詩の朗読ワークショップ「詩の学校」助手、月イチで詩の歴史や方法論を学ぶ「花形朗読詩人会ENTA!」主宰など、とにかく知る場所、出会う場所、究める場所をつくろう(ないしは関わろう)という気持ちが強かった。なぜかといえば、詩人は基本的にみな、お山の大将である。それが大文字山か富士山かは別として、それぞれに山麓があり、頂上から見える景色がある。ただ、ふしぎなことに、高ければ高いほどいいひとはほぼおらず、きれいな花が咲いているとか、五合目に何か変な仏像があるとか、そこにたのしみを、”われならでは”を見出すのが、たいてい詩人なのだ。

 先述したもろもろのワークショップやイベントは、当たり前だがかなり詩に寄っている。拠っているといってもいい。わたしは酔っていない。そういった場で発される「どうしたら詩がうまくなりますか?」は、実際のところ「わたしにはわたしの山があるんで別に登るつもりはないんですけどぉー、いちおうエベレストのことも知っときたいとおもってぇー」と同義に近い。それはそれでなにも否定できるものではないのだけれど、ただ、10代のころからわたしは「まずは詩をもっと読みましょう」と9割がた言っていた。もちろん、漠然とではなく、「あなたにはこれとこれがおすすめです、なぜかというとこの作品におけるこの技法があなたの詩風と親和性が高く、かつ、これまでに書いていない角度からの視座がうまれるのではないでしょうか」みたいなかんじだ。そして途中で「あ、もういいです」と遮られ、結局そのひとと恋に落ちることはなかった。いや、落ちなくてよかった。急こう配には手すりをつけましょう。


 いったいどうして詩を読まねばならぬのか。なぜ切腹せねばならぬのか。いや、切腹はしなくていいけれど、個人的な体感として、ここ20年以上、さすがにみずから「詩人」を名乗るほどのひとはそうでもないにせよ、とにかく詩を読まないんだなァ……とトリスを飲んで羽合温泉に行きたくなる程度には、だれもかれもが詩を読まない。これには明暗があって、たとえば平成序盤まではインターネットも普及していなかったし、歌は歌であり、あくまで歌詞だった。それが、ちょうど自分がど真ん中世代だとおもうのだけど、2000年前後からウェブ上で(アマチュアのものとはいえど)いくらでも詩が読めるようになり、歌詞しか読まないひとがそれをなぞるように書いたものも「詩」となる。これは山の裾野に町がいくつもできたわけで、なにも悪い話ではない。ただ、身もふたもないながら「もうなんでも詩!」、「作者が詩、言うたら詩!」な時代に突入してゆく。

 あれれ、おかしいですよ。だんだん当初の文意というか書こうとおもっていた内容から脱線していくような気が。相撲においての「はっけよい!」は「発気揚々」、「呑むも八卦、呑むと酔い」ともいいますが(いいません)理性でさて措こう。

 ▲5六ほっぺたを叩いて本筋にもどってきました。では「詩人狼村」「ポエトリー・ナイトフライト」「ににんがし」はどうかというと、すべてウェブ上での企画ということがまずひとつあり、意外に現代詩や現場の人の割合が少ない。そのかわり、小説や短歌、俳句を書いている、あるいは音楽の歌詞やラップに一家言ある(は言い過ぎにしてもすきの度合いが深い)、演劇人、など言語表現という意味でありとあらゆる登山口からの御同行がいて、それがおもしろい。なんなら「詩的なあれそれはよくわからないけどそもそもことばに興味がある」原石みたいなひともいる。そして、彼ら彼女らも「どうしたら詩がうまくなりますか?」と言うのだけれど、そこには(傾向としての話)自分の山はともかく、もっと純粋に「その山を知りたい」というニュアンスを感じることが多い。最高です。


 だからわたしは何度でも言う。「眼より先に手が肥えることはない」と。あ、まちがった。これは芥見先生です。

 もちろん、1日3編書く、みたいな修行をするのも無為ではないとおもう。実際、14歳で詩を書きはじめてから3年くらいはバカオロカワニの目もそれを自分に課していた。ただそれはあくまでスクワットとか腹筋みたいなもので、やらないよりはいいけど、やったからどうなん、なのだ。目的意識をもってインプットをすること。現代詩を読まざるもの詩人にあらず、なんておもわない。ただ「音楽大好きで表現したいです!adoしか聴かないです!」ってなれば「うっせぇわ」となるわけで。その「音楽」とはなんぞや。たぶん、きみのすきなadoや作家陣はめちゃくちゃ音楽聴いてるぞ?って100日後に死にそうな目でジッと見つめます。


 ずいぶんと長い話をしてしまった。

 詩のすてきなところは「詩人と名乗れば詩人」「詩といえば詩」だと、これは皮肉じゃなく、まっすぐにいまもおもっている。「ご注文はうさぎですか」「糖分感じるんだろうねえ」大介先生だいすき……じゃないじゃない。「どうしたら詩がうまくなりますか?」と問われたならば、それが直接ならそのひとによき「であいもん」を提示したいしもっとふにゃふにゃしたものであればとにかくプロの詩を読もう。詩は相撲ほどプロアマ間の差が大きい競技(?)ではないけれど、技術、巧拙はめちゃくちゃある。問題はそれが体系立っていないところで、そこは自分をふくめ、もうちょっとなんとかすべきだとおもう。だがしかし。詩人は基本お山の大将なのです(二度目)。プロの戦法を採用するかどうかは別として、知らないことはせつない。あ、ごめん。ちょっと酔っぱらった趙治勲先生みたいなテンションになってきたので、せつない。ぼくせつない、って言う。

 こんな〆方でいいかどうか。詩について、いっぱいあなたと話がしたい。


 

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