大人になり切りたくない20歳
自己紹介のないはじまりはじまり。
自己を紹介することなど一生できそうにない。
というのが、私の自己を紹介する術である。
大学生。オリエンテーションという名の自己紹介大会。人は見た目の第一印象が関係性の土台となることを結局誰も否定できない。私の見た目はメガネをしているから真面目そうだし、特にパンチのない典型的な日本人の顔をしているからお淑やかそうだと言われるのが常。そうやって箱を作り、勝手に私を箱に収めたいがための時間。それこそが自己紹介の時間である。言い換えれば先入観。言い換えれば社会活動。私はこの大会で大敗、いや圏外だった。
そんなことを考える私が私を一番不思議がっていて、一番理解できない対象であると自負している。20歳。大人だろうって社会から勝手に言われ、なりたくない大人像に染まりそうになっている自分に気づき、慌てて引き返そうとするも、どこから来たのかを見失った。20歳。誰かにとって戻りたい時代で、誰かにとって思い出したくもない時代。20歳。夢は放浪者。トランプ。
心が動かない。
日本で生まれ育って20年。
今年バングラデシュを一人で旅した。
その5ヶ月後その時に出会った人と付き合い始めた。
全てを諦めるにはどこか勿体無い愛憎の関係を持つ私と世界。
バングラデシュで出会った同い年の女の子の境遇に怒りを抱き、心を奮い立たせた。この世の不条理の中で毎日を笑顔で生き抜く強さを見た。はずだった。今、私は月曜日から金曜日まで電車に揺られて同じ場所に辿り着き、顔を合わせるだけの知人たちと笑顔で話をして、帰宅する毎日を送る。
心が死んでいく。
踊り方を忘れてしまった。
そもそも踊り方すら私は知らなかったのではないかとすら思う。
子供の頃なりたくないと思った大人像があった。
できるはずがないとはなから諦めて人生への言い訳を叫ぶ大人。
社会の不条理の中で器用に笑う大人。
死んだ心を抱えたまま生きたふりをする大人。
大人になるということは、動かぬ心に慣れてしまうことなのかもしれない。
叫びたいという心も、踊りたいと疼く身体も、不条理に畝る思考も、全てを抑えて器用に笑うことが、大人としてうまく生きるということなのかもしれない。
でも私は、どうしても忘れたくないのだ。
生きていることを実感させてくれたあの海を、
ワクワクして歩むことをやめられなかったあの道を。
不器用だと言われようが、世間知らずだと言われようが、そんなものは私の心が死んでいくこの痛みに比べれば恐るに値しない、ただの箱であろう。
きっとまた忘れてしまうから。
大切なことほど忘れてしまう。そんな悩ましい生態を持っているのだ。
だから、数ヶ月前に書いたノートには、今日吐露した悩みとも言えぬ想いが、ありがたくも丁寧に同じ色で書かれているだろう。
そんなことはどうでもよくて、
とにかくきっとまたこの感覚を忘れて来た道もこれから進みたい道もわからなくなってしまうだろうから。
だからこういう場所に置き忘れたふりをすることにしたってこと。