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正体

なぜ思考は停止することがないのだろう。

何も考えない、無になりたいと思えば思うほど、気がつけば悩み先のことが頭にちらついたかと思えばいつの間にか脳内全体を支配していることは往々にしてある。何も考えないって何だろう。無になるってどういうことだろう。

前に座禅に行ったことがある。蝉が声する暑い夏の日だった。

和尚さんからの一つのことに集中することの大切さの話を受け、座布団の上に胡座をかき瞑想をする。目は開けたまま。耳に近づく蚊も受け入れた。
肩を叩かれるのが怖くて数メートル先をずっと凝視していた。一定間隔での瞬き。一定間隔での呼吸。そうするとその数メートル先から目を逸らさないことばかりを考えていたり、いかに呼吸を乱さずいられるかを考えていたりする。果たしてそれは頭の中を空っぽにしているといえたのであろうか。そんなことを考えていると和尚さんが目前に来て合唱。想像以上の衝撃が肩に落ちる。
一回目の座禅が終わり、二回目の座禅に入ると自主座禅の時間が与えられた。どうも本堂で別件があるようで和尚さんが階段を猛ダッシュしている。もう無になるどころではない。もしや和尚さんあなた…一つのことに集中していないのでは?と脳裏に過ぎったが口には出さない。これが初めての座禅体験だった。

結局、無になるという感覚を知ることは出来なかったが、木製の窓から入り込む風と自然の声が私の黒い内面を浄化させてくれたことは確かだった。

これは口から発すると「またまた~」と小馬鹿にされそうなものだが、私は人の感情が割と分かってしまう質である。そうなると自分軸で考えることなんて到底難しい。これが自然に分からない人間あるいは動物ならば、どれだけ生きやすくなるだろう。
生きづらさの正体はこの、“人の考えていることに気づくこと”もその一つなのかもしれない。他者を介入させないことが、生きやすさの近道なのだとしたらどうしたらよいものか。
人の感情が読み取れるというのは感覚的なもので、これまで生きてきた防衛本能によるものが大きい。人の目を気にしてきた過去の人生が、今となっては窮屈なものとなって私に降りかかってきている。直感で分かると言うと、「考えすぎ、気のせいだよ。」なんて言葉が飛んできそうなものだ。
私の場合、顔の一瞬の曇りや声のトーンの変化などで、大抵のことはネガティブ要素に変換されてしまう。人間同士の関係構築がここまで難しいのはなぜだろう。

例えば、動物は真っ直ぐなメッセージを伝えてきてくれる。私にはそれが心地よく、深読みする余地がないのでとても楽だ。異種動物同士は言葉を交わす代わりにより心を通わす必要がある。そのためにはこちらから目一杯の肯定を相手に伝える。それは声のトーンだったり、アイコンタクトだったり、ボディータッチだったりする。人間に対しても同じように対応できれば良いのだが、これを言ったらどう思われるのか、嫌われないだろうか、馬鹿にされないだろうか、その他様々な心配が頭の中をもの凄いスピードで駆け巡ってそれだけで勝手に疲弊してしまうのである。
自分に自信がないくせに、一丁前なプライドは持ち合わせているのが私の性格の厄介なところだ。その上、天邪鬼である。この自分の性格とこれから先も付き合っていくには、今まで蔑ろにしてきた自分の本心と真っ向に対峙する必要があるように感じる。

人の顔色を伺いながら多数派の意見に立つような、安全かつ卑怯な手段とは決別しよう。

信じられないかもしれないが、これまで多数派の意見が正解だと本気で思ってきた。この世の中は正解と不正解で成り立っていると思っていた。とにかくグレーゾーンが嫌いだった。世の中では、SNSや情報番組など様々なところで討論や持論が繰り広げられている。皆それぞれに自分の意見を発信してぶつかり合っている。それは多数決勝負で多数者が勝ち、というわけではない。意見を発言することが重要なのであって、これがグレーゾーンの存在の一つだと私なりに解釈している。
意見を発しなければいわば無の状態だ。マイナスにもならなければ、反対にプラスにもならない。自分の意見を言うことに長年蓋をしてきたような人間なので、突然にあなたはどう思う?どうしたいの?と問われると一気に頭が真っ白になってしまう。
もしその場面で自分の意見を言うものなら、防衛本能が先立って結論を言うまでの長い長い前置き地獄が披露される。相手に指摘されそうなことを前もって自ら口に出しておくことで傷つくことを避けているのだろう。私がほとんどの話しを披露してしまうものだから、相手は話す事柄がなくなり“うん、そうだね。”と言う他なく会話は終了へと向かうしかない。

どうにも傷つくことを恐れてしまうこの私の中の小さな心は、いつか花開くことがあるのだろうか。

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