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「NPO法」成立の立役者加藤紘一元自民幹事長と加藤鮎子大臣父娘

はじめに


国会答弁の初々しさが話題だった加藤鮎子こども政策担当大臣。
御父君は、加藤紘一元自由民主党幹事長(1939-2016)です。
平成12年(2000)11月の「加藤の乱」で記憶される人物ですが、90年代には「宏池会のプリンス」「総理に一番近い男」と称される有力政治家でした。
この加藤紘一氏が、平成10年(1998)の「非営利活動促進法(通称「NPO法」)」の成立に積極的に関与したことを示す資料があったので、メモしてみおきます。

加藤紘一幹事長の鶴の一声

下に掲げるのは、「NPO法」の成立に関わった人々(市民団体代表、ロビイスト、国会議員、経団連役員など)が、経緯や思い出などを話しているインタビュー記事が掲載されているサイトです。

90年代の政界は新しい政党がうまれたり消えたり連立したり分裂したりと、国会議員がたえず離合集散する混沌期にありました。
平成5年(1993)に行われた衆議院選挙で自民党は過半数割れし、結党後はじめて下野しますが、翌年には日本社会党・新党さきがけと連立することによって政権に復帰。
「NPO法」成立はこの自社さ政権末期の出来事です。

インタビューからは、「NPO法」成立にむけ、政権に加わった革新系政党の議員が懸命に活動していたことが読み取れました。
自民党のなかの革新寄りの議員も協力しており、なかでも加藤紘一議員が推進派の中心人物で、法案の準備段階から、国会採決、平成23年(2011)の法改正まで、一貫して強く関与したとする証言が複数あります。
加藤議員はこの時期、自民党の政務調査会会長(1994-95)、幹事長(1995-1998)として党運営を主導する立場にあり、政務調査会にNPO特別委員会を自ら作って委員長となり、議員立法をめざす超党派(共産党を除く)のNPO議連の会長でもありました。
自民党内において当時経世会と勢力を二分した宏池会の会長(1998-2002)でもある。
市民活動の振興という「NPO法」の理念は、「リベラル」な自らの政治姿勢に合致するものであり、総理総裁の座をうかがうための足がかりのひとつと考えてもいたと思われます。

以下、前掲のサイトより引用します。
((…)は略。改行、太字は引用者による。肩書は当時)

◆松原明(シーズ・市民活動を支える制度をつくる会副代表理事)

NPOは新しい概念で、どちらかといえばリベラル。加藤、鳩山、辻元さんあたりが呼び掛けているからね。山崎拓さんもいますけど、これはYKK(山崎・加藤・小泉)ラインです。NPO議連はYKKでなおかつリベラルということです。

松原明氏インタビュー

◆同上

97年12月に自民党の総務会が開かれて、自民党は総務会でオーケーが出ないと法案通らないですから。そのときに(…)一部の右派が「名前を変えるだけで通していいのか」って反対したら、加藤紘一さんが、「経団連も賛成して、山本正(日本国際交流センター)も賛成して、末次一郎(引用者注:日本青年奉仕協会会長)も賛成して、笹川陽平(日本財団)も賛成して、これだけ賛成しているのに、まだ左の法律だというのか。笹川陽平にも、俺が署名をもらいに行ったんだ」と言って、みんな黙ったという。(笑)。

座談会「NPO法制定過程における立法運動」 

当時の加藤幹事長の権勢がしのばれます。
党外の大物御意見番たちの賛成をも取り付けていることを誇示し、鶴の一声で反対派を黙らせたのです。
(「名前を変えるだけで」云々については、補遺を参照のこと)

平成10年(1998)3月、「NPO法」は可決成立しました。
しかしNPOに対する課税優遇、個人や法人がNPOに寄付した場合の控除設定などの課題は積み残したまま。
翌年の夏には改正を目指し、再び超党派のNPO議員連盟が発足。加藤議員は引き続き、会長に就任しています。


◆同上

当時の加藤さんは次期首相候補と呼ばれて、絶頂期にあったのです。(…)自民党の各会派、だから当時の竹下さんとか、田中派を継いだ経世会とはすごく仲がよかったんです。当時宏池会は、宮沢喜一さんが握っていたんですが。加藤さんは宮沢喜一さんを追い落として、宏池会の実権をにぎるということで、宏池会が割れたんですね。
加藤さんとしては、宏池会と経世会の連合を作って自民党の各派閥を抑えて、自分が首相になろうという野望をもっている。
彼は経世会を取りこめる自信もあったんですよ。
自分が首相になるときのためには、社民党ともちゃんとパイプ作りをしておかないといけないと考えて、辻元さんはその当時は社民党の次のホープなんで、辻元さんを抱き込み、他の政党の政治家を抱き込めると思って99年に議連を作ったんです。
(…)その時は一番上に加藤さんがトップで、次は鳩山さんです。鳩山さんはその議連の時の挨拶でお世辞に、ついにここで加藤政権が樹立されたようなもんですねと、お話しされたんです。

松原明氏インタビュー

自民党は、革新系の政党と連立して政権を維持していました。
「NPO法」推進派の他党議員や民間人活動家は、法案のために加藤議員を熱烈に支持し、もてはやしたことでしょう。
かたや自民党内の右派議員の一群は冷ややか。鳩山由紀夫民主党党首にお世辞を言われている姿に眉を顰める者も多かったでしょう。

いわゆる「加藤の乱」は平成12年(2000)11月のことです。
森喜朗内閣に対して野党が提出した内閣不信任案の議決に際し、加藤派の議員が造反して賛成票を投じるか否かで大騒動となったものの、不発に終わり、加藤議員の失脚につながった出来事です。


◆辻元清美(日本社会党衆議院議員)

(2000年10月)NPO議員連盟で行脚しようということで、全国4ヶ所、確か仙台、熊本とかでフォーラムをやるんです。その熊本の直後に加藤の乱が起きた。私は熊本に行けなかったんです。加藤さんが変だったんですよ。夜中に電話がかかってきて、NPOとかの話をしてるのに、「世の中がどんどん変化してるのに、自民党は変わらない」とか言う。(…)「やっぱり自民党はもう古い自民党で、だめだ、変えなきゃだめだ」みたいな。(…)
加藤さんはほんとに仙台のシンポジウムに行って、帰りの新幹線の中でひとりしゃべっていた、「時代は変わった」って。熊本からの夜中の電話は、私、今でもほんとに覚えてる。「変えなきゃだめだ、世の中変えなきゃだめだ、変えなきゃだめだ」って言い続けていた。

辻元清美氏インタビュー

◆熊代昭彦(自民党衆議院議員・自民党NPOプロジェクト座長・与党NPOプロジェクト共同座長)

自分が自民党の派閥の長として派閥の人たちに支持されているというのを分からなかったのですね。(…)民主党と結んでの加藤紘一は、派閥の人はみんな「だめだ」といって拒絶反応でしたね。メールが、ものすごく加藤支持のメールが来たみたいですけれど。野中さんは『インターネットに狂った加藤紘一』とか、論文を書いていましたね。

熊代明彦氏インタビュー

倒閣の試みは失敗におわり、次期首相候補の座から滑り落ちた加藤議員ですが、党内NPO特別委員会の委員長は続けています(3ヶ月の役職停止処分期間をのぞく)。
その後、平成14年(2002)3月に秘書が脱税で逮捕されたことや、自身も政治資金流用問題で東京地検特捜部の事情聴取を受けるなどの不祥事があり、離党して議員辞職。
しかし翌年の衆議院選挙に無所属で出馬して当選、復党を果たし、NPO委員会の委員長にも返り咲きます。以降、
平成18年(2006)、超党派NPO議連の会長に再び選出される。
〃 22年(2010)、民主党政権誕生。新生NPO議連の発起人、代表に。
〃 23年(2011)6月、「特定非営利活動促進法の一部を改正する法律案(NPO法改正案)」成立。
〃 24年(2012)12月、衆議院選挙で落選。
〃 25年(2013)5月、前衆議院議員としてNPO議連の顧問に就任。
〃 28年(2016)9月、死去。

政権への影響力は減ったかもしれませんが、晩年にいたるまで「NPO法」周辺の活動を続けていたようです。

「NPOネイティブ」を継ぐ加藤鮎子大臣

加藤鮎子議員は昭和54年(1979)うまれ。
コンサルティング企業*勤務を経て、野田聖子衆議院議員の秘書となります。
再び民間**で働き、アメリカのコロンビア大学国際公共政策大学院(SIPA)に留学。同窓に、父親同士が”YKK”と称される盟友だった小泉進次郎議員がいます。
帰国後に、父紘一議員の秘書に。***


*ドリームインキュベータ 
** 日本国際交流センター
  組織開発・リーダー研修・ファシリテーション研修のPFC
***【衆院選】加藤紘一氏三女・鮎子氏、父の敵討ちも「横一線」つば競り合い : 社会 : スポーツ報知 


平成26年(2014)12月の衆議院議員選挙で立候補し初当選。
野田聖子議員が応援メッセージで「育ての親は私です」と語っています。*
当選後は、かつて父君が設立した自民党内の公益法人・NPO等特別委員会に名を連ね、超党派NPO議員連盟にも加わっており、平成28年(2016)5月のNPO法改正にたずさわりました。**


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その他目を引く議員活動としては、宏池会、そして加藤紘一の後継者らしい中共関連のもの。
平成29年(2017)7月、野田聖子議員を団長とする女性議員9名で北京を訪れ、(当時)国務院副総理劉延東(女性)らと会見。*
同じ年の12月には二階俊博幹事長(当時)を代表とする「日中与党交流協議会」の一員に加わり、訪中しています。**


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自民・二階幹事長ら 与党訪中団が出発|日テレNEWS 


また自民党女性局としての活動も。

公式HPがメンテナンス中なのでwebachiveのリンク)
» 自民党・女性活躍推進本部での有識者ヒアリングに参加しました。 » 加藤鮎子(かとうあゆこ) Official Site (archive.org)

このときの講師は次の企業団体の方々でした。


しんぐるまざあず・ふぉーらむ – ひとり親のママと子を応援します! 
サポぴよの養育費保証|株式会社イントラスト 
conias -コニアス-|子どもの明日を守る養育相談サイト


そして令和5年(2023)9月に初入閣します。

内閣府特命担当大臣(こども政策、少子化対策、若者活躍、男女共同参画)
女性活躍担当大臣
共生社会担当大臣
孤独・孤立対策担当大臣

NPOの得意分野がてんこもりといった趣き。

その12月1日には、”NPO法制定25周年フォーラム”の交流会に参加し、来賓として挨拶。法案成立に邁進した父親世代の活動家や「NPOネイティブ」と呼ぶ次世代の若者たちに顔見世したといえそうです。
他に参加した議員・官僚は、以下のとおりです。

【超党派NPO議員連盟】
・挨拶
中谷 元衆議院議員(共同代表)
辻元清美参議院議員(共同代表)
谷合正明参議院議員(幹事長代理)
川田龍平参議院議員(事務局長)
・メッセージ
古川元久衆議院議員(副代表)
阿部俊子衆議院議員(幹事長)

【衆議院法制局】
・橘 幸信
・牛山 敦
・皆川 治之*

*開催報告 | 12/1 NPO法25周年記念フォーラムを参照

おわりに

加藤紘一元自民党幹事長が「NPO法」をライフワークとしていたこと、娘の鮎子議員も活動を引き継ぎ、NPOと縁の深い分野の大臣となったことを見てきました。
むかし「族議員」というのがありましたが、国会議員の世襲にともなって、得意分野もいわば「家業」として継承された一例かと思います。

*参考 各府省庁のNPO関連施策 (令和4年度及び令和5年度予算) 一覧 (PDF形式:1,631 KB(内閣府NPOホームページ


補遺:「市民活動」から「特定非営利活動」に

加藤幹事長肝いりの「NPO法」成立に際し、自民党右派が「名前を変えるだけで通していいのか」と反対しました(前掲の松原氏インタビュー)。
このことはWikipediaの「特定非営利活動促進法(通称NPO法)」の記事にも、次のように記されています。

参議院においては、第142回国会(引用者注:平成10年(1998)1月)まで継続審議となり、参議院自民党が「市民」の語への反発から「市民活動」を「特定非営利活動」にするなどの修正要求を行い、これを与党が受け入れ、(後略)


特定非営利活動促進法

前掲サイトのインタビュー群には、法案名に異を唱えたのは、当時の自民党参議院幹事長村上正邦議員だったことが述べられています。


◆堂本暁子(新党さきがけ参議院議員、与党NPOプロジェクト共同代表)

当時は、村上正邦さんが参議院自民党の幹事長、いわばドンといわれて、その下に代理のような立場で片山虎之助さんがいて(…)
村上さんは、「市民という字の入った法律は、俺の目の黒い内には通さん」と言う。私は、「だめだ、この名前でやらなきゃ、だめだ」と言って、また村上さんと大喧嘩。村上さんはとにかく共産党が嫌いで、市民といったらイコール共産党で、市民活動促進法は共産党のオルグを増やすものだと思っているのです。

堂本暁子氏インタビュー

◆熊代明彦

村上正邦さん、「尊師」が、なかなか「うん」と言わないわけです。私と廊下で会って「よろしくお願いします」と言うと「君は何党だ」と。要するに、こんな法律をやるのは民主党や社会党が利益を得るに違いない、と。

熊代明彦氏インタビュー

◆辻元清美

亡くなられた梶山(静六)さんだったかな、とにかく自民党の議員が部会なんかで、「何だ、こんなもん。反権力だろう、反権力ってことは反自民だろう、そんなヤツらを応援する法律をなんで通さなきゃいけないんだっ」ていう議論は、もう何回も自民党の中であったと漏れ伝わってきて。(…)
当時は「参議院の天皇」って呼ばれていました村上さんの参議院会長のお部屋に通してもらって。(…)村上さんに「名前がだめというのなら、なんという名前ならいいんですか?」と聞いてみたかったので聞いたら、「奉仕活動ではどうか」って言ったんですよ。それで私は仰天して、これ以上は聞くの、やめようって(笑)。

辻元清美氏インタビュー

◆青木利元(経団連社会貢献委員会)

(和田龍幸経団連専務理事曰く)村上議員と話をした時に、議員から、「NPO、市民活動なんていうのは、政府に楯突くもんだから駄目だ」と言われたそうです。そこで和田さんは、「いや、そうじゃない、ボランティア活動というのは社会を元気にしてくれるんですよ」と言って、村上さんを説得したということです。

経団連座談会1

村上正邦参議院議員は自民党右派の重鎮で、当時、連立政権という事情もあってとかく左派に寄りがちな加藤幹事長らの自民執行部に反発していました。
「プロ市民」という言葉はまだうまれていなかったかもしれませんが、保守派として「市民」という言葉に忌避感があったようです。
ただ阪神淡路大震災以降の市民ボランティアの広がりをきっかけにして、政府として、公益的な活動を担う民間団体を振興していこうというのは時代の趨勢でした。
村上議員側は法案名の代案として「社会貢献促進法」とか「社会奉仕活動促進法」などを出した(堂本氏インタビュー)そうですが、それはそれでアナクロに過ぎますし、法の主旨とも合っていません。
結局、いざ法案を議会に提出するという土壇場になるまで自民党議員は殆ど「NPO法」に興味がなく、中身を知って疑念を抱いても、時すでに遅しで「市民活動」を「特定非営利活動」に変更させるという抵抗しかしなかったわけです。

(終)

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