「日本語は 日本を守る 防波堤」/『日本語肯定論―〈否定〉から〈肯定〉への意識改革』津田幸男 啓文社書房 2023
現在、世界の英語人口は15億人ほど。
世界全体の人口は約81億人なので、非英語人口のほうが多いのですが、英語は、国連をはじめとする主だった国際機関において公用語に採用されており、ビジネスや学術の場においても圧倒的に有利で、発信力も拡散力もあります。各国の旅行者にとっても、最も通じやすいのは英語でしょう。
作者の津田さんいうところの、世界の「英語支配」(「英語格差」(English Divide)とも)です。
ごくありふれた日本人として、中・高・大学(一般教養)で英語科目が必修になっていることや、社会的に「英語ができる人は凄い、偉い」と考えられていることに疑問を持ったことはありませんでした。
ざっくりいえば、江戸時代おわりの開国以降の西洋コンプレックス、日本は遅れているという自虐的な価値観のもと、当然のように英語偏重の風潮があり、社会の共通認識になっているんでしょうが、これも一種の”アンコンシャスバイアス”…?
最近ではAIも普及して、話しかければ目的の言語に翻訳して音声出力してくれるような通訳アプリを、スマホでも入手できるようになりました。pdfやwebページの翻訳機能も優秀で、海外のブログや論説を読むのも容易です。
以前にくらべれば、自力で外国語を読み・書き・聞き・話さなくてもいい、便利な世の中になったなあ…と思っていたのですが、それくらいでは堅固な「英語支配」の構造は変わらないようです。
日本でも、社内公用語を英語にしている会社があったりします。
政府も、英語教育を小学校からはじめたり、英語特区なるものを設けたり、官公庁が新奇なカタカナ語を多用したり、ひきつづき英語重用に傾斜している様子です。
さらに、インバウンドや移民を推進したり、自動車免許を多言語対応にするなど、国内に外国人をどしどし招き入れ、国民が英語に触れざるを得ない機会をわざと増やしているかのようです。
日本語は、日本の国土やそこに住む人々の暮らしと不可分に育まれてきたものです。
他国では、歴史的な経緯から、王侯貴族やエリート層と一般民衆とでは使用言語が異なり、話が通じないケースも珍しくなかったけれども、日本では、万葉の昔から令和の今に至るまで、天皇から民草まで共通の言語を使い、同じように歌を詠む文化もありました。
現在、行政手続や学校教育はもとより、ある程度の各種学術研究すら「日本語で何でもできる」のは、明治のはじめや昭和の敗戦後のような、西洋上げがより強まったであろう時期ですら、功利主義にはしって安易に日本語を捨てるような真似をしなかった先人の努力のおかげです。
日本が「英語支配」秩序の波-欧米発のグローバリズム、各国の個性を度外視したイデオロギー(ポリコレ、多様性、移民・難民など)の均質化圧力の波に(今のところ)完全にはのみこまれていないのは、日本人が日本語という防波堤に守られているおかげでしょう。
卑近な例でいえば、国内でのSNSや動画サイトのコメントを利用したネット工作。
投稿された文章に、何らかの思惑がありそう・なりすまし・外国人っぽい・AI生成っぽいetcといった気配があれば、なんとなく違和感を抱く場合が多いです。
日本語を通した日本人の共感力だよなあ…と思います。
「日本語の安全保障」が必要だ、と津田さんはいいます。
日本人はもっと英語力を高めなければならない、というのは至極当然ですが、グローバル化と日本人の減少が進む今、日本語も、希少な固有種の生き物のように、積極的な保全を意識しなければ消滅してしまいかねないと思われるからです。
「英語支配」の信奉者が、”有識者”として登場して、またぞろ、
「もう日本語を廃止してしまおう。日本語なんて、日本でしか通じなくて不便だし不利」
などと言い出さないとも限らない危うさがあります。
「日本で日本語を使う権利」を明確にする、公共機関での英語使用を制限する、義務教育における国語教科を増強し、大学での一般教養に国語を加える等々の施策による「日本語の安全保障」は、翻って日本の国そのものの安全保障になるでしょう。日本の歴史やカルチャー、精神性を守ることにつながるでしょう。
ことさらに英語を排斥する必要はありません。日本語が国際公用語にならなくてもいい。
ただ、日本語は長い歴史と独自の特徴を持つ、日本固有の素敵な言語だということを、日本人として再認識することが大切なのでしょう。