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客観的になれない自己の感情

先日、久しぶりに病院で号泣してしまった。

初診で号泣して以来、診察の際に涙が止まらなくなるようなことはなくなっていたのに。
感情の波が抑えられなくなってしまった。

病院の前は、いつも簡単にメモを書く。
「臨機応変」や「アドリブ」といったことが苦手な自分にとって、診察の時間も事前準備なしでは不安で仕方ないのである。
何を言うべきか、自分は今どんな状況にあるのか、何が苦しくて、何ができていなくて、何ができていて、どうしたいのか。自分の生活と頭の中を振り返って、客観的に説明できるように文章にする。

箇条書きでも、頭の中身を整理して、その内容を脳内で反芻することで、実際の診察でも多少スムーズに話すことができる。と思っている。

とはいえ、いくらメモをして頭の中で言葉を繰り返していたとしても、実際に声に出して話せるのは半分くらいだろう。
一度脳内を振り返り始めてしまえば、次々に言葉が浮かんできてしまう。文字であれば、時間が許す限り書き出して記録できるが、会話となると話は別だ。
言いたかったことが多い分、結局何を言おうとしていたのかその場では思い出せなくなるのだと思う。

しかし、毎度のように「あれを言い忘れていた」「これを伝え忘れていた」と後悔するのももどかしい。
それなら、いっそ書いたメモをそのまま医師に見せた方が良いのではないか。

そうは思いつつも、人に見せるために書いたわけではない殴り書きの言葉の羅列を、面と向かって差し出すのはどうにも気が引けて、結局いつも記憶を頼りに言葉を発するばかりだった。

ただ、先日はどうにも情緒不安定で、待合室でメモを書き始めた時から涙がこみ上げてきてしまった。

普段は「何を言うべきか」に意識を傾け、脳内で一人会話の練習をしている。
しかし、先日は「自分が辛いと感じていること」を感情的に深掘りしてしまって、客観的な説明のための言葉を探すのではなく、自分の感情を吐き出すための言葉を探していた。

だから、普段と同じ簡単な質問に対しても、普段よりも感情が引き摺りだされてしまった。脳内ではぐるぐると言葉が渦巻くのに、声に出そうとすると嗚咽になってしまうような状態。

そうなってしまえば、殴り書きでもなんでも、他人に自分の内面を伝えられる手段は文章だけである。
そこで初めて、診察の直前に書いたメモを、医師にそのまま見せることができた。

短い言葉の連なりで、どれだけのことを伝えられたかはわからない。
それでも、言葉にしなければ伝わらないことを、言葉が発せないときに、文章として伝えられたことはきっと良い選択だったと思う。

病院で思い切り泣いたら、帰りはだいぶ気持ちが落ち着いた気がした。

普段からフラットに自分を見つめようと思っているものの、だからこそかえって抑え込んでしまっているものもあるかもしれない。

それに気が付けたことで、自分をまた少し理解できたような気がしている。