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感動や存在の意味について


感動する人を悪いとは思いません、けれどそこに政治や商業主義が絡んでいる以上は、その感動が利用されている可能性について自覚的である必要があると思います。
そして、そうやって感動を利用するという事は、それ以前にある誰かの努力、苦しみや悲しみや痛みまでも利用するという事です。

不安定な状況が続き、日々SNSやTV等の様々な情報にさらされて、余計な事まで考えて、或いは考えるのをやめたりして、そうやって特に都市で生活したりしていると、脳内中心の世界に陥りやすいのは確かです。
その時に、果たしてどこまで自分や他人の身体からの情報を素直に感覚で受け取る事が出来るのでしょう。

電車の中の広告も、街中の様々なデザインも、そのほとんどが何かの目的の為に作られています。
そうやって環境に対して常に何かの為になる事を求める社会に生きるという事は、自分自身も何かの為に生きる事を求められているという事です。
それは生きる事の可能性としては狭すぎます。
その狭さからの抜け道としても芸術は存在しているはずだし、個人の身体は誰かの為に存在している訳ではありません。
存在の無意味さの中にこそ価値があります(そもそも、その“価値”というものすら必要無いのかもしれませんが)。

勿論、感動は悪いものでは無いでしょう。
けれどそこに価値を求めるメディアの情報やエンターテイメントが重要視され過ぎていると感じます。
本来、感動は外から与えられるものでは無く、身体の内側や心から自然と生まれて来るものであるはずです。

しかし、日々の労働に追われながら情報過多の都市空間に暮らす時、そういったものが生じる隙間がいつの間にか失われてしまうという状況は間違い無くあるでしょう。
それでも、どこにいたとしても空があり、雨が降り、小さな雑草が生え、身体は勝手に生きています。

意識的に世界の無意味さの中に身を任せる事が出来れば、自分自身が無意味に存在する権利を獲得する事は出来るはずです。


芸術や踊る事の根本的な欲求はそこにあるのだと考えます。
何かの為では無いのです。

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