暮らしと学問 46 省略語は使わないほうがいい
(はじめに)ぼくは省略語を使わないようにしているのだけれども、その意義を考えてみました。例えばスマートフォンを略すると「スマホ」ですがもともとの言葉の意義をなんら秘めていませんよね。だとすれば省略できません。これって面倒くさいけれども大事なことです。
ぼくが省略語を使わないことについて
先日、職場で、「ウジケさんて、あまり略語を使わないですよね」と言われたのだけど、たしかにそうなんです。なぜかといえば、何かを省略したことをやってしまう、ここでいえば、言葉ということになるのですが、それをやってしまうと、その言葉とその対象を適切にあつかっていないような気がしてしまいまい、どうしても敬遠してしまいます。
だから、省略されるまえの長い言葉をそのまま日常生活においても常用してしまうために、ちょっと鬱陶しいやつと思われているようです
しかし、まあ、それはそれで僕の個性ですから気にしていませんし、省略しすぎることで、もともとのそれと遠ざかってしまう可能性があることに、何の恥じらいもないことこそ問題じゃないのかなあと思ってしまうのも事実です。
その意味では、言葉そのもの、あるいは、存在そのものを迂闊に扱わないことって、人間の存在に対しても同じなんじゃないのかなあと思ったります。
そのやり方は、クレバーじゃないよ
しかし、同じような指摘として……そしてそのコインの表の裏側という意味になるのですが……「ウジケさんは、カタカナ語が多すぎ」という批判を毎日浴びています。
しかし…英語で言う「クレバー」(clever)って、例えば「機知に富んだ」とか「教養に裏付けられた」云云と翻訳は不可能ではないのだけれども、それを説明的な修飾節として乗っけてやるよも、
「そのやり方は、クレバーじゃないよ」
と言ってしまうのって傲慢なのかしらん?
ええい、めんどくさいのならば、
「そのやり方は、クレバーじゃないよ。つまり、合理的な根拠の裏付けを欠いた、一回キリの特攻大作戦がたまたま成功しただけですよね。科学の基本は万人に対する再現可能性ということに尽きます。その意味では、あなたのやり方と、それをスタンダードにしようという提案は、スマートではなく受け入れることができません」
とでも言ったほうがいいのかしらん?
スマホって何?
省略語と同じ話にはならないのだけれども、たとえば、
「あのひとは短気すぎる」
というような言い方が実在します。そしてその「あのひと」が短気であることは事実なのだけれども、ぼくとしては、人称代名詞が主語に冠されるときに、その述語を唯一無二の言葉に置き換えることには躊躇してしまいます。なぜなら、その述語がその「あのひと」の全体性を表象するわけではないからです。
あたりまえといえばあたりまえの話ですが、しかし、ときとして述語されたひとつの特色がその主語のすべてを修飾してしまい、不幸な結末へと導いてきたのが、人間の歴史だからです。
たしかに「あのひとは短気すぎる」のですが、それでも「面倒見がよかったり」もしますよね。だとすれば「あのひとは短気すぎるのだけど、それは居所の悪い時だから気にしないほうがいいよ」と付け加えたります。
とすると、「ウジケさん、いいひと過ぎませんか?」
と揶揄されたりもするのですが、それぐらいの、短縮しない、あるいは、補足するぐらいの精神的な余裕、あるいは言語運用って、短縮語が万能な時代だからこそ必要なのじゃないのかなあと考えるのだけど、みなさんどうでしょうか?
例えば、スマートフォンを略して「スマホ」と称しますが、これってなにも略してないですよね。「スマ」プラス「ホ」の「ホ」って「スマートフォン」のどこにも「ねえや」った話で、どんどん、もともとのそれから「遠ざかった」伝言ゲームの紆余曲折の末で僕は好きじゃない。