海の不思議 不思議の海 :海皇宗治
今からするお話は僕が実際に遭遇したほんとうに本当の話です。
もしかしたら僕はあの時、一生で一度だけ、別な世界に限りなく近づいてしまっていたのかもしれない、そんな話なのです。
この話は僕にとってあまりにも不思議な出来事であり、他に誰も証人はおらず、自分自身でもそれがほんとうに有ったことだったのか疑ってしまうようなことだったので、他人に話しても信じてもらえるとは思えず、今まで誰にも話したことがなかったのです。・・・・・・・ <本文から>
序 「塀にある扉」
「タイムマシン」や「宇宙戦争」を書き近代SFの祖と呼ばれるH・G・ウェルズに「塀にある扉」という奇妙な肌合いを持った短編があります。
語り手の青年が、ある晩、パブで一人で飲んでいる大学時代の友人に出合い、奇妙な話を聞かされるのです。その友人は、大学を彼とは違って最優秀な成績で卒業し、実業界で華々しい成功を収め、美しい妻と結婚し、いまや政界に打って出ようかというまさに前途洋々の青年実業家なのです。
「僕は子供のころ、まだ四・五歳の頃だったろうか、乳母にはぐれてロンドンの街で迷子になってしまったことがあるんだ。」
と彼は話し出す。
彼が困って歩き回っていると古めかしい路地が目に入り、白い塀が続き赤い蔦が絡みついていて夕日が照らしていた。それがなんとなく気になって、入っていくと壁に小さな扉があり、しばらく躊躇したが、結局彼は好奇心に負けてその扉を押してしまう。すると鍵がかかっておらず、幼い彼はその中に入っていく。
扉の向こうは、大きな邸宅で、明るい光が燦燦とさす広い芝生が拡がり、男の子や女の子が沢山遊んでいて、よく来たねと歓迎してくれた。そこにはおとなしい大きな黒豹も居て、圧倒的な幸福感の中で幼い彼は時も忘れて遊んでいた。
するとそこに背の高い美しい女の人が現れ彼を手招きする、他の子たちが行っちゃ駄目だというのを振り切って彼はその女の人の所に行く。ベンチに並んで座ると女の人が持ってきた大きな絵本を開く。その中には、不思議なことに彼自身が生まれてからのことが描かれている。女の人が綺麗な指先でめくってくれるその絵本に彼は夢中で魅入ってしまう。そしてページは繰られ、彼が塀にある扉を開けようか躊躇している場面に至る。と、そこで女の人はページをめくるのをやめ「ここから先は駄目」という。「いやだ。見たいよ。」女の人の手を押しのけて次のページを開くと、すべてが消え、彼はロンドンの街に一人で泣いているところを乳母に発見されて家に帰るのだ。
その後、彼はその塀の中の世界が忘れられずに、あの路地と扉を探し続けるがどうしても見つからない、一・二度、彼はその路地を見かけた気がするのだが、それが大学の試験の発表を見に行くときであったり、結婚式に向かう馬車の中からであったりで、通り過ぎざるを得なかった。
「けれど僕は、もし今度、あの扉をみつけることができたなら、どんなことが有ってもその中に入るつもりなんだ。」と彼はその話を締めくくる。
次の朝、目覚めた語り手の青年は、昨夜は彼がやけに真剣に話すので危うく信じかけてしまったが、そんなことが本当にあるわけはないし、彼にうまく担がれてしまったなと、それきりこの話を忘れてしまうのだ。
しかし、しばらく経ったある日、新聞を見て愕然とする。
彼が死んだのだ。
ある夜、彼はだれもいない工事現場の鍵のかかっていなかった扉から入り込み、中に掘られた穴に落ちて死んでいたという。なぜ彼がそんな所に入って死んでいたのか全くわからないと新聞は書く。
この記事を見て語り手はいう。
「あの奇妙な話は彼にとっては本当の話だったんだ。彼は子供のころに見た楽園の夢に裏切られ、騙されて死んだのかもしれない。」と、
そして、こう続けるのだ。
「もしそれが本当なら、この世界の常識からすれば、彼は愚かな死に方をしたものだと見える。
しかし、彼がその扉の向こうに見たものが何であったのか、彼以外のものに何がわかるというのか。」と。
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僕はこの短編を中学生の頃に読みました。ここまで書いたあらすじはその当時何度か読んだ時の記憶だけに基づくものなので、思い違いなど沢山あると思いますが、それでも、今大切なのは、僕がこの物語を何十年も後に至るもこのように理解し記憶していたということだけなので、間違いについてはどうかご寛恕ください。
今からするお話は 僕が実際に遭遇したほんとうに本当の話です。
もしかしたら僕はあの時、一生で一度だけ、別な世界に限りなく近づいてしまっていたのかもしれない、そんな話なのです。
この話は僕にとってあまりにも不思議な出来事であり、他に誰も証人はおらず、自分自身でもそれがほんとうに有ったことだったのか疑ってしまうようなことだったので、他人に話しても信じてもらえるとは思えず、今まで誰にも話したことがなかったのです。
けれど、今頃になって、なぜか、あれは何だったのだろうと思い出されることが多くなり、もしかしたらあの時あれを見た人が他にも居たかもしれない、または、そんなことが起きる可能性があるものかないものか説明してくれる人がどこかにいるかもしれないなどと思うようになり、そのことについて書き残して置きたいと思うようになったのです。
1 千本浜
それがあったのはいつのことだったか、はっきりした日時は思い出せないのですが、僕が静岡県の沼津市に住んでいた頃のことであるのは間違いないので、1986年から2001年の間のいつかということになるはずです。
沼津市は静岡県の東部に位置し、東京から行くと小田原から国道1号線で箱根を越えて向こう側に降りた伊豆半島の西側の付け根にあたる駿河湾に面した広い市です。
当時、僕は沼津市の某会社で働いていて、会社からほど近い独身寮に住んでいました。
会社までは自転車で七~八分で行けました。
僕は設計の仕事をしていたのですがとにかく滅茶苦茶に忙しくて、土日も夏休みも冬休みもまともに休んだ記憶はなく、夜中十二時過ぎまで会社にいるのは当たり前というような毎日でした。
仕事自体は面白くてやりがいもあったのですが、プロジェクトのリーダーとしてチームを引っ張らなければならない立場でしたので責任も重くプレッシャーもかかっていて、今思えばよくあんなことができたもんだと思うくらい心身共にハードな状態が続いていたのでした。
そんな生活の中で、僕が秘かに続けていたことがありました。
実は僕は時間が空く日はいつも昼休みに海まで泳ぎに行っていたのです。
昼休みにジョギングをしているという人は何人かいましたが、海で泳いでくるなんていう人は流石に見かけたことはありませんでした。
「昼休みの遊泳の禁止」などという想定外の事項は服務規定には記載されていませんでしたが、上司などに知れると危険だからなどと中止命令を出される怖れもあったので、海で泳いでいることを僕が話していたのは会社でも心を許した友人だけで、ほかの人には多分それほど知られていなかっただろうと思います。
当時の生活はこんな感じでした。
朝、自転車で会社に行き午前中必死で仕事をする。
そして十二時になるとすぐにシャワー室(なぜかその会社にはお湯の出る一人しか入れない狭くて古めかしいシャワー室があったのです)に駆け付け、上はTシャツ、下は海パンの上に短パンというスタイルに着替え、スニーカーを裸足で履き、タオルを片手に握りしめて海に向かいます。
守衛さんに手を振って門を出ると海までは1km強、南に向かってゆっくり走り、東海道線の踏切を越え、国道一号線の旧道:昔の東海道を渡って、向いに続く松の防風林の中を抜けていくと防波堤があり、駆け上ると、眼前には広い広い海が一気に広がるのです。
防波堤から波打際までは約百m、凸凹な傾斜が海へと続き、その向こうは、遥か水平線まで駿河湾が拡がっています。浜は左右に長く延び、左手には伊豆半島が遠く突き出し、右側遥か向こうには富士市の製紙工場の煙、その向こうに三保の松原、天気の良い日はさらに遠く御前崎が霞んで見えます。
周囲を見渡し、深呼吸をして波や風の様子などを確認した後、防波堤を駆け下りて波打際に向かいます。
準備運動はそこまでのジョギングで出来上がっていますから、靴を脱ぎ、着ているものを脱ぎ捨てれば準備はOK、すぐに海に入って十五分も泳ぐと上がって、濡れた体をタオルで軽く拭いて、水着の上から短パン、Tシャツを身に着け、会社に戻り、シャワーを浴びて着替えるともう昼休みは終わり、午後から夜中までまた必死に働いて自転車で寮に戻り、疲れ切って寝るといった毎日でした。
私が泳いでいた海岸は千本浜、その意味は千本松原の浜ということで、昔は、白砂青松の風光明媚な海岸だったそうです。けれどいつの頃からか護岸工事の影響等で潮の流れが変わって砂がなくなってしまい、そのあたりは玉石の浜に変わっていました。
防波堤のせいで松林も碌々見えず、松林の彼方の富士山も見えず、コンクリートの堤の下から浜が続くだけの風景になっていますのであまり風情は感ぜられなくなっていたのですが、でも大きさ2~3cmの粒ぞろいの玉石はつるつるして丸く、水に濡れると赤や茶色や緑や白など色々な色が交ざっていてとても綺麗でしたし、砂や泥が舞わないお陰で水も濁らず、水から上がった後、体や足が砂まみれにならずに済んだので、そうなっていたことは僕にとってはとても有難いことでした。
この場所はいわゆる海水浴場といったものではなく、監視員などいませんし波打際から少し行くともうすぐに背が立たなくなる急深になっていて、泳げない人が波に引きずられて深みにはまり溺れてしまうなどということも有ったりしたようで遊泳禁止の看板が立っていました。
でも泳ぎに自信のある僕にとっては、急深なのはすぐに泳げる深さになってくれるということですので時間を無駄にしなくて済み、かえって好都合なことでした。
海に入って、お臍位の深さまで来たら、体に水をかけて、頭まで潜って、打ち寄せた波が引くのに乗って沖に向かって泳ぎ始める。
そうして海に包まれて海を全身で感じると、ああ海に還ってきたんだという幸福感があふれてきて、毎日のストレスがすーっと溶けていくのが感じられるのでした。
僕が、当時のハードな生活の中で精神のバランスをなんとか保つことができたのは、毎日の昼休みに海と触れ合うわずかな時間を持てたおかげだったかもしれないと、今でも思い返すのです。
それにしても、ほんとうによく海に通いました。
ある年などは春から夏、夏を過ぎて秋、秋を過ぎて冬、冬を過ぎて次の春まで休まず泳いだものでした。
海の風景は毎日違うのです。
日射しの強さ、暖かさ、空の色、光の色、雲の形、
打ち寄せる波の高さとリズム、
潮騒の音、吹きつける風の中の磯の香り、
玉石の浜の起伏や凹凸だって毎日少しずつ変化しているのでした。
海の水の透明度も、少しずつ変化していました。
春先の透明な海が夏になるとプランクトンが増えるせいか濁ってきて透明度が落ちてきます。
それが九月に入るとすーっと澄んでくるのです。
僕は九月終わりから十月半ばくらいの晴れて暖かい日の海が一番好きでした。
水がほんとに綺麗に透き通って、日差しは夏のように暴力的ではなく穏やかで、しかも水温はまだ充分に温かく優しいのです。
日射しが最も強くなるのは六月末の夏至の日です。陸が温まるのはそれより一ケ月半遅れて八月中旬、海が温まるのはさらに一ケ月位遅れて九月中・下旬になるというわけなのでしょうか。
十一月も半ばを過ぎると気温も水温も下がってきます。
散歩だか釣りだかで通りかかったおじさんが「お兄さん、寒くないの?」と聞いてくるので「寒いですよ」と返したら「ふうん。」と首をかしげて行ってしまいました。
勿論寒いのですが、毎日泳いでいるので体が慣れていること。駿河湾は黒潮が入ってくるので真冬でも水温は比較的高く十度を切ることはなかったのではないかと思われること。そして最初は冷たくても、水を体にかけて、思い切って頭から海に潜って、海に身も心も委ねて一体になってしまうと寒いという感覚がどこかに行ってしまうのです。
といってもほんとに寒いときは少し泳ぐともう海から上がってしまうのですが、実は上がった後の濡れた体で会社まで走っていく道すがらが寒くて寒くて、シャワー室に飛び込んで熱くしたお湯をしばらく出しっぱなしで頭からかけてようやく人心地が付くという感じでした。
お天気も晴ればかりではないわけですが、どうせ海に入れば頭からずぶ濡れになるのですから関係ないと土砂降りの日でも全く関係なく通ったのでした。
海が荒れた日はどうしたか?
とりあえず行く。そうして波が打ち寄せるのを観察して、行けると思ったら行く。これはちょっとやばそうだと判断したら波を眺めただけで帰ってくる。
遥か沖合から大波が隊列を成して次々に押し寄せて砕ける様子は見ているだけでも胸がすくのでした。
といっても、どうしようかなと波をみているうちに泳ぎたい気持ちの方が強くなってきてしまい、少しくらいの波であれば、行ってしまえと海に入ってしまうのが常でした。
波には大きなリズムがあって、大きな波が続いた後に、小さい波がしばらく続くといったことが起きるのです。
ですから少し治まったときを狙って、打ち寄せた波が引くのに乗じて沖に向かって海底を這うように潜っていき、次の波が砕ける前にその下を抜けて砕波帯を一気に通過してしまえば、もう大丈夫で、通過してゆく波に乗って上がったり下がったりしながら、沖側から波が岸に進んでいって砕け散るさまを見ているのはとても壮快で面白いアトラクションでした。
問題は戻るときで、泳ぎながらだと波の高さとリズムがうまく見えなくて、波が静まるタイミングが読めないのです。
打ち寄せる波に乗って一生懸命泳いで岸に向かうのですが、波の方が速いですから追い越されてしまい、浅瀬にたどり着けないうちに、その波が、引き波になって戻ってくるのにつかまって沖の方に引きずりこまれ、そこへやってきた次の波が想定外の大波で、まともに崩れてくるのに呑み込まれたりするともう大変、波に巻かれて水の中で二~三回ぐるぐる回されるとどちらが上かもわからなくなるのですが、そこはあわてず息を止めてしばらく待って上方を見定めて浮き上がり、顔を出して息を吸い、改めて岸に向かうのです。
一度、そうして顔を出した瞬間にまた次の波がかぶさってきて息を吸えずにグルグルと回され、その時点ではまだ息に余裕はありましたが、これでもう一度次の波に巻かれるとちょっときついかななんて思ったこともありました。まあ次はちゃんと息が吸えたのでここでこうしているわけですが・・・。
前置きが長くなりすみません。
それは、そんな千本浜の海に突然現れて消えた不思議の海に関することなのです。
そろそろ本題の、海の不思議について語り始めましょう。
2 台風の襲来
それが起きたのは、七月か八月の夏の盛りの時期でした。
台風が接近してきていたのです。
台風はその日の明け方から午前中にかけて沼津の直上を通過してゆく予報になっていました。
その前日も、定かではないのですが僕は泳いだような気がします。この時だったか他の台風の時だったか、とにかく僕には台風の前日に泳いだという記憶が確かにあるのです。
先ほど書いた、波の中で何度もグルグル回されたこと、灰色の空の下、降りしきる雨の中で堂々と整列して陸に向かって進軍する大きな波の隊列を沖側から上がり下がりしながら見たという記憶が、そのときのことだったのか、別な嵐の時であったかは、もう区別がつかないのですが、
少なくとも前日も僕は海に行ったことは確かで、海にはすでに大きなうねりが入ってきていて背よりも高い波が押し寄せてきているのを見ていたはずです。
もしも泳いだのは別な台風の時で、その時は泳ぐのをあきらめていたとしたら、それはその時の波がもっとすごかったということになるのだろうと思うのです。
その台風は強い勢力を保ったまま予報通りの進路で真直ぐに近づいてきており、暴風圏に入った沼津は夜半から風も雨も強まり大荒れだったように思います。
午前中、僕は仕事をしながら海のことを考えていました。どうしようかな、いくらなんでも今日は泳ぐのは無理だし、行くのはやめようかな、でも泳がなかったとしても、見るだけでも嵐の海を見てみたい、という気持ちが抑えきれず、とにかく行くだけは行ってみようということにしたのです。
昼前に台風は沼津を抜けたようで、台風一過の言葉通り、天気は急速に回復しだし、工場の門を出た時にはすでに雨は上がって陽が差しはじめていました。
いつものように南に向かい、旧一号線を渡って防風林に入ったとき、あれっと思いました。
音が無かったのです。
海が荒れて大波が打ち寄せている日は、松林に入ると堤防越しに波が轟く音が響いてくるのです。
いつもその音で波の大きさを想像し今日は泳げるかな、無理かな、などと考えながら防波堤に向かうのでした。
その日、台風は沼津を抜けたといってもまだそんなに遠くではなく、伊豆半島の向こう側のまだ熱海とか小田原の付近にいたはずなのです。
なのに松林の中はしんと静かだったのです。
どうしたんだろう。
首をかしげながら防波堤に駆け上がり、海を見渡した時、思わず息を呑みました。
景色が一変していたのです。
3 不思議の海が開かれた
目の前の千本浜の、昨日までデコボコしていた浜が、まるで雪の降った朝のように、防波堤の根元から百m先の海まで一直線のなだらかで滑らかなスロープに均されていたのです。
頭上には雲一つない真っ青な空が拡がり、太陽が中天に眩しく輝いていました。
空気中のすべてのごみが嵐によって洗い流されたのか、空気が本当に澄んでいて風景がくっきりと鮮やかに見えました。
左右を見渡すと、長い千本浜は、見渡す限りのすべてがその滑らかなスロープに変わっており、正午過ぎの陽光のもとできらきらと白く光っていたのです。
防波堤を降りてみると、壁の直下には一抱えもある太い流木が転がっていました。
僕は処女雪の上に跡を付けるように、その滑らかな玉石の浜に一筋の足跡を残しながら汀に降りて行きました。
すると、ほんとうに不思議なことに、波打際からはるか沖合まで広い広い海面は鏡のように平らで皺ひとつなく、波というものが全く消えてしまっていたのです。
風が全く止んでいました。
浜には人っ子一人いませんでした。
風が止まり、波が打ち寄せるのを止めて潮騒の途絶えた無人の浜は物音一つせず、時が止まってしまったのかのような静寂に包まれていたのです。
けれど汀に近づきよく見ると、水面は波一つない真っ平なままで、その全体がまるで息をしているかのように、すーうっ すーうっと、ゆっくりした周期で上ったり下ったりを繰り返しているのでした。
そして海の水はこの時期のこの浜には有得ないほどに綺麗に透き通っていて、まるで南の島の珊瑚礁が引っ越してきたみたいだと思ったのでした。
僕は服を脱いで、その透明な水に入り、頭まで潜って泳ぎ始めました。すると、なんということでしょう。ほんとうに信じ難いことですが、水の中には黄色と黒の模様の五~六cmくらいの熱帯魚みたいな魚が群れをなしてひらひらと泳ぎまわっていたのです。
その昼休み、僕は、眩しい太陽と雲一つない青空の下で、夢の中にいるような幸福感の中で魚たちを追いかけたり水面に浮かんだりして過ごしました。
そんなにも眩しい夏の光が降り注いでいたのに空気は涼しく水も清涼だったのです。まるで生まれたばかりの地球にいるような・・・。
帰りたくないと思いました。
会社に帰るのをやめて午後中ずっとこのまま海と遊んでいたいと心から思いました。
けれど、会社には僕が毎日海に行っていることを知っている友人がいました。もし僕が昼休みが終わっても海から帰って来ていないことを知ったら、ひどく心配して、下手をすると警察か消防に通報して捜索隊が出るような騒ぎになるかもしれない。そんなことが頭に浮かんで、僕は後ろ髪をひかれながらその不思議の海に別れて会社に戻ったのでした。
次の日、昼休みを待ちかねて海に向かった時、もう魔法は失われていました。
空は晴れていましたが水蒸気が多いもやっとした空気になっていてじりじりと暑く、水ももう透明度の低いいつもの水に戻っていました。
波がのったりと寄せては返して、のんびりした潮騒を立てており、家族連れが2-3組歓声をあげて遊んでいました。もちろんあの魚たちなど影も形もなく、あの魔法の海はどこかに消えて行ってしまっていたのでした。
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信じようと信じまいと、これが僕の体験した不思議の海のお話の全てです。
4 あれは何だったのだろう?
僕は、その後何度もこの時のことを思い返しました。
あれは何だったんだろう?
僕が生まれたのは東京の青山です。僕の家は明治の始めに京都から移ってきたという家で、代々、本好きだったとみえて、家の中には明治、大正、昭和の本が時代もジャンルも問わず、なんの区別もなく入り混じって溢れかえっていました。僕は子供の頃から、そうした本の山を漁って手あたり次第に読みふけっていました。
中でも、僕が特に好きだったのは、神話や伝説、ファンタジーとか幻想小説、空想科学小説などの、この世界とはちょっと異なる別な世界を描いた物語でした。
当時の僕は、自分が本来あるべき世界はここではなくて、どこか他にあるのではないかという、別世界、ユートピア幻想に捕らわれていて、「飛ぶ船」の魔法のお店、「ナルニア国」の衣裳箪笥、「アリスの兎の穴」、宮沢賢治のイーハトーヴォ、また序に書いたウェルズの「塀にある扉」に書かれたような別世界への入り口にいつか自分が出会えることを夢見、願い続けていました。
このため、僕はあの時もしかしたらほんとうに別世界に出合ってしまったのだろうか、松林を抜けたときに「塀にある扉」をくぐってしまったのだろうか?などということも考えたりしました。
またウェルズの扉の中の楽園は死後の世界のようにも思われる、とすると、あの日僕は嵐の海の中で溺れかけ、意識を失い、その中で夢を見たとでもいうのだろうか?
でも僕はあの日ちゃんと会社に戻って仕事をしているし、そんな臨死体験をしているような空白はありはしなかった。
それとも、あれはほんとうに起きたことではなく、単に好きが嵩じて夢にでもみたことを現実と混同したのだろうか。
けれど、あの日、防波堤から見渡した時の汀まで滑らかなスロープ、爽やかに澄んだ空気、雲ひとつない青空に輝いていた太陽、転がっていた太い流木、風の音も波の音も絶えた静寂、鏡のような水面がそのまま上下する様子、本当に透き通って清涼感のあった水とその感触、熱帯魚のような魚の群れ、不思議なほど充足した幸福感などは、どれもが疑いようのない鮮明な記憶として蘇り、夢などではなかったと感じられるのです。
しかし、あれがほんとうに起きたことだとするならば、それは一体どのように現れ、消えていったのだろうか?
僕は、先に書いたように、この不思議な話を誰にもしませんでした。
話したって、どうせ信じてもらうことはできないだろうし、そうしたことでこの体験を傷つけたくない、そうっと自分だけの宝物として持っていればそれでよいと思っていたのです。
けれども、やはりこの話を、いつかは誰かに話してみたい、という気持ちは持ち続けていました。
今回、このようにそれを書き止めているうちに、あれは一体なんだったのかということについての疑問が、改めて膨れ上がってきたのです。
僕は夢見ることが大好きで、魔法とか妖精とかに出会ってみたいと心から願っています。でもその一方で僕は技術者です。不思議なことについて頭から否定はしませんが、まず、物理学の法則で説明できるかどうか検証されねばならないと思っています。
爺ちゃんの名にかけて・・・、
何が起きたのか、自分の力でその謎にできる限り迫ってみようと思い立ちました。
謎1 防波堤から汀まで滑らかにスロープを成した浜
これについては、何が起きていたのか、かなり自信をもって推測することができます。
あの日の明け方から午前にかけて台風が最接近した時、大潮が重なるなどして海面がとんでもなく高くなり、波が直接防波堤に打ちつけるという事態になっていたということなのです。
普段の汀から防波堤の下まで約100mの距離があります。傾斜が2~3%とすれば、標高差も2~3m、潮位が2~3mも上がり、あの百mの浜が全没し大波が直接防波堤に叩きつけているなんて、信じられないようなものすごい状況だったと思いますし、僕が行った時にはもう元の汀に戻り完全な凪になっていましたからなおさら信じがたいことではあるのですが、波がそこまで来ていたことは前日まで無かったあの防波堤直下に打ち上げられた太い流木が証明しており、あの綺麗な浜はその高潮が引いていくときに均していったのだ考えれば説明がつくと思うのです。
謎2 空気が澄んでいたこと は、嵐が空気中の塵を皆落としてくれたから、
謎3 波が消え鏡の様な水面だったこと
については、あの時のように風が完全に止まり凪の状態になっていれば、そういうことも有り得ないとはいいきれないのではないか。
謎4 サンゴ礁のように透明な水
海の水が有得ないほど透明で熱帯魚が泳いでいた。千本浜にほんの一瞬だけ珊瑚礁が引っ越してきたという現象、これがなんといっても一番の謎なのですが、もしかしたら、その謎が解けたかもしれません。
防波堤に打ち寄せるほどの高潮が押し寄せたことを事実と認めたとして、そうするとどうなるのか?その先を考えてみたのです。
最初に、これは駿河湾全体に起きたことだったのか、千本浜付近だけに起こったことなのだろうかということを考えました。答えは後者だと思うのです。もしも駿河湾全域でそんなにも水位が上がったとしたら、多分各所で被害も出たであろうし、大きなニュースになっていたと思うのです。
けれどそれはなかった。
とすると千本浜付近の比較的せまい範囲だけに起きたことなのではないか。
考えたのは風の影響です。大潮などの潮の満ち干も影響していたと思いますが、前が大きく開かれた千本浜では毎日通っていても満潮か干潮かはほとんど気づかない程度でしたから潮の影響だけでそんなに水位が上下するということは考えられません。
そうすると低気圧による水位上昇、そしてやはり風ではないか、台風の接近で強い西風が吹き荒れ、駿河湾の海水が東奥に位置する千本浜の側に向かって吹き寄せられ、押し込まれて水位が急上昇した。風がやんだとき、潮は一気に引いていって浜を均していったと考えるのです。
と思ってネットで検索をしてみると気象庁のホームページなどに台風による高潮のメカニズムが詳しく解説されており、低気圧による吸い上げ効果、風による吹き寄せ効果、これに満潮の影響などが加わるといったことがその通り書かれており、吸い上げ効果は1hPaにつき1cm、960hPaくらいの大型台風だったとして40cmくらいの上昇となる。そしてやはり一番大きいのは吹き寄せ効果で、湾の奥などでは影響が大きくなり風速20m以上が続いた八丈島で3m近い高潮が観測されたという事例などがみつかりました。ですから湾奥の千本浜で2~3mの高潮が起きるということは有得ないことではなかったと考えられるのです。
それに今気付いたのですが、潮位が2~3mも上がる必要はなかったんですね。波の高さがありました。要するに低気圧による吸い上げ、風による吹き寄せ、大潮に波高を足したものが2~3mになればよいのであり、そうだとすると潮位上昇のハードルはかなり低くなると思います。
それでは、このような高潮の発生が可能だったとしたら一体何が起きるんだろう。
あっ 水が入れ替わったんだと、思いました。
高潮が発生したということは、沖合から大量の水が沿岸に吹き寄せられ流れ込んだということになります。このとき、綺麗で清涼な沖合の水が、いつもは停滞している岸近くの濁って生温く暖められた水を押し流し、入れ替わるということが起きたのではないかということなのです。
謎5 熱帯魚の群れ
そして、沖合の水が入ってきていたとすると、その中にいた魚たちが一緒に浅瀬まで押し流されてくるということは十分有り得るのではないかと思います。
と言ったって、熱帯魚を見たことについては謎のままです?
駿河湾になぜ熱帯魚が居たのか?
駿河湾に熱帯魚は居るのか?
調べてみてびっくりしました、
いたのです!
ネットで調べてみて、最初にみつかったのは、「日本の魚類は淡水魚を含め約2,300種であり、駿河湾内にはこの内の約1,000種の魚類が生息している魚類の宝庫である」という記事でした。
駿河湾はほんとうに不思議な特異な海で、湾内最深部の深さ2500mというのは、二位相模湾の1500m、三位富山湾の900mを断トツで抜く日本最深なのです。
それならばと検索を続けると、なんと「駿河湾で熱帯魚を釣りあげました。」という記事にぶつかったのです。上の写真がそれです。下のような魚を釣り上げたという記事も続いて見つかりました。
写真上が巾着鯛、下が駕籠かき鯛というそうで、駿河湾の中ではそれほど珍しくはなく岸壁からでも釣れることがあるようだったのです。
あの時群れを成して泳いでいたのがどんな風だったか、記憶はもはや時の霞の中ですが、もしこんな魚が泳いでいたら熱帯魚が居たと感じるだろうということは確かだと思います。
謎6 不思議なほど充足した幸福感
あの時、雲ひとつない青空に太陽が輝いていて、風がなかったにもかかわらずじりじりした暑さがなく爽やかな心地よい暑さだったというのは沖合の深いところの温度が低い海水が入ってきたことが影響していたのかもしれません。
空気が宝石のように澄んで、水がほんとうに透明で綺麗で、だれの足跡も無いなだらかなスロープの玉石の浜がきらきら光って、熱帯魚に囲まれて、不快指数は0、快指数?は100、これで幸せでなかったらどうするというくらいでしたから、幸福を感じるのは当たり前ですね。
5 それはいつのことだったのか?
こうして考えてみると、もちろん様々な条件が奇跡のように重なった末の出来事であるにしても、絶対に物理的に有得ないことではなかったのだと思えてきました。
しかし、不可能ではないことと実際にそれが起きたということは違います。
それが夢ではなく、ほんとうに起きたことだという証拠はないか?
まず、それがいつのことだったか特定できないだろうか?
気象庁のデータベースで、過去に沼津地方に接近した台風の日付と経路について記録を調べてみました。
その結果複数の候補があがりましたが、結論からいうと特定はできませんでした。
その時どのくらいの気圧だったか、風速は、潮位は等の付帯状況が分からなくて、経路だけでは、残念ながら、あのような現象を引き起こし得る台風があったのか絞り込む段階には至れませんでした。
残るのは証人、証拠探しです。
過去の台風来襲時に、
*夜半から午前中にかけて千本浜の防波堤まで波が打ち付けるような、そんな潮位上 昇があったか?
*正午ごろ無風状態になったか?
などが何らかの記録に残されていないだろうか?
また、次のことが起きたことを見たという人がどこかにいないだろうか?
*あのなだらかに均された浜を見たという人、
*鏡のような水面を見た人、
*澄んだ水を見た人
*浅瀬を泳ぐ熱帯魚を見たという人、
もしも、そんな人が居て、この文章を読んでいただけたなら、連絡を欲しいと切に願っています。
(了)
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