見出し画像

倫理社会最後の授業:忘れ得ぬ先生のこと


1 高校2年3月、倫社最後の授業は?

 これは私が高校2年生の時の話です。

 この話は今も鮮明に記憶に残っているのですが、思えばはるか昔、もう何十年も前の話になるのですね。

 私は当時某都立、仮名南山高校に通っていました。

 時は3月、次の週に期末テストを控え、倫理社会の授業はその日が年度の最後でした。
 もっと言えば倫理社会は2年生の時の1年間だけでしたから、倫理社会自体の最後の授業になるのでした。

 その日、教室に入ってきた倫社担当の高橋先生は冒頭に、

「来週から期末テストが始まりますが、皆さんがよかったらこの授業を自習にしましょうか。」

 と言われたのです。

 皆はワーッと喜んで、早速各自好きな教科の教科書を出して自習を始めたのでした。

 しかし、へそ曲がりの私は、ムカムカっと腹が立ったのです。

 なぜなら、私は高橋先生の倫社の授業がかなり好きだったのです。

2 南山カルダン:高橋先生

 高橋先生は長身痩躯、理知的な秀でた額、紺のスーツを隙なく着こなした姿はシュっとしていて、女子生徒の間では南山カルダンという綽名で呼ばれ、高い人気を博していました。

 余談ですが、当時は高橋先生に限らず、授業の時は先生は皆スーツを着用していました。別に高級品というのではなく何度も洗濯を繰り返したという感じの普段使いのスーツでしたが、ジャージで授業をするなんて有得ない、それが当然の礼儀とされていたのです。

 私は女子生徒ではありませんでしたから、高橋先生の外見のかっこよさに惹かれるなんてことはありませんでした。
 けれど、授業の際に左手をポケットに突っ込み、右手に持ったチョークで黒板一杯に何やら書付けながら、デカルトやカントなど哲人達の事績や思想、八正道や本体界の話等を熱く語るのを聴くのは好きでした。
 そんなとき、先生の眼は俗人離れし、遠く天上界を見ているようで、自身が哲人のようでした。

3 高2の修学旅行で、先生の部屋に議論しに来た生徒に何があったのか?

 高橋先生はその年学年主任をされていました。
 2年の秋に修学旅行があり、旅行先は紀伊半島でした。
 団塊世代の頃のこととて、1学年で50人10クラスもあったので、全員が一緒の統一行動はとてもできず、5クラスは新幹線の名古屋から時計回りで紀伊半島を伊勢志摩、勝浦と南下、和歌山を北上して吉野に入り、奈良を通って京都から新幹線で帰り、もう5クラスは京都まで行って紀伊半島を反時計回りの逆コースで回って名古屋から帰るという形になっていました。

 私は、名古屋からの時計回りコースでしたが、両コースが合流して一泊した勝浦の宿は盛り上がりました。
 その夜、元気のいい生徒が何人か、先生の部屋に押しかけて色々議論を吹っ掛けたということがあったそうなのです。
 もう半世紀も前の話で時効と思うので書いてしまいますが、その時高橋先生を筆頭とする先生方は、あろうことか、まあ吞め、まあ吞めと生徒たちにビールをガンガン飲ませて議論をしたそうなのです。
 私はそんな楽しいことが起きているとはつゆ知らず部屋で仲間たちとグダグダしていたので、残念ながらそこでどんなことがあり、どんな話をしたのか何も知らなかったのですが、今の時代に教師が多数の生徒に酒を飲ませたなんてことをやったらどんなことになってしまうのか、即懲戒免職で新聞沙汰かもしれませんね。

 当時でも、旅行後にその話は噂になり、教師がそんなことをしてよいのかというものもいましたが、結局それ以上問題になることはありませんでした。
 
 酒を飲めというのは我々からすると生徒を大人扱いしてくれたと捉えられたし、何より先生と生徒の間に信頼関係があったということだったのかもしれません。

4 先生が先生なら生徒も生徒

 修学旅行のことは後で文集にまとめられ、飲酒事件は流石に何も書かれていませんでしたが、その中に一つ、水泳部の一人の男子の告白文が載っていたのです。
 それによると、その勝浦の夜に、奴は宿を抜けて港に行って海に入り、沖に停泊している大きな船の所まで泳いで行ったというのです。
 確か季節は11月になっていたと思いますが、もしも何か事故でもあってですよ、そのときあろうことか管理すべき先生方は生徒に酒を飲ませて宴会してたなどということがばれたら・・・。

 考えるだけでも恐ろしい話です。

 先生も先生なら生徒も生徒ということになりますが、まあ多少なりともおおらかな良き時代だったのかもしれませんね。

5 本題に戻ります

 さて、本題の倫社の授業の話に戻ります。

 倫理社会最後の授業をやらずテスト勉強に変えます、
という言葉を聞いてムカムカと腹が立った私は、
前に出て先生の所に行き、

「先生は倫社の授業を受験勉強より下に置くのですか。」

と詰問したのです。

 すると先生は、少しも騒がず、
「私は、よかったらと言ったのです。もしあなたが望むならあなたのために授業をやりましょうか。」
とおっしゃったのです。

 アレレ、そういう方向に行くのか、と、ちょっとたじろいだ私でしたが、そこへ、それを聞いていたK谷が
「じゃ、俺も」
 と寄ってきたのでした。

 後で聞いた話ですが、K谷は高校を卒業したら大学には行かず、コックの修業をすることを決めていたとかで、期末テストなどどうでもよかったのかもしれませんが、実際のところ本人がどう思っていたかはわかりません。
 
 そんなわけで、最前列に椅子を持って行って座った二人だけのために、先生は全くいつもと変わることなく、左手はポケットに、右手で持ったチョークで板書しながら倫社の授業をしてくれたのでした。
 残念ながらその時何を聞いたのかは全く覚えていないのですが、その時の先生の姿とか声は今も懐かしく思い出すことができます。

 実は私は3年になる4月から、家の引っ越しに伴って八王子の高校に転校することが決まっており、そんな意味でも二人だけの高橋先生の最後の授業はいい思い出になったのでした。

6 「本体界は存在するのか」という問いについて

 先生との思い出はもう一つだけあります。
 あるときの授業で、

 「本体界は存在すると思うか、考えを述べなさい」

という問題が出されました。

 本体界というのは私もよく理解しているわけではありませんが、物質世界を越えた精神世界、霊の世界というようなものをいうようです。

 私はその時、「ああだこうだとゴチャゴチャ言葉を並べるより、ブルックナーの5番の第2楽章を聴けば解るではないか」というようなことを書いて出したのです。

 私は高校に入ってクラシックを聴きだし、ブルックナーの交響曲がすごく好きになり、中でも5番の第2楽章はこの世で一番美しい音楽ではないかと思ったりしていたのですが、生意気な生徒ですね。

 後日、先生から何か書き込んだ答案用紙が戻ってきましたが、こんな哲学の否定ともとれることを書いたら、どうせボロクソに怒られているに決まっている、見たくもない、と私はその書き込みを見もせずにしまい込んでそのまま忘れてしまったのです。

 かなり後に、もう転校してしまった後でしたが、ふと何かの拍子に半分に折った紙が出てきて、開いたらその倫社の答案用紙だったのです。
 見ると

 「そういう考え方もありますね」

と書き込まれていました。

 その時、「あっ、先生は私のことを否定はしなかったんだ」と胸を衝かれる思いをしたのでした。

 ここまで書いてふと気になったは、私の倫社の成績はどうだったのだろうか?という疑問です。
 
 当時の通信簿がどこかにあるのか不明で確認はできませんが、そんなに良い成績をもらったという記憶はなく、可もなく不可もなくだったような気がします。

 今頃先生はどうしていらっしゃるのでしょう。

 生きていらっしゃるとしたら100歳前後になられているはず、担任でもなかった私のことなど憶えているはずもありませんが、私にとっては忘れ得ぬ先生なのでした。

#創作大賞2024 #エッセイ部門


いいなと思ったら応援しよう!