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おもいで
あまりに大事に抱えすぎているせいで、たまに上手く動けなくなる思い出があり、その力を緩めてしまう前に書きます。
私の中学時代の思い出が、それです。
学校が世界のすべてだと思ってしまうような、広く閉じられた空間で、たくさんの人に出会いました。
小学校から同じだった子も、小学生のその子と中学生のその子とでは少し印象が違う気がします。
中学校に上がってから、宿題のことを課題と言い出したり、異性のことを名字で呼ぶようになったときのあの寂しさは、思い返せば全部が寂しかったわけでもなく、春に浮き足立つような嬉しさと、置いていかれまいとする焦燥感がないまぜになっていました。
その感情はないまぜのまま、汗や涙となって3年間私の頬に寄り添いました。
いつもほの暗くて埃の匂いがする体育倉庫や、美術室の机に彫られた落書きや、校舎の前に並べられた植木鉢たちは、当時の学校生活では脇役の中の脇役であったはずなのに、思い出としてはどれもが立派に主役を張っています。
当時主役だったはずの私は、思い出としては丸ごとぜんぶが透明になって、思い出を映し出すだけの機械になりました。
クラスの中には不思議な印象の子もいました。
とりわけ目立ちはしないものの、字が綺麗だよねとか、笑い声で居場所が分かるよねとか、小さくて身近な共通認識を、なぜだか誰しもが持っていました。
その子の纏っている空気を私は好く思っていて、その子の半径100cmの空間ごとを、その子だと思ったりしていました。
中学生の彼らは、どこにも的がなく、どこにだって愛がありました。
掴みどころがないと思っていたあの子の印象は、関わりの中で溶けてゆき、徐々に屈託のなさを見せました。
いつもふざけていると思っていたあの子の鎧は、時に鉄と鉄の隙間から柔い部分を見せました。
印象の雪解けは会話の潤滑油となって、学生の世界でだけ生まれるあの他愛ない会話を、他愛ない会話たらしめました。
彼らの底に眠る太い芯や脆弱な心は隠したままに。
それらの会話に本心の行き来がなかったとしても、日常的な挨拶が、イベントごとの一体感が、本心がなければ完成しないものであるはずもなく、クラスメイトといる時の、ほんのり甘美な空気のベールが教室に蓋を落としたような感覚を、“ただのクラスメイト”な関係以外で、どうして味わうことができようか。
的も目的もないからこそ終わらない愛のやりとりが、15歳と15歳とを隙間なく、けれど余白を残しながら満たしていました。
あの日、保健室へ行って真剣に測った身長がいくつだったか、放課後の学校に響く吹奏楽部の演奏が何の曲だったか、思い出せないまま、私は抱え続けるのをやめて、箱に仕舞って蓋をします。