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日曜は私に嘘を運ぶ4. 〜決断〜 【前編】
清々しい朝のそよ風と暖かいオレンジ色の朝日がゆっくりと遠くのビルの隙間から顔を出し、人々の目覚めを優しく見守る中、恐ろしいほどに空気は重たく、氷のように冷たい雰囲気漂うマンションの一室。差し込む朝日が私を照らし、夫を日の当たらない影で隠し、二人の間をまるで境界線のように分断している。その様子はまさに夫婦の温度差を表しているようだった。まだ日も上がらない暗がり早朝の中、外で本能のまま絡み合う愛の証明。外という状況が私の羞恥心を煽ると共に心の昂りや誰かに見られるかもしれない背徳感や熱を掻き立て、悦の刺激に身を任せていた。未だ身体の中に残る温もりの余韻に浸りながら家に戻れば、今のこの状況である。
夫が放った一本の言葉の矢の切先は私が張った心のガードを糸も簡単にすり抜け、心の核たる部分に突き刺さった。夫の私を見つめる目が怖い。その目に昔見た暗殺者の映画の冷酷な主人公を思い出す。ジトっとした目で獲物を狙い、心から徐々に壊していき頃合いを見てトドメを刺す。当時の私でもそれには恐怖を覚えた。ホラーや心霊などの怖さではなく、人間の人間らしさを表現している心理的な怖さを感じたのだ。今の夫の私に向ける視線や表情、それらから伝わる感情はそれにかなり似ている。
「ねぇ、聞いてる?誰と会ってたの?」笑顔で聞く夫の顔は笑っていない。不自然な笑顔の仮面を被っているだけで、その奥には今まで見たこともない闇があった。
多分、夫は私が彼と会っていたことを知っている。そして私の口からその事を言わせようとわざと知らないフリをしている。この時の私には二つの選択肢しかなかった。
夫が知らないフリをするならばこちらも嘘を貫き通すこと。
もう一つはここで正直に白状すること。しかし、白状すると言っても私が引き下がることはしない。私は彼と一緒にこれから過ごす。
二つの選択肢とはいえ、最終的な答えは一つ。私は彼を離したくない。それ以外にないのだ。
だが、夫がした質問の意図がわからないことも確かだった。質問の答えとして夫には何が正解であって、何が不正解なのか。言葉の準備はしっかりと出来ているが、選択肢に迷っていた。私のこの様子が、夫には都合が悪くなり黙っているだけ。という風に見えたのだろう。1分ほど睨み合いが続いた後、大きなため息を一つ着いたのだ。
「まぁいいさ。君が言いたくないなら今は詮索はしないよ。君が言いたくなったら言ってくれればいい。」そう言った夫の顔はいつもの顔に戻っていた。
朝の出来事があってからというもの、私はあの質問に対して答えることはしなかったが、夫は本当にさはに追求することはしなかった。
普通に日常を過ごし、何事もなかったかのように日曜は0時を回り、月曜が始まった。
朝日の優しい光がカーテンの隙間から溢れ出し、その空間を穏やかな暖かさで包み込む。キッチンで朝食の卵を焼く音と香りがほのかに漂い、ポットは水を沸かすグツグツとした鈍い音を響かせている。眠たそうに起きてきた夫は洗面台で顔を洗い、用意されたスーツに身を包めているのを私は背中で感じていた。1日しか経っていないのに、夫の様子は変わりなく不気味なほど普段通り。朝食はいつもパンと目玉焼きなどの簡単なものと決まっており、テーブルに広げられたそれらを前に手を合わせて、コーヒーとともにそれを食べ進める。食べ終われば歯を磨き、ネクタイとジャケットで気を引き締めて、鞄を持って玄関へ。夫が自分で綺麗にした革靴に足を沈めると、私の方に振り向き穏やかな笑顔で「行ってきます。」と言って仕事へ出かけた。一連の会社へ出かけるまでの変わらないモーニングルーティン。今までの私なら、この後家事を済ませて買い物へ出かける準備を始めるのだが、この日の私は放心状態で玄関前に立ち尽くしていた。寒さなんて感じるわけもない室内で身体が勝手に震えだし、遂には力まで抜けてその場に座り込んだ。
私の心を包む掴みどころのない、まるで煙のように姿を変える感情。この時初めて人間の恐怖という、陰湿でどす黒く、粘着質な夫の本質を垣間見た気がした。
こんな時、彼に会えたら、、、。そなことを思ってしまう私だったが、彼とは夫に関係を悟られないために連絡先を交換せず今まで過ごしてきた。リスクを避けるために考えたやり方が、まさかこんな所で精神状態に絡んでくるとは思ってもいなかった。彼は私がこんな極限状態に置かれている事実を知らない。それもそうだ。昨日の朝、家に戻ってきてからの出来事を彼が知る由もない。元は自分が蒔いた種で、こうなってしまった。これから日曜日まで、彼に会う日まで夫のあの目に怯えながら過ごさなければいけない。どうすることもできない無力さに私はただただ小さく身を縮めて消え入るような声で助けを叫ぶことしかできなかった。
十数分、その場から動けなかった身体は次第に自由を取り戻し、ゆっくりだが立ち上がることはできた。
このままじゃダメだ、、、。そう思った私は何の考えもなく、心を落ち着かせるためにとりあえずバック一つ持って外に出た。あれ以上あの人の空気が残った部屋に一人でいるとおかしくなってしまう。そう思っての行動だった。
フラフラとした足取りでただ何の目的もなく足を進める。街に降りれば誰かがいる。それだけでも心には安心がもたらされる気がした。だが、私の思いとは裏腹に皆心配そうな目でチラチラと見ているが、話しかけられるようなことはない。これも私の様子と都会ならではのいわば習慣。干渉はしないことで自分の身を守っている。そんな社会の中で私は一人の夫という人間が怖くて、助けを求めてきたが人々からしたら他人事なんだ。少ししか歩いていないのに、気疲れしてしまい近くにあったベンチに腰を下ろした。
「はぁ、、、私、何やってんだろ、、、。」
自分が何を考えているのか。自分が何をしたいのか。もうそれすらもわからなくなってきている。逃げて何になるのか、目の前の現実から逃げて、いずれは出さなければいけない答えを先延ばしにしているだけ。このままでは状況は何も変わらないことはわかっている。だが、今の私ではその答えが出てこないのもまた事実なのだ。考えて思い詰めるほどため息が溢れてしまう。
携帯を手に取り、ふとカレンダーを開く。私は彼と会った日とその日の気持ちを一言だけだが、思い出としてまとめていた。日曜にだけついている印とともに「彼の温もりを感じた。」や生々しいものだと元気すぎて腰が痛いや気持ちよかったなど内容はさまざま。一言だけの記録しかないが私の記憶には文字以上に鮮明に映像として色濃く残っている。思い出すだけで身体がポカポカして思わずクスッと笑ってしまったりもする。まだ若い頃、恋愛とかそういうのをしたことがない私が初めて人を好きになった時に感じてた感情を、今私が感じることができるのも彼のおかげ。思い出させてくれたのも彼のおかげ。思い返せば、きっかけはどうであれ結婚して惰性で生きてきた私の日常に変化を与えてくれたのは全て彼じゃないか。
私の中で幾多にも分かれていた正解への道が徐々に一つの道になっていく感覚。丸まっていた背中に一本の芯が通ったように、私の目にも光が宿った。
「そっか、、、。誰が望む答えじゃなくて、私が望む答えを出せばいいんだ。」
夜の暗がりの中、道々に立てられた街灯の光が帰り道を照らす中、外から見える我が家の光はその息を潜めている。エントランスから家に向けてインターホンを押すが反応がない。仕方なく持っていた鍵で開き、部屋へと向かった。
冷たい空気で冷やされたドアノブを引き、暗闇に包まれた室内に足を踏み入れる。
「ただい、ま、、、?」電気をつけ、部屋中辺りを見回ってたがやはり姿が見当たらない。
どこに行ったんだ、、、、?
携帯に連絡してみるがコールはかかるものの応答はない。結婚して以来妻は僕が帰ってくる時間には必ず家で夕食の準備をしていた。ある意味日常のルーティン的な光景がない違和感に困惑の二文字が頭の中を駆け巡った。目が届く範囲探し回ったがやはり人の気配すら感じない。改めてリビングに戻ると、先程は気がつかなかったがダイニングテーブルの上にメモが残してあった。
【おかえりなさい。家にいなくてごめんなさい。少し考えたくて家を空けます。話したいこともあるので、あなたが休みの明後日には戻ります。】
初めて仕事で出会った時と変わらない綺麗で達筆な文字で書かれたメモは一人寂しくテーブルの中央にポツンと置かれている。その様子がどこか妻の意思表示を表しているかのようで、自分なりに今後の展開を察してしまった。
「あいつから聞いてはいたけど、想像以上の展開だな。」メモを手に取り、もう一度その内容を確認すると口元に不敵な笑みを浮かべ、そのメモをくしゃくしゃに丸めて軽快な動きでゴミ箱に投げ捨て、綺麗に吸い込まれていくのを見届けるとガッツポーズ。そのまま気分よく風呂に向かった。
薄ら濡れた壁に若干肌に感じる湿気。
ここで妻が乱れていたのか。その事実を頭の中で考えながら一人身体を洗い、シャワーで洗い流す。温まった身体に冷蔵庫で冷やしておいたビールの冷たさがなんとも言えない。
雲の隙間から小さく覗く月を肴にビールを流し込む。窓に反射し、映るその表情は何か不穏な空気感を孕んでいるようにも見える、、、、。