日本語教育機関の類型化の難しさ〜制度化のよい面と課題
日本語教育機関の類型化の議論にはどうしても「日本語教育とは」という議論がつきまといますが,その定義が非常に難しいという話です
日本語教育機関とは
前回のnote(日本語教育機関の類型化〜なぜ教師の資格と一緒に議論するのか)にも書いたとおり,日本語教育機関の類型化は,「留学」「就労」「生活」という三つの大枠に分けるということで進みそうです。
日本語教育の推進に関する法律や日本語教育の推進に関する施策を総合的かつ効果的に推進するための基本的な方針の内容からしても,私自身,この三つに分けて考えることは,まあ,妥当なことだと思います。難しいのは,これらの類型の前提となる「そもそも日本語教育機関とは何か」という定義づけの部分です。
日本語教師の資格に関する調査研究協力者会議の第3回会議でも,この点が審議事項の一つとなりました。資料2の2ページにある「『日本語教育機関』の対象について」という部分です。以下に引用します。
「日本語教育機関」の対象について
(案)専ら日本語教育を行う機関を対象とする。
【理由】
・地域日本語教室などのうち、文化理解やコミュニケーション能力の向上等を主目的とする教室などにおいては、地域のボランティアなどの人材を活用し、多種多様な活動が実施されている。こうした活動を実施する機関・団体に対し、公認日本語教師の配置を一定数求めることとした場合、かえって活動の制限や熱意の低下等につながる懸念がある。
※専ら日本語教育を行う機関に大学別科は含むべきか、また、大学や一条校は「日本語教育機関」に含めなくてよいか、検討が必要。
この部分は,これからの日本語教育を考える上で,非常に重要な点です。「専ら日本語教育を行う」というのが何を指すか,上の引用では「文化理解」「コミュニケーション能力の向上」は「専ら日本語教育を行う」には含まれないことになります。すると,ここで定義づけられる日本語教育というのは,「言語事項としての日本語を教える」ことに絞られることになりそうです。これは,近年の日本語教育学において,日本語教育を行う意味や価値の議論と異なる方向であり,別途「日本語教育の参照枠」の理論的背景として援用されている欧州の言語共通参照枠(CEFR)の議論とも相容れないものです。
日本語教育とは何か
日本語教育の範囲をどのように定義づけるかという議論には困難が伴います。その理由は二つあります。一つ目は,そもそも定義づけなどできるのかということです。これについては,私の自著でも「日本語教育学」の範囲ということで以下のように述べています。
日本語教育学のデザインを通した学問的体系化ということについて,「何がどこまで日本語教育学なのか」「これは日本語教育学の範囲なのか」などという学問領域のラベル貼りのような議論をすることはあまり建設的ではありません。日本語教育学は,人が社会的実践を行ううえでのことばに関する問題を扱うという大きな枠組みがありますが,ことばの社会的役割の多様性,人の多様性を考えると,その守備範囲は無限に広がっていくものと思われます。(神吉編:ⅸ)
また,細川英雄さんも最近出た西口編で以下のように述べています。
「日本語教育とは何か」といえば,100年前くらいに始まり,とりわけ今世紀に入ってから急速に広まったもので,そのイメージも人によって随分違うわけです。それを一つにまとめようというのも実態に合わない。むしろ,人によって日本語教育のイメージが異なっていることこそが重要なのではないでしょうか。(西口編2020:160)
二つ目は,定義づけを行うことで,定義の枠に収まらないものを「これは日本語教育ではない」と排除する論理が働くことなりかねないということです。今回の制度化がそういうことにならないようにしないといけません。
結局のところ,日本語教育の範囲や枠を決めるということが,そもそも無理な話なのです。今回の類型化の議論の困難は,ここに踏み込んで何らかの決まり事を作らなければならないということにあります。
日本語教育を言語事項の習得ということだけでなく,より幅広くとらえようという考えはさまざまなところで主張されています。
たとえば,年少者に対する日本語教育に関しては,長らく教科と日本語の統合の必要性が主張されてきました(たとえば齋藤1999)。また,成人に対する日本語教育に関しても,CBI(CCBI)(佐藤他2015/2018)やCLIL(奥野編2018)による日本語教育の取り組みが多くなされています。このような実践の積み重ねを考えても,日本語教育の範囲を言語事項の習得にとどめるという議論は,日本語教育を一面的にとらえることになってしまいます。
法制化・制度化とは
日本語教育が法制化され制度化されるということは,このように,ある枠組みの中で日本語教育の議論を行うことになるという大きな制約が生まれます。
日本語教育は,第二次世界大戦で皇民化教育に利用されたという負の歴史を持っており,戦後長らく制度からは一定の距離をとって存在していました。しかし現在は,外国籍住民や外国ルーツの人々の増加もあり,法律が制定され制度化が進んでいます。このこと自体,避けることができないことだと思います。外国籍住民等に対する日本語教育が何も制度化されないというのは,人権的観点からも大きな問題であり,制度化はある面で必要なものです。
ただ,法制化以前から,私自身制度化によって日本語教育の範囲が狭く矮小化されてしまう危険性があると主張しているように(たとえばこちら),制度化というのは,しばしば物事を単純化して枠にはめてしまう危うさがあります。日本語教育に関わる私たちは,このような制度の議論を素朴に歓迎するのではなく,どのような制度は必要なもので,どのような制度は危ういものであるのか,そのことと向き合って考え,声をあげていかなければなりません。私がnoteでこういった発信をするのも,その問題意識があるからで,多くの人に一緒に考えてもらいたいからです。
ただ,だから制度は必要ないということはないと思います。日本語教育が制度化されることで,今まで日本語を学ぶ機会を得られていなかった人たちに,日本語学習の機会が提供されることは歓迎すべきことでしょう。制度の負の側面を常に意識しつつ,前に進みながらよりよいものにしていくしかないわけで,このことを議論することをつづけなければならないということだと思います。
ただ,私自身のプライベートな一面としてはアナーキーな部分もあり,制度化でいろいろしばられるのはやだなあと,やや自己内分裂をしていて整理が難しいです…(でも制度化は必要ですよ!)
※ここに書いたことの一部を会議の場でも発言しようと思って挙手をしていましたが,発言希望者が多く,残念ながら発言の機会がありませんでした。
参考文献
奥野由紀子編(2018)『日本語教師のためのCLIL(内容言語統合型学習)入門』凡人社
神吉宇一編(2015)『日本語教育 学のデザイン』凡人社
齋藤ひろみ(1999)「教科と日本語の統合教育の可能性--内容重視のアプローチを年少者日本語教育へどのように応用するか」『中国帰国者定着促進センター紀要』7,70-92.
西口光一編(2020)『思考と言語の実践活動へ-日本語教育における表現活動の意義と可能性-』ココ出版
佐藤慎司・高見智子・神吉宇一・熊谷由理編(2015/2018)『未来を創ることばの教育をめざして: 内容重視の批判的言語教育(Critical Content-Based Instruction)の理論と実践』ココ出版
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