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日本語教育者の養成はどこを目指したらいいんだろう

ちょい飲みでちょいトーク

ゼミの卒業生(仮にYさんとする)とお互いの帰宅ルートが重なる東京駅、僕の好きなhazyなビールをたくさん置いてるAnntena Americaで、ちょい会って、ちょい飲みしながら、ちょいしゃべる予定が…
めっちゃしゃべった

Yさんの学生時代、授業はサボる、自分たちの活動が大学から止められそうになり苦情を言うために学長室に鉄砲玉のように乗り込もうとする、卒論は締切5分前にゼミ生の総力をあげて完成(でも出てきたものはマジ落とそうか迷うクオリティ)
だけど、元々いい視点・感覚と行動力を持ってるから、密かに期待してた

女子校から大学進学、うちの学科は女子学生が多いし半分は留学生、少なくとも表立って差別的なことを言ったり、そういう振る舞いをしたりする人はいないし、そういうことは恥ずかしいことだという空気ができている
ゼミの活動は共生社会が一つのテーマ、当然、そういうことに興味がある学生が集まってくるし、連携する地域の組織・団体のオトナたちも同様
そういう中で「すくすくと」育って社会に出ていった

就職してはじめて気づいた社会のこと

会社に入ると、超おじさん社会
今までYさん自身が女性だからという理由で不利益を被っていると感じる経験はなかったらしいけど、「あー、世の中ってこうなってるんだ」と実感
自分の目の前で、取引先の社長が「次は男性社員をよこしてよ」とうちの上司に電話してる
それは嫌がらせとかじゃなくて、「なんなら、私が女性であることにすら気づかないまま」、まったく悪気なくやっている
そこに問題の根深さを感じる

取引先には外国人の従業員がたくさんいる
その外国人たちに対する周りの日本人の対応にいろいろモヤる
日本語がぜんぜんできない外国人もいっぱいいるけど、彼らは彼らで楽しそうにやってる
同じ職場なのに、日本人と外国人がぜんぜん話をしない、それで客先の社長に「外国人とかって特に意識せず、普通に話をしたらいいんじゃないですか?」と話したけど、どうやら「???」だったみたい

直球投げてぶつかっても物事が解決しないのは、すでにいろんなところで学んでる、うーん、これはまず自分自身が学ばなきゃいけない、そう考えたらしい

日本語教育の授業、受けたけど

Yさんは大学で日本語教育のことを勉強した
就職してから上司に、大学では日本語教育のこと勉強してたんだよね、その部分期待してるからと言われ、上述のような外国人の多い取引先・客先を重点的に担当するようになった

実は、こういう卒業生は意外と多い
外国人社員が多い工場の人事になる、観光業界で外国人観光客向けの企画開発に携わるなど、「外国人」がキーワードになる仕事につく際に、「日本語教育やってました」は一定の説得材料になるらしい

Yさんの話に戻る
仕事しながらいろいろモヤるなかでふと気づいたのは「私、日本語教育のことは勉強したけど、外国人のことや外国人を取り巻く社会のことについてはまったく知らない」ってこと
そりゃそーだ、そんな授業ないからなあ

それで、今読んでる本ですって見せてくれたのが写真
おお、いいの読んでるじゃん
「ところで、オレの本とか論文読んだか」って聞くと
「すみません読んでません、なんなら、ういちさんがどんな研究してるのか、こないだネットで検索して初めて知ったんですよ」と素敵な笑顔で言ってくれる

まあそうだよなあ、うちの学科の学生たちで、そもそも僕の専門が日本語教育だって知ってるのは、たぶんゼミ生ぐらいだもんな

「それで私思ったんですけど、ういちさん、ぜったい日本語教育の授業やった方がいいですよ、ゼミでももっと日本語教育を前に出したらいいんじゃないかな」とアドバイスもらう
うん、確かにそうだな、ありがとう

実は、今週(2024年6月17日の週)は本当にいろんなことがあって、生きるということ、自分がこの社会にいるということの意味、専門性、これからの人生で僕が社会に貢献できることなどなどについて、かなり深く深く考える機会になった
あ、これは別に僕が死を意識したとかそういうことではないですよ、念のため(昔、ガンだと誤診されて死を覚悟したことはありますが😅 ←この話はしばらくしたらどこかにネタとして書きたい)

日本語教育者の専門性

日本語教師資格が国家資格になるということで、今、養成課程の見直しが進んでる
実習を必須にするなど、以前に比べて実践的な色が少し濃くなってる
国家資格になることは社会的な評価にもつながるし、これを機に養成についてみんなが見直しているというのは、副次的な効果としてもとてもよいと思う

一方で、相変わらず「日本語教育者=教室で教壇に立って教える人」という古いイメージからアップデートされてない人もいる
特定の知識のティーチングが専門性なんだったら、それはたぶん再来年ぐらいにはAI先生に置き換わって終わりだと思うんだよね
ただ、日本語学習の現場にいて、どのように学びについて考えるか、どのように学びが起きるのかということに携わる専門性は、ますます期待されていくところだと思う

国家資格を持った日本語教師の活躍する場は、現在そんなに多いわけじゃない
文化庁(たぶん2024年からは文科省がやるんだと思うけど)の日本語教育実態調査では、日本語教師の数は44,030人、そのうち常勤職は6,571人
同じく文化庁の大学等日本語教師養成課程及び文化庁届出受理 日本語教師養成研修実施機関実態調査研究では、2022年の調査対象機関が大学210校、民間機関170校で計380校、ものすごく少なく見積もって、各機関が年20人養成したら7,600人
この数字を踏まえて考えると、毎年何十人も日本語教育者を養成して輩出する側には、教壇に立つ以外の価値を見出していく必要がある

基礎的教養としての日本語教育

Yさんやその他の卒業生の状況、僕自身が見ている社会の状況を勘案すると、日本語教育に関する専門性は、もはや外国人に頼らざるを得ない日本社会において、基礎的な教養であると言えるんじゃないかな
そして、その観点で考えたとき、今までの養成のあり方で本当にいいのか、今まさに問い直すチャンス
今回の制度変更で新たな価値を掲げられるのか、それとも従来のまま進むのか、それぞれの教育機関の理念にも関わるところだと思う
もちろん、教壇に立つ教師も必要、それは否定しない
でも、そのことだけを目指していていいのかな、ということだよね


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