願え
命令文でしか表現できない意志のようなものがある。「急げ悲しみ 翼に変われ/急げ傷跡 羅針盤になれ」とは、名曲、中島みゆき『銀の龍の背に乗って』の一節である。傷跡そのものが羅針盤になるのであり、悲しみや傷跡が消えることを望んだ言葉ではないだろう。曲中には、人間の皮膚が傷つきやすい柔らかなものでしかないのは、「人が人の傷みを聴くためだ」ともしている。非力な自分にはどうしたって消えない悲しみや弱さが、むしろ進むべき一つの方角を示さんことを切に命じているのである。龍のようにはまだ飛翔できない雛だけど、しかし一歩飛び立とうとする、祈りにも似た悲痛な決意と言えそうである。
「飛べ」
高校バレーボールを描いた漫画『ハイキュー!!』(古舘春一、集英社)には、コマの要処要処に、応援席に掲げられた横断幕が描きこまれている。「飛べ」は、主人公が属する烏野高校の横断幕に記された言葉である。「飛べ」とは、確かに他者からの呼びかけである。選手からすれば、「飛ぼう」「飛んでみせる」という意気込みになるかもしれないが、選手にしても「飛べ」という形でしか表せないものがあるのではないだろうか。極限まで飛んで飛んだ先にある、飛ぶしかないという状況下において、自分に対しても「飛べ」と叫びたくなる心境はあり得るだろう。
こうした命令文を考える時に思い起こされるのが、本願成就文の「願生彼国」(『無量寿経』)に対する親鸞聖人の解釈である。「願生彼国」を解釈して『唯信鈔文意』では、「かのくににうまれんとねがえとなり」(聖典第二版六七四頁〔初版549〕)としている。『一念多念文意』でも同じであり、「願生彼国」を、浄土に生まれようと「願え」という仏陀からの呼びかけとするのである。
念仏の教えとは、我々の「願い」を叶えていくものではないだろう。どこまでも仏陀の「願い」を聞いていくものである。浄土への「願い」も、浄土を「願え」という阿弥陀仏の本願を聞くところに成り立つものである。我々の願いは虚しい。際限なき欲望の充足に翻弄される願いであり、ひとたび浄土を願うことがあっても、浄土に我欲を押しつけるような願いである。そうした我々の思いを超えて、浄土を「願え」という仏陀の呼びかけを聞くしかないのである。
しかし、その「願え」という言葉は、仏陀の呼びかけを表すだけのものだろうか。仏陀の呼びかけを表しつつ、同時に、我欲にまみれ娑婆恋しき凡夫が、「真実を願え」と自己に悲歎する言葉として受け止めることはできないだろうか。仏陀の勅命に、素直に帰依しがたいが故に、我が身においても「願う」ではなく、「願え」としか表現できないという悲歎である。
仏陀が勅命として掲げる「願生彼国」は、我が身の悲しみをも映しながら、絶対的な命令文として羅針盤であり続けよう。
※『ともしび』2024年6月号「聞」より転載。
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