[ブックレビュー]大森靖子著『超歌手』/清家雪子著『月に吠えらんねえ』
大森 靖子著『超歌手』(毎日新聞出版、2018)
清家 雪子著『月に吠えらんねえ』(講談社、2013~2019 ※全11巻)
【ブックレビュー(再読)】
2020年4月16日、全国に緊急事態宣言が出るなど新型コロナウィルスの感染拡大が社会を変えている。そんな予想もつかない1年前に大森靖子『超歌手』のブックレビューを書いた。
あなたはあなたの孤独を消してくれる人を探しているんじゃなくて、あなたの孤独を愛して抱きしめてくれる人を探しているんじゃないですか?/私の孤独ちゃんは、あなたの孤独ちゃんにとても会いたがっています。/なのでもしそうなら、音楽でいつでも会いましょう。(大森靖子『超歌手』、「孤独力」より)
あれから平手友梨奈は脱退し、在宅勤務の体制となり、自炊に目覚め、「土井善晴先生は…」が口癖となり、孤独が問われている。いやすでに問われてもいたのだ。2019年4月発行の清家雪子『月に吠えらんねえ』10巻には、萩原朔太郎『月に吠える』の序を引用した後に、朔のセリフとして次のようにある。
個々に抱える孤独という共通を発見することこそが 愛であり 詩のよろこびです/身の内から汲み上げた 個の感慨でなく 社会の声を拾い上げようなんて 思い上がった迎合で 作り上げたから/日本の翼賛詩は失敗したんです(『月に吠えらんねえ』10巻、「極光」より)
この箇所は、第3巻の「ひとりの夢より/みんなの夢を」(参照;【ブックレビュー】『月に吠えらんねえ』3巻、【今との出会い】「ひとりの夢を」)という言葉も思い出す。「みんなの夢」に反旗を翻す「孤独」という構造であるが、安智史/栗原飛宇馬/猪俣浩司/浅見恵子「朔太郎、戦争詩、女性性、ときどきBL。」には以下のような指摘がある。 『月に吠えらんねえ』8巻に「世捨て人にもなりきれず 世間的な名声を欲しがっていたおれは お国のためにって言葉に揺れるものがあったのかもしれない」という朔のセリフを受けて、「このセリフは、朔太郎の時局に対する発言をそのまま反映させたのではなくて、朔太郎の揺れ動きの部分を受け止めた上で、物語の成立に関わる朔太郎像と提出されていると感じました」(「[特集]『月に吠えらんねえ』の世界」、『現代詩手帖』2018/6号)と。そしてこのすぐ後には、朔太郎が時局に対して積極的に発言しつつも、「時流に背を向けるように手品にのめりこんでいる」ともある。
さて『月に吠えらんねえ』10巻には、先の朔のセリフに対して、白は「そんな純粋な詩は 個を突き詰める限られた者の慰めにしかならない/社会という空気を漂う人々/子供達には詩はいらないと?」(「極光」より)と問い返す。これに対する、朔の返答はこの通り。
カフェで一人酔い潰れ 都会の雑踏を眺めながら 寂寥を託つ/家族という 最小社会からすら抜け出せず 庇護され続け/恵まれた身の内に 孤独者を飼うことしかできなかったのが おれなんです
この朔の返答を見ると、清家雪子は朔を単なる孤独の讃美者にせず、至る所で「揺れ動き」を描いているとも言える。これは「みんなの夢」から離れ得ない自覚の裏返しでもあろう。この「恵まれた身の内に 孤独者を飼うことしかできなかった」という言葉がいま重くのしかかる。
自分自身、「「孤独」を描かねばならないのは、大森が『超歌手』で示すようにそれがどうしようもない人間の実相――「独生独死独去独来」と『無量寿経』で示される我々の実相なのであり、そしてそこから真に自由が生まれることを信じているからだ」と書いたが、半ば強制的に他者との接触が切断されたこの1カ月で気づかされるのは、「つながり」への希求であり、「ひとりの夢」を見ることの空しさだ。恵まれた身の内で――他者に支えられていたからこそ〈孤独〉を美化することができただけではないのかという拭えない疑念。
実際そうなのであろう。しかし、「個々に抱える孤独という共通を発見することこそが 愛であり 詩のよろこびです」という言葉はどうしようもなく響くし、確かに「あなたの孤独を消してくれる人を探しているんじゃな」い。みんな一緒、にはなれない孤独な存在を孤独な存在のままで慈しめるのか。これが独りでは難しいというのが大いなる矛盾だが、その自覚がどこまでも必要なのだろう。独尊子を立たしめる大地のあることに気づかされる。だからこそ大森のこの言葉は何度でも読み直したいと思ったのだ。
私たちは孤独を否定して共存したいわけではなく、孤独と孤独同士がお互いを尊ぶことができる関係を望んでいる。(『超歌手』、「孤独力」より)
大森靖子『超歌手』、清家雪子『月に吠えらんねえ』。一人でいる時間/他人と接触する意義が問われる中で、再読したい二冊。