現在に“生まれる”往生思想について
「親鸞仏教センター研究員と学ぶ公開講座2022」報告記事
※12月講座「往生とは何か」
中村担当「現在に“生まれる”往生思想について」
本講座では、「往生」を現生の事実として考究する西山派祖・證空(1177-1247)の往生思想を中心に検討を進めた。特に證空にとっての「(凡夫の)往生」とは、「(弥陀の)成仏」と密接な連関があり、「成仏」と「往生」は同時であるとされる。弥陀が成仏した時に、すでに往生が完成されているのだと證空は強調する。ただ注意すべきは、往生が確立した時=他力信心の確立した時に、弥陀の成仏が完成すると説くのであり、この意味で弥陀が未だ成仏していない時があるとする。これは何を意味するのか。あえて踏み込んで考えてみれば、弥陀が遥か昔に成仏したと仏典で説かれるわけであるが、弥陀が成仏したことを観念的に受け止めるだけでは未だ自己の事実とは言えず、自己のもとに弥陀の成仏を体験することにこそ救済の実現を見るのであろう。それを弥陀の大悲が現れる体験として、「見仏」と證空は言う。決して肉眼や観想念仏の世界の中に弥陀を見るわけではないが、弥陀のいる世界に値遇するのであり、「見仏」と「往生」とは同じことだとする。そして、この「見仏」「往生」が現生に在るとするのが證空の往生思想なのである。
しかし、一方でどこまでもこの世界は穢土であり、厭うべき世界であると證空は認識していた。浄土と穢土という二重の世界を生きる、生きざるを得ないのが凡夫である。本講座において、この二重性という視点から「往生」について論じた。
『親鸞仏教センター通信』第85号より転載。
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