第2回「現代と親鸞」公開シンポジウム(2020/10/24)【開催趣旨】
第2回「現代と親鸞」公開シンポジウム(2020/10/24)【開催趣旨】
テーマ:生まれることを肯定/否定できるのか?──反出生主義をめぐる問い
生まれてこなければよかった──人生に煩悶するとき、ふとそんな言葉がよぎる。ほんとうに生まれない方がよかったのかもしれないのだ。世に「反出生主義」とも呼ばれる思想である。
ただ仏教学の立場として、こうした問いを「ただの愚痴であって、意味がない」(佐々木閑「釈迦の死生観」、『現代思想』二〇一九年一一月号、一六一頁)とする見解もあり得る。確かに、直視すべきは流転のただなかに「現にある」我々の在り方なのかもしれない。しかし、たとえ愚痴であっても──愚痴だからこそ、誕生を呪わずにはいられない一つの凡夫の在り方が如実に現れていると見ることもできる。愚痴を抱えずにおれないのが我々凡夫ではないか、そう淡々と生老病死の苦しみに向き合えない存在なのではないのだろうか。「反出生主義」が投げかける問いは、我々が根源的に抱えている煩悶を映し出しているように思う。
また浄土教に目を転じれば、例えば西山義祖・證空(一一七七─一二四七)は、「生まれる」とは不可避的に「自・他」という区別を生じることであり、これが罪業のもとであると論じている(「無身ノ中ニ身ヲ受ケ、無識ノ中ニ識アリテヨリコノカタ、「我」「人」ト思フ心生ジヌレバ、必ズ他ヲ嫉ム思ノミアリ。故ニ、懐嫉妬、ト云フ」、『往生礼讃自筆鈔』巻四、西山叢書三、八四頁)。苦しみや諸悪のもとを「生まれる」こと自体に見据える思想だとも言える。しかし、そうしたこの苦界に「生まれる」という次元から、浄土に「生まれる」ということの質的、宗教的意味の次元での転換を求めるものである。浄土へ「生まれる」ことの意義を真に問うためには、その前提として、我々が通常「生まれる」ことへの懐疑的・批判的眼差しもまた必要なのだと考える。
しかし、特にはじめにあげた「生まれた」ことへの煩悶であるが、一歩問いを進めると、「生まれた」ことへの煩悶は問いとして成り立っているのか、という問題も考えられる。なぜかと言えば、我々の眼前には「生まれない」という選択肢はあったのだろうか。「生まれない」とは何を想定しているのか、そもそも何かが想定できているのだろうか。誕生の否定に立つときに立ち上がってくる強固な難問がある。そして、誕生そのものを否定できないのであれば、同時に、誕生そのものを肯定すること、言祝ぐことは果たしてできるのか、と問うことも可能だ。反出生主義をめぐる問いは、「生」全体に対する我々の認識、その限界について向き合う問題でもあると考える。
以上の問いを含め、反出生主義を掘り起こすことで見えてくるものがある。生まれることをめぐる肯定/否定の問題は以上に収まるものではない。生を肯定/否定する言説のもつ魅力と危うさはさまざまな角度から問えるものである。本シンポジウムでは、テーマを「生まれることを肯定/否定できるのか?──反出生主義をめぐる問い」と設定し、さらに問いを深めた。
※『現代と親鸞』第45号(2021年12月発刊)より転載
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