麻雀漫画家になるまでの話
漫画界の極東シベリア
44歳になったわしの手元に、近代麻雀の最新号が置いてある。雑誌を開けば自分の描いた漫画が載っている。この麻雀雑誌での連載も、いまや8年近く続いている。
「え、漫画家!? すごいですね! どんな漫画を描いてるんですか!?」
「あ…麻雀漫画です」
目をキラキラさせた初対面の方にそう答えるたび、さっきまで(もしかして少年ジャンプでアニメ化された作品でも描いてる人だったりして!?)と期待にフンフン鼻息荒かった相手の表情が、イッキに白けて冷めていく。このガッカリ顔面モーフィングを、この8年で何百回も見た。慣れっこだ。
そう、麻雀漫画はすべての作品ジャンルにおいて、おそらく最下層にある。卑猥だ下品だと軽蔑されつつも、可愛く洗練された女の子キャラに大勢のファンがつくエロ漫画家さんよりも、世間での麻雀漫画家の地位はずっと低いと思う。なにせ麻雀が好きな人しか読まないのだから。しかも内容は、健全とは言い難い「ギャンブル」だ。
おそらく漫画家の間でも、麻雀漫画というジャンルの地位は低い。仕事がなくなった漫画家の、行き着く果てが麻雀漫画かパチンコ漫画。そこより下はもう、怪しい健康食品や開運ブレスレットのPR漫画くらい…と、同業者に言われたこともある。
そう、わしは今、売れない漫画家がたどり着く地の果て、辺境の辺境、極寒の極東シベリアにおる。数多くの旅人がここで力尽き「もうこんな仕事しかもらえないなら、漫画家なんて辞めてやる!」と、違う世界へ船で去っていく。あちこちの出版社を放浪し、ペンだけで食うという、厳しい狩猟の旅に終わりを告げる。そんな場所が麻雀漫画、そして近代麻雀だ。
しかしわしはその極東シベリアで、テントを張り、8年。
凍った大地で一人、焚き火を炊き、冬の鉛色の海を眺めるウヒョ老人の目。
この老人、果たして今、辺境に追い込まれた自分に、何を思って過ごしているだろうか…。
人生を振り返ってみよう。
初めて麻雀牌に触れた日
北国、北海道の旭川市でわしは育った。
小学4年生、わしはたまたま一緒に下校していた、クラスメートの女の子の家に誘われ立ち寄った。居間に入ると、その女の子のオジイちゃんが、老人仲間を集めてコタツを囲み、何やら楽しそうにワイワイと遊んでいた。
手積みの麻雀。
それを見て、わしが最初に思ったことは(あー…女の子が作文に書いていた、お風呂上りにお尻やあちこち触ってくる、エッチなオジイちゃんってコイツかあ)だった。
卓上で積み上げられていた、麻雀牌にはまったく興味はなく。わしはこの女の子が好きだったので、目の前に座ってるジジイの背中を、サッカーの授業で習ったばかりのトゥーキックで蹴りあげたいとしか思っていなかった。
「休憩、休憩、かわりに打ってみるかボク?」
ゲームの途中でジジイに代打ちを頼まれ、よくわからないまま座る、まだ当時10歳のわし。「かわりに孫の尻、触ってみるかボク?」なら、ちょっとニヤけたかもしれないが。ルールも知らない、牌にドラえもんの絵も描いてないゲームなんて遊びたくもない。
ジジイのナビゲートを受けながら、牌を入れ替えていく。
「北出た! 鳴け! 鳴いたら役がつく! ポックリだ!」
…みたいなことを、酒臭い息で叫ばれ、言うがままにポックリ。
てか、ポックリってなに?
そしてしばらくして、ツモアガリ。自分では何も考えておらず、言うがままに牌をつまんでは出し入れ、そして倒しただけだ。
とはいえ、わしが生まれて初めてアガった手役は「北(ペイ)」の仕掛け。
しかも北海道のローカルルールでのアガリだ。東京では「東南戦」だが、北海道のジジイ世代のルールでは「東北戦」なのだ。東場が終わると、南場じゃなく北場が来る。わしは自風じゃなく、場風の北でアガったわけだ。あまりいないのではないだろうか。「場風の北」でアガった経験がある人は。
その一局っきりで、初めての麻雀は終わった。特に興味も持たなかった。
その女の子はのちに「裸は恥ずかしいことじゃない!これが人間本来の姿よ!」と、プールの着替えの時間に全裸になったり。泣いて床に転がる男子にスカート姿でまたがり「ほら!パンツ見て元気出して!」と叫んだり。思春期が近づくにつれ、だんだん素行がおかしくなっていき。眺めるわしもドンビキ、恋心も離れていったのだが。
セクハラ体験作文も含めて、エロアピールの激しい女の子だったなあ…という記憶だけが、麻雀よりも鮮明に残っている。
ファミコンの麻雀でノーホーラ
中1の時に、牧師先生の息子と一緒に、2人だけで教会の聖堂に泊まったことがある。わしは一応、洗礼を受けたクリスチャンである。
その牧師先生の息子さんは、家庭に「テレビを見ちゃいけない」という理不尽なルールがあり、子供にはせつない環境で育っていた。テレビには、キリスト教徒には不都合な情報がいっぱい流れているからだろうか?
ただし当時流行っていた、ファミコンでゲームをすることは許されていたようだ。お泊まり会には、その夜、放送は映らないテレビとファミコン、いくつかのゲームソフトがあった。
そしてわしはというと。嫌なことがあるとすぐ仕事を辞める、酒好きバイオレンス親父のいる家庭だったので、極貧もいいところ。ファミコンを買ってもらえなかった。他の家の子供と比べ、漫画もオモチャも極端に持っておらず、道で拾ったボルトとナットに冒険活劇を演じさせ、3時間も空想で遊んだこともある。
しかし、その夜には憧れのファミコンがあった。
わしは牧師先生の息子が「ファミコンばかりじゃなく、何か一緒に遊ぼうよ」と声をかけてきても、夢中になってコントローラーを握っていた。
ゲームソフトは「麻雀」
ルールはわからないが、何か面白い。わしじゃなくコンピューターばかりがアガる。わしも1回でいいからアガってみたい。どうやら3個セットの牌を集め続けたら、アガリが完成のようだ。うむ…何かヒントがつかめてきたぞ。
しかし何時間粘っても、一度もアガれず。メンツ3枚は理解できても、アタマとなる2枚を理解していなかったのだ。
気づいたら、牧師先生の息子はふてくされて、すでに寝てしまっており。お泊まり会で、一人用のゲームを無言で遊び続けるという、とても空気の読めないことをしてしまって申し訳ないとは思ったが。
あの日の麻雀ゲームは、アガれなくても、とても楽しかったのだ。
パチンコ麻雀物語
極貧育ちのわしは、中2から新聞配達を始めた。
中1まではバトミントン部に入って、休日も体育館で練習するほどハマっていたのだが。今後ラケットだけじゃなく、試合用のユニフォームやシューズなど、部活を続けるには、お金がさらにかかってくることを知り。
さらにユニフォームどころか、学生服や体操着、教科書すらも買うお金が我が家にはなかった。じゃあ自分の物くらい自分で買おうと、新聞配達をスタートしたわけだ。
夕刊配達のみで、月に1万3000円前後もらえる。
授業に必要な物は自分で買って、後はもう自由に使える金だ。親もさすがに、教科書まで自分で買う息子に「家に少し金を入れろ」とまでは言えなかったようだ。中学生が毎月1万3000円の小遣いを持っている。これは明らかに生活や価値観が変わった。
「働けば、お金が入るんだ!」
小学生の頃は、貧乏なゆえに、友達の家と比べてはかなりみじめな思いをした。しかし新聞配達を始めた今、自分はクラスの誰よりも金を持っている。まわりの級友が、ダイエーで買った3900円のケミカルウォッシュのジーパンをはいているのに、わしはリーバイスの501をはいている。
逆転…! 圧倒的格差…! 貧乏なガキ、成り上がる!
(ああ…早く高校生になりたいな、もっと時給の良いのバイトで稼げるだろうし)
中学を卒業してすぐにやったことは、やはり新しいバイト探し。2年間お世話になった新聞配達を辞め、生協のレジのアルバイトを始める。
同じ日に面接を受けた女の子に「うちの中学に、キミのことを知ってる子がいたよ」と修学旅行の集合写真を見せてもらった。最前列で、わざとらしい大股開きでパンツを見せて座ってる女の子。あの初めての麻雀の時の女の子だった。もうこれは性癖なのだな、と。…今どうなっているんだろう?
さて、レジのバイトを始めてみたものなら。
北海道は時給が安いとはいえ、フル出勤なら1ヶ月に6万円は稼げる。
15歳の子供が、毎月6万円使えるのだ。
もらった給料で、まずは初めてのパチンコ店。とにかくギャンブルがしたかった。そこで見つけた、麻雀をモチーフにしたデジパチ。その年すでに流行り始めていたあの名機「麻雀物語」
打ち始めてすぐに大当たり。ジャラジャラ出玉が押し寄せる。それがいくらになるか、どうお金にすれば良いかもわからない。ただ箱にどんどんたまっていく銀玉の輝きに大興奮。
でもその後、簡単に1箱飲み込まれ、ションボリ店を出る。それでもパチンコの大当たりの興奮だけは余韻としてしっかり残り。しかも麻雀牌が図柄のパチンコは楽しかった。とにかく、麻雀牌っていうのは、なんてデザインが美しいのだろう。
(そうだ、麻雀もやりたい…!)
忘れていた麻雀への憧れがまた、わしの中でフツフツとわいてきたのであった。
ジュンチャン3色
わしが入った高校は、旭川工業高等専門学校。
いわゆる「高専」だ。上級生が5年生までいる、高校と短大が合体したような学校。しかも制服はなく私服通学。校則もメチャクチャゆるく、ほとんど大学と空気が変わらない。学校帰りにそのままパチンコにも行けるのである。
クラスメイトの半分が、旭川に住んでいる子ではなかった。
「高専には大きい学生寮があるし、国立大学への編入も楽!」ということで、北海道の遠い田舎の市町村各地から、優秀な子が集まってきていた。何より授業料が安い。「家が裕福ではない、田舎の優秀な子」が選んで入る、それが当時の旭川高専。
その大きい寮には「娯楽室」という部屋があり、麻雀を打てる環境があった。学校で堂々と麻雀が打てるのだ。わしは旭川育ちゆえ自宅から通学していたが、寮生が集まって麻雀をしてるところへ毎日のように混ざり込み。そして麻雀を覚えていった。
ある日わしが、覚えたばかりのピンフをテンパイ。
12378m 789p 11789s
これをリーチかけて、出た六萬にロン!
そうしたら、後ろで見ていた友人にしこたま怒られる。「リーチかけちゃダメだよ! 九萬出るまで待たないと! ジュンチャン三色ついてハネ満なんだから!」
アガったのに怒られる意味がわからない。
本屋で「ニャロメのおもしろ麻雀入門」という、赤塚不二夫先生が漫画で麻雀を教えてくれている本を購入。帰宅して読む。
(ああ…なるほど! これは怒るわ!)と、叱られた意味がわかったとたん、麻雀が急に面白くなりだした。そこからのハマリ方はハンパなく、麻雀に関わる本やゲームを買いまくり。麻雀のお勉強の開始。
そしてこの時から、毎週のように買って、長く読み始めてしまった雑誌が…
「近代麻雀」「近代麻雀オリジナル」「近代麻雀ゴールド」
もうこの時から、極東シベリアに流されるのは運命のだったのかもしれない。
賭け麻雀ヒートアップ
麻雀をしっかり覚え、60符までの点数計算は大丈夫になった頃、クラスの仲間内で「賭け麻雀」が始まる。
打つ場所は先ほど話した、学生寮の娯楽室。しかしそれだけでは卓が足りないので、本当は禁止されている「生徒個人部屋での麻雀」も賭場として開かれるようになる。
千点30円の麻雀が、千点100円のテンピンになるまで1週間もかからなかった。貧乏なガキが多い高専だが、そのせいでみんなバイトしてるので、お小遣いがたっぷりあった。
1ヶ月の最後に集計をする。時には10万円も負けてる友達もいる。10万円はさすがに払えない。かといって払ってもらわないで、ズルズル月日が経っていくのはどうも気持ちが悪い。
「今週中にすぐ払うなら、半分の5万円で清算してあげるよ」
という、その後5年間も続く、特殊な「その日払いなら半額清算ルール」が始まる。負けた友達は、親に「友達のラジカセ壊して、弁償したいから2万円ちょうだい」などと嘘をつき、バイト代と合わせて、なんとか期日までに金を工面。しっかり負け金を払ってもらった以上は、受け取ったこちらも負けた時は意地でも払わなきゃいけない。
気づけば「どんな高いレートでも逃げない」「どんなことをしてでも金は払う」という、信頼できるメンツ7、8人だけが集まり、毎日のように麻雀を打つことになる。レートはピンの1−3。赤入り。当時はまだ赤牌がそんな流行っていなかったので、赤入りの手積み牌を一生懸命、ディスカウントショップで探していた。
そのうちギャンブル熱が高いもの同士でサシウマが始まる。
負けた方が、ピンズの1から9の牌を伏せて並べて、勝った方に1枚ひかせる。めくって1なら千円。5なら5千円。9なら9千円。わかりやすい。これがまたシビれて面白い。なにせ高校生なのだ。
しかしみんなバイトしてるので、卓が立たない日もある。もっといえば、平日だって学校なんかサボって、朝まで打ちたい。
高専2年生になったある日、サシウマをよく受けてくれていた友人が、とうとう口にした。
「雀荘行ってみない?」
初めての雀荘
旭川に雀荘はいっぱいあるが、なかなか敷居が高い。どの店を見てもヤクザがいそうだ。旭川は不良の街、ヤクザさんも大勢いる。
「怖い人がいなそうな感じの良い雀荘は…?」で見つけたのが、駅前の大手チェーンの雀荘。近代麻雀に広告も載っている。
その日は友人と二人、お互い財布に5千円しか持っていなかった。赤5ピン2枚入り、ご祝儀500円、ラスったらたぶん足りない。バイトの給料が出るまで雀荘初挑戦は待とうかと思ったが、やはり雀荘を目の前にすると、どうしても打ちたい。
冬の朝、駅前で友人と二人、タバコを寒さに震えながら吸って時間つぶし。そのまま学校をサボって朝10時、タテマエであろう開店時刻ピッタリに飛び込む。
無人。
よく見ると、カウンターの下から、1本の白い煙が立ち上がってる。メンバーさんがしゃがんでタバコを吸っておったようだ。
入ってきた客が明らかにガキ二人で、あちらも安心したのか、ちょっと待っててー!と軽い対応。逆に緊張してるこっちも気が楽になる。何飲みますかと聞かれ、寒かったので、人生で一度も飲んだことがない「梅こぶ茶」を頼む。
ズズッ…美味い…!
その日以来、梅こぶ茶が大好物となる。
雀荘での麻雀は、友人と対面同士に座らされ。メンバーさんと、すぐにやってきた常連のオジイさんと囲み。わしと友人が(ラスは引きませんように!)と、東南戦2戦をラス回避最優先でバタバタした後、そそくさと逃げるように退店。
「店の空気に慣れたらもう、いつもの俺らの麻雀と変わらんな!」
「梅こぶ茶、美味しかったな!」
高校生2人がソープで童貞捨てたような気分で、雀荘を退店。その日以来、財布にラス1回分の余裕がある時は、雀荘に通うようになる。
「梅こぶ茶飲みに行くわ」
…それが友人同士での「雀荘に行く」を表す隠語となった。
留年
いつもの友人同士で徹夜麻雀。卓が立たない時は雀荘。そんな麻雀漬けの学生生活が、高専4年生まで続いていた。
麻雀とは別に、パチンコにもハマっていた。友人もパチスロで勝った金で、意味なくアパートを借りたりしていた。ギャンブルのためにバイトをして、ギャンブルで使い切る。そんな4年間。
雀荘でも堂々とタクシー代を、店からアウトで借りるようになり。麻雀は全然上手くならなかったが、梅こぶ茶の美味しさだけは変わらなかった。
中学生までは、成績がとてもよろしかったわしも、バカになるのに十分な時間だった。
「おまえ、ほぼ留年決定だぞ?」
教師に呼び出され直球の言葉をいただいたのは、5年生への進級を目前にした、春休み直前だった。
進級するのに単位が足りない。
製図の先生が「このままでは、おまえに単位はあげられない。他の落とした教科の単位と合わせると、もう留年決定だろう。だから俺の製図だけはチャンスをやる」
高専は進級に厳しい学校だ。校則はゆるく、いくら遊んで自由に過ごして良いが、テストの点数だけは平均50点を越えないとバッサリ単位を落とされる。正直全教科レベルが高すぎて、しっかり勉強してないと、たとえ教科書を見ながらテストを解こうとしても無理なくらい。たまにテストの問題文が全部英語だったりする。わしはアメリカ人じゃない。
「追試してやる。それで60点取れたら単位をやるぞ。問題を出す場所は、教科書のこの範囲だ、しっかり勉強してこい!」
仏のような先生だ。先生がカツラであることを4年間茶化さなかった、わしの善行が追試チャンスを生んだ。範囲まで教えてくれるなんて。勉強も1夜漬けで何とかなりそうだ。
同じく追試を言い渡された友人と、試験の前日、徹夜で勉強会をすることにした。そいつのカノジョ(同じクラスの優等生)も応援で一緒に泊まって教えてくれる。もう完璧だ。これで5年生になれる!
…しかし。
その友人の家は、徹夜麻雀でよく利用してる家だった。そしてその日、麻雀仲間みんなが、たまたまバイトが休みだった。
「俺たちも応援するぞ!」と仲間が集まる。
そして明けた、追試当日の朝。
窓から差すまぶしい朝日。スズメの鳴き声。
気がついたら、まわりの友達は力尽きて雑魚寝。わしは一人、麻雀卓に散らばった牌と、集計表をボンヤリ見ていた。徹夜で勉強するつもりが、徹夜で麻雀打ってしもうた。
わしが追試で取った点数は、21点だった。
自主退学の決意
後輩に囲まれて受ける授業は辛い。
留年してきた先輩に、後輩たちは優しかった。ただ気をつかわれているのがハッキリわかるのが、何よりも辛い。寂しいので休み時間はすぐ隣の、元同級生たちの教室をのぞく。
進級した同級生は、卒業研究に打ち込んでいる。みんな将来の進路に向けての準備に忙しく、麻雀の誘いには乗ってくれない。わしも留年してる身なので、なかなか雀荘で遊んでいられる立場でもない。
学校では孤独な時間を「漫画雑誌を買って読む」に費やした。月曜にヤングマガジンとスピリッツ、木曜日にヤングサンデーとモーニング、そしてずっと愛読している「近代麻雀」「近代麻雀オリジナル」「近代麻雀ゴールド」
それを授業中に何度も何度も読む。他に読むものがないので、4回も5回も授業中に繰り返して読む。漫画を読み尽くしたら、活字のページまで。とにかく1日の時間が長い。
そのうち、いつもは読み飛ばしていた「新人漫画賞、受賞者発表!」のページまで読むようになる。
(下手だなあ、この程度なら、わしでも受賞できるんじゃねえの?)なんて、卑屈に半笑いで眺める。春が過ぎ、夏が来て、秋、そして冬休み直前。
1年間、漫画雑誌しか読んでいないので、勉強はまったくしていない。
バカでもわかる。また留年する。確実だ。
同じ学年で2度留年すると退学だ。なんでこんなことになった。麻雀のせいだ。麻雀さえ覚えなければ、わしは他の同級生と一緒に、将来の準備に入っていたはずだ。
しかし麻雀を覚えたことに、全然後悔はなかった。この学生生活5年間、麻雀ですごく楽しかったからだ。たぶん同じ気持ちで大学生活を送ってる、麻雀馬鹿は日本に大勢いるはず。わしはその幸福で泥沼な時間が、大学時代ではなく、15歳で訪れただけだ。早かった。
早いから、まだ何とかなる!
目の前の近代麻雀には「漫画家麻雀大会」の記事。憧れのプロや漫画家さんが楽しそうに麻雀を打っている大会の写真。あの亜空間の安藤プロも笑ってる。福本先生や片山先生もいる。麻雀記事を書いてる、馬場プロや福地先生や黒木さんにもきっと会えるのだろう。
「わしもいつかこれ行きたい…!」
大会をのぞくのではなく、作家として参加する。夢のようだ。まだ間に合うか…?
1月、冬休み明け。
わしは退学届けを出していた。
漫画家の道へ
1月末
自主退学届けを出した、その日の帰りのバス。
留年して同級生となった、後輩の女子が車内にいた。割とわしに気をつかって、ちょいちょい話しかけてくれていた子だ。カッコつけたかった。
「漫画家になるために辞めたんだ」
その子は実は、隠れてマンガ同人誌などを描いていたらしく。馬鹿にせず聞いてくれた。応援します!と、ものすごいはしゃぎよう。
(わしまだ、そこまで本気じゃないんだけどな…)
2月
とりあえず何かを描かなきゃ! と、初めて漫画の道具を買ってそろえる。とにかく1作でも完成させなければ。完成して新人賞に投稿さえすれば、結果はどうであれ、行動だけはしたことになる。
3月
同級生たちの卒業式。
もちろんわしは学校を辞めているから、式に出られるわけもなく。友人たちは、なにやらコスプレをしてふざけて楽しんだらしい。うらやましい。
3月末が締め切りの漫画新人賞に、15ページの漫画を完成させ、投稿。
4月
クラスの友人たちは、卒業旅行で温泉に行くという。5年間、クラス替えなどなく一緒に過ごした顔なので、みんな仲が良い。
わし、なぜか旅行に呼ばれて混ぜてもらい、ちゃっかりついていく。
温泉での夜、全員で部屋に集まって、それぞれの進路と、最後の真面目な挨拶を一人づつ語ることになった。みんな大学に編入したり、就職したり。わしだけが何も進路がない。カッコ悪い。
「漫画家になってみせるから。マンガ載ったら、みんな見てくれよな!」
とりあえず、そう言った。馬鹿にせず聞いてくれた。わしは7割冗談のつもりだったのだが、聞いてる友達の顔が全員ガチだったので(やべえ…)と。
賭け麻雀の支払いと同じく、一度口にした約束をやぶることは一番カッコ悪い…という空気の中で、5年も一緒に過ごしてきた級友たちだ。漫画家にならねばならぬ。
5月。
ヤングマガジン編集部から「キミが大賞を受賞したよ」の連絡が届く。
キョトンとする。
6月
「塚脇AQ」というペンネームで、受賞作がヤングマガジンに載る。
審査員の作家陣のお名前を見て欲しい。片山まさゆき先生がいる。
そうだ憧れの麻雀漫画家・片山まさゆき先生が審査員にいるのも、この新人賞を初投稿先に選んだ理由の、とても大きい一つだ。
ちなみに片山先生は「没」という評価をされたらしく。
もっといえば、審査委員長の業田良家先生以外の全員が「没」の評価だったようで。わしは運が良い。とにかくわしは、漫画家としてデビューはできた。約束は守れた。
麻雀で道を誤ったがゆえに、たどりついた漫画家への新しい道だ。
わしが留年していたクラスでは、担任の先生が、わしの漫画を授業中に開き。後輩たちみんなで読んで喜んでいたそうだ。もっと仲良くしてたらよかった。同人誌を描いていた女の子も、ペンネームの苗字を塚脇に変えたらしい。
近代麻雀からの依頼
26歳になったわしは、小学館で初連載の単行本も出し、いっぱしの漫画家っぽくはなっていた。でもまったく売れてはいない。
そんなヒマそうな若手に電話をかけてくるのが、竹書房だ。
このエピソードの続きは「キリンジゲート」という、わしが描いている麻雀漫画の2巻に収録されているので、興味ある方は読んでいただきたい。
その後「近代麻雀」「近代麻雀オリジナル」に、それぞれ読み切り漫画を載せてもらった。どちらも学生時代から、夢中になって読んでいた雑誌である。
そして
その年の漫画家麻雀大会に、わしは参加していた。
憧れの場所にとうとうたどり着いたのだ。
そして現在、シベリア極東
極東シベリアの海岸、海を眺めている老人にたずねた。
「なんでこんなさびしい場所にいるのですか?」
老人は答えた。
「おるべきして、おる。
麻雀漫画を描くための人生だったのじゃ」
(おわり)