私の中に新しく生まれた母的存在
幼い頃、私がメソメソ泣いていると露骨にイヤな顔をする人だった。私の母。
悲しい気持ちになってるからメソメソしているのだけど、
母から突き付けられる眉間にシワを寄せた顔のほうが、自分の悲しい気持ちよりもさらに痛い。
なので、『自分の悲しい気持ち』を優先するよりも『なんでもないふり』をすることを無意識に選ぶようになった。
たぶん、もともと仮面をかぶることが上手な子ではなかったはず。私はそんな器用な子ではなかった。
とにかくビビリ。人が怖い。
幼稚園の教室でやんちゃな男の子たちが大声で暴れているだけで怖くなる。
先生が誰かを怒り出すと、怖くて怖くて…教室が地獄に感じられる。
とにかく『人』が怖いから、幼稚園とか学校とか、そんな人の集まる場所にいるだけでヘロヘロに疲れ切ってしまう。
そんな娘に、たぶんイライラしていたはずの私の母。
私とは真逆の優等生。運動もできる。とにかく強い。先生から信頼されるタイプ。
自分の娘が自分とは全くの真逆で、いつもメソメソしているなんて許せなかっただろう。
今では少しそう思える。
母の目、口調、私にはとにかくしんどかった。
母にイヤな顔をされるくらいなら、『なんでもないふり』をしていたほうがずっとラク。
幼い頃に無意識に身に付けてしまってそれが当たり前になってしまった技は、なかなか抜けてくれない。
いつの間にか、鋼鉄のバリアを身に纏ってしまっている。
すごく悲しくて泣きたい気持ちなのに、涙は不思議なほどスムーズに逆流して戻っていく。
なんでもない。なにもつらいことなんかない。困ったことなんてなにもない。
つらくなんかない。悲しくなんかない。私はいつだって平気だ。
ずっとそんな演技を重ねて生きてきた。
そうして私は見事に壊れた。
気持ちに蓋をすることが、やっぱり今でも上手だと思う。身に付けてしまった悲しい技。
悲しい気持ちになったときに、安心して悲しい気持ちに浸れないというのは、けっこうしんどい。
それでも、蓋をすることに慣れてしまうと、気持ちってうまくごまかせてしまう。
でも、そうやってごまかしてきた『気持ち』は、置き去りになったまま私の中に残されている。
今でもときどき、感情が爆発する。
なにに対して自分がそれほど怒っているのか自分でもよくわからないまま、感情がコントロール不能になる。
たぶん、私が無意識のうちに置き去りにしてきてしまったたくさんの「気持ち」。
お店のレジそばなどに置かれた「お忘れ物」のカゴ。
私の場合は小さなかわいいカゴなんかにはとても入り切れない。
置き去りにしてきたたくさんの気持ちで、お店はパンクしてしまう。
自分の中で嵐が吹き荒れたときは、とにかくペンを持ってノートに書き出す。
書き始めてみると、自分でもびっくりするくらいに汚い気持ちがぐつぐつと湧き上がってくる。
そんな気持ちになるべく蓋をせずに、全部吐き出す。これが意外としんどい作業。
吐き出すというのは、とてもエネルギーが要る。
ノートを見返すと、よく自分で
「怖がらなくていいよ。出てきていいんだよ。全部出していいんだよ。」と何度も書いている。
置き去りにしてきた『気持ち』たちに、今の私が声をかける。
そしてさらに「ごめんね。一人ぼっちにしてしまったね。寂しい思いをさせてごめんね。気づいてあげられなくてごめんね。」という言葉を書く。
これはたぶん、母に言って欲しかった言葉。
母の変わりに、私自身が私のお母さんになって、私に言葉をかける。
たぶん、セルフカウンセリング的で、ひとりロールプレイみたいなもの。
どの私に、いつの私に向けて書いているのか、自分でもわけがわからなくなる。
あまりにもたくさんの気持ちを置き去りにしてきてしまったから。
いつの私の気持ちが噴き出しているのか、よくわからない。
でも、たぶん自分の中から噴き出してくるのは、私の中に残っている気持ち。
今はとにかく出てきた気持ちを否定せず、ひとつひとつ拾い上げて声をかけてあげる。
声をかけて、そしてぎゅうっとハグする。
寂しい思いをさせてごめんね。ずっと一人だったね。これからはずっとそばにいるよ。寂しくないよ。と。
やっていて気の遠くなる作業。
どの私がどの私へ話しかけているのか、自分でも混乱してしまいそうな作業。
でも、この作業を始めてかれこれ6~7年。
自分の中に吹き荒れる嵐が、少しずつ少しずつ、着実に和らいできている。
起きる頻度も目に見えて減っている。
だから、自分で効果を信じて続けていくしかない。
自分自身が『母親』となって自分に声をかけ続けていたら、いつの間にか私の中に『母親』的な存在ができていて、その『母親』は私が登場してほしいときに登場してくれるようになった。
人格が分離しているわけではないから、自分が自分であったり母親になったり、コロコロとせわしく入れ替わるのでなんだか頭がパンクしそうになるけれど。
それでも慣れてくると『母親』になれたり『自分』に戻れたりが自由にできるようになる。
そしてなにより、自分の中の『母親』の部分を信じられるようになってくる。
つらい気持ちが出てきたときには、ノートを開いてペンを持てば『母親』は確実に登場してくれる。
現実の母は、相変わらず言葉に不器用な人で、私に対しての温かい言葉は期待できない。
でも、私の中に棲み始めた『母親』は、確実に私の欲しい言葉を与えてくれる。
自分の中の『母親』を信じられるようになって、現実の母との関係がラクになった。
求めても与えてはくれないモノを、母に期待する必要がない。
求めても与えてはくれないとわかっていても、ついつい母に期待するからよけいにみじめな気持ちに陥ることになる。
母に無用な期待をしなくても、私の中の『母親』がしっかりと私に言葉を与えてくれる。
私と、私の中の『母親』との間での信頼関係ができて、私はとても生きやすくなった。
たぶん、誰にも引き剥がすことはできないと思う。私と、私の中の母親を。
気持ちに蓋をすることでしか、たぶん私は私を守れなかった。
置き去りにしたいわけではなかった。でも置き去りにするしかなかった。
生きるためには、そうするしかなかった。
置き去りにするしかなかった『気持ち』。
そんな気持ちは、私の中から悲鳴をあげて私にその存在を知らせてくれる。
ここにいるよ。気づいて!と。
そんな『気持ち』に、これからも声をかけ続けていこう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?