人との距離、SNSとの距離
初雪
県内は観測史上一番遅い初雪。
夜8時頃、帰り着いた息子の「雪降ってる」という言葉に、思わずスマホを握る。
「写真撮ってくる~!」という私の言葉に対して、冷ややかな母の視線が降ってくる。
そうそう…。その目。
呆れているというか…。
母自身はたぶん全く意識してないのだけど…。ちょっと私のことバカにしてる?と感じてしまうような。
子どもの頃からそんな母の目がキライだった気がする。
その目をされるともう、「やめておこう」となってしまう。子どもなりの忖度。
母の機嫌が悪くなるのは、私にとってもみんなにとってもトクではない。
そんな忖度を続けていると、行動を起こす前に「この行動は母の気に入らない」というのがわかるようになる。
母は私の外側ではなく、内側にいる。私が母を私の中に取り込んでしまった。
そんな母からの離脱はラクではなかったけど、ようやく「母の冷ややかな目」よりも、自分のやりたいことを優先できるようになった。
なので今夜も張り切って(母の冷ややかな目を振り切って)、スマホを握って外へ出た。
すごく降ってる。温暖なこの辺りでは、雪を見られるのは一年に数回。
とくに今年の冬は温かくて、ようやく見られた雪。これが最後かも。
みぞれ混じりの雪なので数分でびしょ濡れになる。
でも楽しくて仕方ない。自分のやりたいことを優先させてよかった。
居場所
生まれ育った家庭に自分の安心できる居場所を見つけられなかった私。
やっぱり今でもずーっと自分の居場所を探しているなぁと思う。
早くに離婚したこと。病気を抱えて仕事もできなくなったこと。
そんなこんなで、結局気の休まることの少ない自分の実家にお世話になるしかない。
「人」はずっと苦手だった。「人」から出てくる言葉は痛い。
でも、誰か私の苦しさを理解してくれる人がいないかと、ずっと必死に探して生きてきた。
「孤独」を抱えていると、「人」が怖い。でも強く「人」を求める。
「人」への執着がとてつもなく強かった。
「人」の中に「母親的」なものを求めていたのかもしれない。
全面的に自分の存在を受け入れてくれる大きな愛。みたいなものを。
人との距離
気付かぬうちに相手の中に「母のような愛」を求めているとしたら、
その関係がうまくいくはずがないなぁと、今は少しわかる。
でも、たぶん私は必死に求めていた。私の苦しみを理解し受け入れてくれる人を。
相手に受け入れて欲しい〈執着〉が強いから、「人」との距離の取り方が天才的に下手くそ!
今でもやっぱり下手くそだし不器用。
けど今は、一度ギュッと縮まったように感じた距離がグン!と離れることに慣れてきた。
うまく続く関係もあるし、うまくいかない関係もある。
うまく続かない関係をそれほど気にしなくていい。
SNSとの距離
私にとって「SNS」は「人」と同じような存在。
それは私が「SNS」に自分の居場所を求めているから。
家庭の中に居場所を作れない私は、別の何かを探すしかない。
なんの特技もない私にとって、今のところ「自分の気持ちを言葉(文章)で綴る」ときが自分の一番安心できる時間。
一年半ほどInstagramで少しずつ自分を綴ってきた私。
もう少しじっくりと「文章」にしてみたいと感じていたときに、noteとの出会いがあった。
超アナログで生きてきて、それまでまったくSNSに興味のなかった私。
Instagramを始めた当初も、そこがどういう場所だか摑めずにすごく戸惑った。
noteを始めて、やっぱり同じことを感じている。
クラス替えのあったばかりの新しい教室に一歩踏み込むときのような。
慣れない場所での居心地の悪さ。見慣れない顔に囲まれた緊張感。
周りはみんなすでに仲良さそう。自分だけがそこに入れないような…。
何かよそ者扱いをされてるような。(もちろん被害妄想)
とくにnoteは圧倒的に文章の上手な人が多くて「私なんかがこんなところにいていいんだろうか?」と気後れしてしまう。
自信のない私がニョキニョキと芽を出す。
でも、と自分に言い聞かせる。
文章の上手な人が多いから。
わかりやすい文章を綴っている人が多いから。
ためになる文章を提供している人が多いから。
だから、私は私らしい文章を書けばいい。
上手な文章なんて書けなくていい。
ためにならなくていい。
そう思えるのです。
ときどきお邪魔する喫茶店のご夫婦。
いつも「あら、いらっしゃい。久しぶりね」と迎えてくださる。
noteは私にとってそんな喫茶店のような場所になるのではないかという気がしています。