楽園と地獄の狭間を漂う箱船はどこへ行くのか?――サイコパス1期感想(前)
10年ぶりと言うのは誇張表現だが、少なくとも5年ぶりくらいには1期を見返した。相変わらず最高におもしろかったので、感想をしたためていきます。
初めて放送された2013年10月のちょうど100年後、2113年の10月、新人刑事の常守朱が配属された日から物語は始まる。
ベースはディストピアSFの刑事物であるが、扱われるテーマはどれほど時を経ても変わらない普遍的な「人間らしく生きるとは何なのか?」であり、現代への風刺でもある。
むしろ家族観などの細かい部分がとても100年後とは思えない。『素晴らしい新世界』のように、高度に成熟した福祉社会は家族(血縁)が解体されるのが自然な姿だ。誰もがシステムに見守られているなら、子どもを育てるのが親である必要もない。
この作品は明らかに「未来のふりをした現在」だろう。
ユートピアと一体化するディストピア
サイコパス1期は、さまざまな点においてねじれ構造を基本としている。
激変した社会で善悪は入れ替わり、悪人が善行を為し、ユートピアとディストピアはひっくり返って境界も溶けあう。潜在犯として自由を束縛され、人権もない執行官は、社会から落伍したがゆえにエリートである監視官よりもよほど精神的に自由に生きている。視聴者と最も近しい主張を掲げるのは、悪役であるはずの槙島である。
社会正義を成す刑事たちが黒い服を着ているのに対し、悪役であるはずの槙島は白い服を着ているのは、視覚的にもわかりやすい演出だ。
心を数値化することが可能になった未来、その技術を元にした「包括的生涯支援システム」、通称・シビュラシステムが社会を統治し、犯罪係数と潜在犯という概念の導入によって犯罪のほとんどが未然に防がれるようになった。
「成しうる者が成す」を掲げたシビュラシステムは、人々の適性を見極め、最も適切な生き方を提示し、「ゆりかごから墓場まで」を体現する。戦禍により荒廃した海外をよそに、唯一の文明国として空前の繁栄を極める日本は、物質的な豊かさにおいてユートピアそのものである。
丸裸にされた心を無機質に観測するシステムは、自分よりも自分を理解してくれる。小さな悩みはあれど、おおむね幸せな毎日をシステムは約束する。
平和で豊かで安定した社会、希望した職業への適性は出なくても推奨された仕事は自分にぴったりだった――公平で過たないシステムは、その人自身も知らないその人の最適解を提示する。
〝神託〟に従えば、一生をゆりかごで微睡んだまま終えることができる。ストレスはすぐにケアされる。まるでハクスリーの『素晴らしい新世界』のようだ。
一方で、〝神託〟に盲目的に従い、恩寵を失うことを恐れる姿はオーウェルの『1984年』を彷彿とさせる。
精神衛生至上主義は精神的な豊かさを保証するのではなく、むしろ「シビュラの神託に従わなければならない」と人々の心を束縛する。ストレスはケアされなければならない。公然と娯楽は検閲され、シビュラに許されたものだけを口にすることができる。幸せなふりをしているだけの抑圧された社会だ。
主人公たちは刑事として、楽園を脅かす犯罪者と対決していく。その過程で、美しい虚飾に彩られた楽園の欠陥を見ることになる。
それがよく現れているのが第1話だ。この出来映えはすばらしい。世界観と主人公の立ち位置の説明、テーマの提示とその回答が第1話で余すところなく示される。
第1話がこの物語のすべてと言っても過言ではない。
完璧な社会の欠陥
物語は朱が事件現場に到着したシーンから始まる。初っ端から廃棄区画という、楽園における必要悪が朱を通して視聴者に見せつけられる。
朱が最初に遭遇する事件もそうだ。この社会で唯一許された武装、ドミネーターは対象のサイティックスキャンを瞬時に行い、〝罪〟を数値化する。罪の重さに応じた即時量刑が行われる最強の武器だが、これが最初の事件の時点で犯人に効かない。
すなわち、最初からドミネーターは欠陥があることが示されている。
前提として、主人公たちは刑事であり、犯罪を追いかける。この職業が廃止されていないということはつまり、心が数値化されて筒抜けになった社会でなお犯罪に及ぶ人がいるということだ。
完璧なはずの社会は犯罪を激減させても根絶できていない。これはキリスト教における神義論とも重なる部分がある。すなわち、「システム(神)が完全であるならば、なぜこの世には悪が存在するのか?」という問いだ(作中では聖書の引用がたびたび見られるので、意識しているかもしれない)。
第1話の犯人は、長年シビュラに従って大人しく生きてきたのに、その見返りが不十分だったからと現実の女性に手を出した。シビュラシステムの与える恩寵は不均衡なのだ。
第1話で雨が降っているのも意図的な演出だろう。
ホログラム技術が発達した時代、街は物理的な装飾ではなく、ホログラムに覆われるのが当たり前になっている。人間も同じように、ホロコス(ホログラムによるファッション)が当たり前になっている。あえて悪意のある言い方をすると、これは「うわべだけ取り繕っている」状態だ。
雨はこの美しいホログラムを乱す。刑事たちがいずれ直面する事となる、楽園の下に眠るおぞましい真実を暗喩するように。
この社会は完璧なのではなく、完璧さを装っているだけであり、虚飾を剥いだ下には今と変わらぬ〝悪〟が歴然と存在している。システムは完全無欠な存在ではない。廃棄区画という逃げ場を用意し、平和的に〝共存〟して自身から切り離すことによってそう見せかけているだけだ。
廃棄区画があるのにユートピアを装うシビュラ社会のことを当時はあんまりピンと来ていなかったが、今見ると設計思想が完璧で驚く。システムの完璧さとは、〝神託〟を下すシステムそのものではなく、システムを組み込んだ社会制度の設計の方にある。
ストーリーは容赦なく、朱と、朱を通して物語を見る視聴者にこの世界のディストピアの側面を叩きつける。
それでいて、続く第2話は朱の友達を登場させ、ユートピアの側面を描く。
これで、この社会はほとんどの人にとってはユートピアだが、メインキャラクター(=物語の視点)にはディストピアが見えているという感覚を視聴者と共有することになる。
神託と責任の在り処
もうひとつ、第1話が重要なのは、「完璧さを装う社会の隙間を埋めるのは人間である」「どれだけ技術が発達し、機械が公平で過たない判断を下せるようになろうとも、最終的な責任は人間が負う」というテーマを示した点だ。このテーマは、作中で起きる事件を通して手を替え品を替え、何度も繰り返される。
最も直接的にこのテーマを主張したのは槙島であり、作中にてこの役割を果たす最たるものが監視官である。
ドミネーターには引き金がついている。罪を裁定するのはシビュラシステムだが、裁きを下すのは人間だ。この話は物語中盤でも登場する。
完璧に見えるシステムの完璧ではない部分を補完して美しい虚飾を保つのは人間の仕事だ。だから監視官は、この社会の最も社会的地位の高い職業のひとつになる。
最終的な選択を行い、責任を負うという最も心理的負担の高い行為は人間だけが行えるものとして残されている。逆に言えば、自分の意思で選択することこそが人間らしい行為となる。これは槙島と同じ発想だ。
朱は第1話で被害者に引き金を引くことを拒否した。代わりに宜野座が執行した。朱は宜野座に叱られたが、公的な罰則は何もない。つまり、監視官にはシビュラシステムによる神託を拒否する権利がある。
朱は最初から無意識にそれに気がついていた。
ドミネーターの銃把を握る監視官とは、犯罪者を追う刑事である以上に、裁きを下す裁判官でもある(警察に司法権を持たせているのは何度見ても過激な設定だ。並の精神では、ドミネーターというエクスキューズがあってすら、とてもやっていけないだろう)。
初めて見た時には朱たちの職業が「刑事」であるというのになんだか納得できなかった。社会人になってから見返せば、朱たちはむしろ、作中では滅びた職業であるはずの「裁判官」を兼ねていることに気がついた。
これは、朱が神託を拒絶できることに確信を持つための物語だ。
(物語を複雑化すると懸念されてかカットされた「宜野座が法学部法律学科を卒業し、国家法曹士の資格を持っている」という設定は、思い起こせばなかなか意味深である。正直、こっちも深堀りしてほしいくらいだ)
物語における悪役、槙島聖護は人間らしい行いを、自らの意思に基づく行動だとする。彼は事件を通して、「自己決定権をシステムに委ねて生きるお前たちは意思ある人間なのか?」と問いかける。
物語もこのテーマを何度も提示する。
まず第1話、朱がドミネーターの引き金を引くことを拒否したシーン。
第3話では、ドローン工場で危険な作業である最終チェックを機械で代替できず、人間が行うという設定が登場する。
ドミネーターもドローンも、最終的な責任は人間に帰す。
その次の事件、桜霜学園では「人間にできて動物にできないこと」について言及される。王陵璃華子と宜野座が全く接点のないまま、会話が重ね合うように演出される。
宜野座は安全制御(ドローンを暴走させない仕組み)、王陵璃華子は絶望すること(キルケゴールより引用)を挙げる。
宜野座の台詞はドミネーターに対する監視官(引き金は自動ではない)の暗示のようであり、璃華子はシビュラシステムに対する免罪体質者(絶望しても社会に否定されない)を暗示しているようでもある。
ストーリー中盤、宜野座が局長に呼び出され、「ドミネーターの引き金の意味を考えたことはあるのか」と尋ねられるシーン。今まで暗喩で匂わせてきたモチーフが、ここで最もわかりやすく言及される。
そして、1期13話で免罪体質者という存在が初めて宜野座および視聴者に明かされ、完璧なシステムが完璧さを装っているだけであること、その欠陥を埋めるのは人間であることが強調される。
つまり、この社会における「人間が果たすべき役割」とは安全装置――己の意思を持ち、責任を負うことである。ストーリー上、これが指し示すのは監視官であり、免罪体質者だ。
人間である監視官がドミネーターの審判の安全装置であるのと同様に、システムの安全装置もまた、人間である免罪体質者である。
監視官の役割は言うに及ばない。ドミネーターの裁きを実行する人間、それが監視官であり、この社会で形骸化された「決定権」を持つ人間である。
免罪体質者はシステムの多様性を確保するためにシステムに取り込まれる。安定した社会は停滞と隣り合わせだが、システムの例外たる免罪体質者を組み込むことによって、シビュラシステムは成長し続ける。まるで人間のように。
ハイパーオーツという単一種に依存する食糧事情とは、あまりにもストレートなシビュラシステムのメタファーだ。極限まで効率化された麦は冗長性に欠け、外敵(ウイルス)に弱い。この危険を克服するために免罪体質者は「社会奉仕の刑」を課され、システムの一部となる。
(そう考えると、10年監視官を務めて昇進する人間というのは、本来は免罪体質者に対する安全装置のようにも思える。シビュラが選び、シビュラの課す試練を耐え抜き、やがてシビュラの真実を知らされて社会の統治者の仲間入りをして、シビュラの電源の在り処を知る存在として)
人間らしさとは、選択し、責任を負うことだ。選択することは権利であり、権利は義務を生じさせる。どんなに苦しくても、責任を負うことは誰にも渡してはならない。
槙島のやり口を批判し、逮捕しようとした朱もまた、槙島と同じ思想へたどり着く。
楽園で飼い慣らされることの幸福
ストーリーは「人間が選択し、責任を負うべきだ」と繰り返しメッセージを発するが、作中は逆である(このメッセージを発するために逆にしたとも言う)。
作中の市民は「公平で間違えない機械」にすべてを委ねる。多少の疑問はあれど、「自分で選ぶ」ことに今ある幸福を手放してまで追いかけたいほどの魅力は既にない。
自由とは責任を負うことであり、この均衡が崩れてしまったなら、自由はさほど重要ではなくなる。それを否定することはできない。
「人間は決断するのが実は苦手」という言説をどこかで見た記憶がある。流されるまま、敷かれたレールに乗っかった方が楽なのは間違いない。
人は楽をしたがる生き物だ。完璧なシステムが良きに取り計らってくれるなら、市民が自己決定権を放棄し、自分の人生をシビュラに委ねようとするのは理解できる。責任とは重いものであり、可能であれば背負いたくない。
(ちなみに大学の音声学の授業で、音韻変化についてさえ「人は楽をしたがるから楽な発音へ変化する」と説明されて衝撃を受けた。人間は本当にあらゆるところで楽をしたがる生き物だ)
それゆえに、システムに依存することを忌避する槙島は異物として扱われる。
それゆえに、「法が人を守るのではなく、人が法を守る」と主張する朱は理想的市民でありながら異端でもある。
人が自らの意思で決断してこそ人間だと槙島は言った。システムにすべてを委ねる人々を家畜に例えさえもした。
大多数の人は弱くて決断が苦手で、肉体の保全が図れるなら他者に委ねても構わないと考えもしないあたりが高知能のサイコパスらしさだ。他人の気持ちを理解できない、共感する能力に欠けた異物である(そして、自分がおかしいことだけはわかっている)。
朱も槙島と似ている。ただし、彼女は自分が他と違うことを、何が違うのかを理解し、他者を思いやる能力(=社会性)がある。
「法が人を守るんじゃない、人が法を守るんだ」という台詞は、当時よく理解していなかった。改めて見れば、これは主体性の維持の話だろう。よりよい社会を望んだ人々が作り上げた法というものを運用するのは人であるべきであり、法とは社会に合わせて変化してゆくものだ。
まかり間違っても、作り上げた法を信奉し、「正しいと決まっているから」と思考停止すべきではない。法とは完璧なものではない。社会もまた、完璧とはほど遠く、最良の姿を目指して変化し続ける。
シビュラシステムの下す〝神託〟の中で最も重要視されているのが職業診断だ。
実のところ、このシビュラの〝神託〟はあくまで〝推奨〟という形を取り、この推奨を断るシーンも登場している。例えば、六合塚は執行官適性が出ても最初は拒否していた。
〝推奨〟ということは、選ぶ権利があるということだ。だが、作中では槙島に家畜と蔑まれた市民たちは、自分たちに持たされた権利に無自覚で、推奨された仕事に就くだけだ。
あるいは、権利を行使した末の責任から逃避するように。
六合塚の過去編で、テロを画策するリナが「議会も議員もいるけど、官僚はシビュラが選ぶから民主主義なんか嘘」と批判している。これは考えてみれば妙な話だ。
宜野座は志望して監視官になった。何にでもなれた狡噛は、宜野座がなりたいと言っていたから監視官を選んだ。朱も自分一人にしか監視官適性が出なかったから、監視官を選んだ。作中で登場した三人の監視官は、いずれも自らの意思でこの職業を選んでいる。
官僚に適性が出る人間が少ないのは間違いないが、適性のある人間をシビュラが強制的に徴用しているわけでもない(むしろ、発見されたら徴用されるのは免罪体質者の方である。この話は後編で書く)。
もちろん、潜在犯という概念は人権侵害であり、現実には存在を許されない。縢はわけもわからず、5歳で潜在犯と判断されて施設で育てられた。
だが、朱の友達が最終考査と適性診断に一喜一憂する姿は、現在ととてもよく似ている。現実の試験は点数が足りなければ自動的にふるい落とされる。就職活動はもっと複雑だが、希望した職業に就けないのも別におかしなことではない。自分の考える適性と相手の求める適性とはすれ違うものだ。
シビュラシステムは、その試行錯誤にかかる時間を無駄だと考えた人々によって考案され、実用化された。この理念自体は決して間違いではない。
(作中では「無職」という概念が消滅しかかっているが、人口が1/10に激減したなら遊ばせておく余剰人員もないだろう)
民主主義が形骸化していることについて、批判されるべきはシビュラシステムではない。自己決定権を放棄し、責任をシビュラシステムに委任した市民の方だ。
シビュラシステムの方が、統治を正当化するために法というエクスキューズを必要とした。
そもそも民主主義とは、選択した責任が市民に帰せられる政治体制だ。だから時として「衆愚政治」と揶揄される。本質的な欠陥として、選ぶ側の市民より「頭がいい」政治ができないからだ。
宜野座は潜在犯の子どもとして迫害を受けたが、迫害したのはシステムではない。システムの判定を誤解し、恐れた市民の方だ。むしろシステムは努力を重ねる宜野座に恩寵を与え、適性診断においても差別しなかった。
(このあたりはディストピアにおける密告制度らしさだ。正体もわからぬビッグブラザーを恐れる市民が相互監視するのとよく似ている。これもまた、意思を放棄したことの表れだろう)
槙島はこれを見抜いていたのだろう。市民たちに手段を用意し、意思を確認しようとしてきた。
シビュラシステムも同じだ。犯罪係数を決めるのは免罪体質者による合議だが、彼らは「公平であること」を自らに課し、機械に欺瞞する。それゆえに、決定すること、その責任を負うことを厭わない人間に監視官適性を出す。
この社会を動かすに足る人として。自らの欠陥を埋めるものとして。
幸せとは主観的なものである。化学的に言えば、脳内で分泌される物質が脳に幸福を感じさせる。実際、作中ではストレスケアとして薬剤を服用するのが一般化している。
鎖国し、情勢不安定な海外から切り離された唯一の地上の楽園は、物質的に満たされている。肉体の生存は保全されている。
つまり、ここで問題になるのは精神的な豊かさだ。
槙島にとっては、選択することが幸福だった。市民にとっては、選択せず、責任を放棄することが幸福だった。
どちらが正しいというものではない。人によって価値基準は異なる。サイコパスという統一された価値基準が支配する社会で、槙島は折り合いをつけることができなかった。システムを盲信する市民に似て、自分の価値観を絶対に正しいと思っていた。純粋な子どものように。
朱は他者の判断を尊重した。飼い慣らされた家畜とて生きる権利はある。朱はそれを幸福だと判断した。自分と他人の幸福は異なるものだと自覚して。
そして、現実はシビュラシステムによる〝推奨〟にまみれた社会へ近づいている。
動画サイト、通販サイトで「あなたにおすすめ」という機能はごく一般的になった。まだ精度は不十分ながら、世界は自分に向けて最適化されていく。
もう何年も前から、就活サイトは適性診断を用意し、おすすめの職業を提案する。
「誰もが小さな独房で自分だけの安らぎに飼い慣らされているだけだ」という槙島の台詞は、10年経った今、よりリアルに感じる。
シビュラシステムに統治された社会は、大多数の人々にとってユートピアであり、一部の人にとっては耐えがたいディストピアだ。
ユートピアである側面を否定できない朱は、現行の社会制度の存続を選択する。自分より弱い人々を守るために。
まだゆりかごから歩き出すことのできない市民を朱は見捨てなかった。それこそが、朱に監視官の適性が出た証左なのだ。
サイコパス1期はジャンルとしてはディストピア物だが、わたしはこの作品が描いた社会がディストピアだと思わない。
これは、諦めない人たちがユートピアを目指して旅を続ける物語だ。
第1話もすばらしい出来だが、最終話もまた美しい。
宜野座の位置に朱がスライドし、宜野座は征陸に、美佳が朱に入れ替わる。何も変わらない六合塚と唐之森が見守る中で、新たに朱がシステムを回し始める。少しだけ違う方向を見据えて。
誰もが誰もの代替品であることを嘆いた槙島の台詞通りに、少しずつ違うパーツが欠けた部分を埋める。全く同じとはいかなくても、社会を回すにはそれで事足りる。
誰かの代替品になることを拒絶した槙島は、狡噛に殺されることで唯一無二の存在となる。槙島に心の大半を持って行かれた狡噛は、誰にも代替できなくなってしまい、物語から退場する。
物語は「完璧な社会」という皮肉そのもののタイトルを冠し、美しい円環構造を成して閉じる。
「こんな社会は間違っている」「こんなものは幸せじゃない」と言い切ることのできない複雑さ、それこそが社会というものであり、生きるということであり、色褪せることのない普遍的テーマであり、この物語のおもしろさだ。
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