農法の違いは分断を生むのか。
今回は少し大きな話に切り込んでみようと思う。
最近よく見聞きする自然農や自然栽培に対する冷ややかな声。
その多くは、慣行栽培(農薬、化学肥料を適切に使った栽培)に対する批判に反応した人たちの声だと感じる。
無農薬、無肥料栽培が不可能で綺麗事であるというような、その人の経験に基づく指摘は、まだわからないでもない。その方の長年の経験から導き出された答えを否定することはできないと思う。
農薬、化学肥料の安全性の議論は尽きないが、これもまだ研究が進んでいるとは思えないし、国家レベル(食糧安全保障など)の話になってくるので、色々なバイアスがかかっているのだとも思う。
そこには国が定めた基準があり、それに従った方が農業を継続しやすい現実がある。
それを現場がどう捉えるか、それについて良いも悪いもないだろうと考える。
また、人間の手が入った時点で「自然」ではない!というようなご意見も耳にするが、それに関してはその人それぞれが持つ「自然観」が大きく影響する。
何を持ってそれを「自然」と呼ぶのかは面白いテーマで、語り尽くすにはかなりの時間が必要だと思うが、現時点の自分はこう考える。
まず、日本人は昔から自然と共存することで生きてきたと思う。
島国ならではの豊富な資源をいただきながら、自然と一緒に繁栄してきた民族。
四季がはっきりとしていて、季節ごとにそれを表すたくさんの言葉が生まれている。
明治以降からこれまで、日本はかなりの速度で成長を遂げた。そこで犠牲にされたのは、今まで培われてきた自然との調和である。
僕が行う自然農は、自然に寄り添うことを前提に置いている。自然の営みの中に人間が加わるが、人間都合の野菜作りではなく、他の生物たちとのバランスを考えながら、できたものをいただくこと。
そこに真髄があるように感じている。
決して精神論やスピリチュアルな話ではない。
目の前にしっかりと「自然」が存在しているのだと言いたい。
人間が介入する自然は偽物なのか。
いや、そこには自然界の営みが繰り返されていて、人間の都合を通す余地もないほどの緻密な世界がある。
まずはそれを観察・体験することをお勧めしたい。
身体性を伴う意見から、感情的なものまでごちゃ混ぜにされた議論では、なかなか皆が納得しうる答えは導けないのだろうと思う。
声の大きい人たちの空中戦には一旦見切りをつけていい。畑で虫たちの活動をぼーっと眺めることや野菜の日々の成長に喜びを噛み締めることは、面識のない誰かを論破することよりとても有意義である。
まず体を動かして自然に触れてみることが疑問を解決する最善の方法だと願ってやまない。