そう、研修仲間の存在を忘れてはならない。 自然農とは何か。 生まれも育ちもばらばらの研修生たち。 山岡さんの呼びかけにピンときた総勢5名の一期生は、みなそれぞれに自然農に向き合おうとしていた。 島の穏やかな空気の中で、研修は、それはそれは楽しく、学びの多い時間となった。 今までは、1人で自然農に向き合ってきた。 自然農がなんたるかを、さまざまな媒体の色々な情報をもとに自らに落とし込んできたものの、それが確信に変わることはなかった。むしろどんどん混乱した。どの情報が正しいの
島の自然農園での研修が終わった。 1年間、毎週金曜日が待ち遠しくて、愛媛県まで通うことが楽しみになっていた。 まず、師匠の山岡さんご夫婦と出会えたこと。 自然農の魅力を自分の目で確かめたい、この人達の見ている世界を自分も見てみたいと思った。 そしてこれは、僕の人生に、何よりも大きなインパクトを残した。 書籍やインターネット、YouTubeで自然農のことをたくさん調べたが、知れば知るほどわからなくなった。どの言葉を信じていいのかわからないと思った。 そんな時は飛び込む!
昼と夜の寒暖差からだろうか、夜明けごろの畑にはうっすらと靄がかかっている。 秋の葉物や根菜類は軒並み穴だらけで、お世辞にもうまくできたとは言えない。 何度も蒔き直し、ようやく残るものが増えてきた。 さて、今年のような、10月半ばまで高温が続く気候にどう対応していくか。 農夫の力が試される。 特に自然農をベースにする僕の畑は、農薬で防除することはない。となると選択肢は自ずと決まってくる。 ①蒔き時をずらす、②ハウスで育苗し大きくしてから定植する、③刈草で隠して物理的に見つ
自然農の米や野菜は、その生態系の循環の中でできている。 耕さないことで大地を破壊せず(もしくは最小限にとどめ)、肥料や農薬を使わないことで、空気や水を汚染しない。 虫や草の営みに沿って、うまく循環を促す。 「〇〇農法」といわれる仕方は、技術や知識が具体的なことばでもって確立されている。それは人間が、トライアンドエラーを繰り返し、獲得してきたものだと言っていいだろう。 大地を耕し、土の物理性を改善することで作物の根張りがよくなること。肥料を施し、作物が必要な、吸収しやすい栄
前回に引き続き、無農薬について、とりわけ今回は、僕が営む自然農と無農薬の関係について書いていこう。 自然農の最大の魅力は、目の前の自然への向き合い方にあると思う。 現在、一般的に知られている農法は数多あれど、自然農はそれらとは全く違う態度をとる。 人間が自然をコントロール下に置き、その成果物としての野菜を獲得する従来のやり方ではなく、自然の営みに沿い、応じ、従い、任せることが自然農の本質であり、醍醐味だと言える。 人間が自然を従わせる「〜農法」と、自然の営みに寄り添う「
「安心・安全な野菜」とはなんだろう。 無農薬であること?生産者の顔が見えること?はたまた環境に配慮されていること? 「安全な野菜」と聞いて広がるイメージは、生産者と消費者でかなり乖離しているのかもしれない。 消費者にとって、無農薬であることは、とても重要だと感じる。 それは、農薬がこれまでもたらした環境へのネガティヴな影響もあるのだろうが、何かよくわからない、でも、良いものではないだろうという漠然としたイメージが先行しているようにも感じている。 スーパーの棚に並んで
無駄とは豊かさだろう。 生活の中に在る「無駄」と呼ばれるもの。 それは、今やコストとみなされ、細かく分別され、省かれていく。 「時間は有限」の名の下に、いかに充実させられるかに主眼を置いた、社会の空気があるように思うのだ。 どの分野においてもその傾向は強まっている。 例えば、食を取り巻く環境において、それは顕著にみられるだろう。 効率化、合理化が農作物の生産性を向上させたことは事実だけれど、それによって農業と実生活、言い換えれば、自然と人間が切り離されていったこともまた
田んぼの土と畑の土。 それぞれの役割があり、それを理解しながら作物を育てることは簡単そうで難しい。 今使っている自然農の畑は、元々田んぼだった。 田んぼは、水を溜める性質上、「鋤床層(すきどこそう)」と呼ばれる固い粘土の層がある。作土層も水もちの良い粘土で作られている。 これが田んぼから畑に転換するときに厄介なところで、土の質自体を変えていかなければ作物は育ってくれない。 僕が自然農を認識したのは、農法やテクニックの部分からだった。 「耕さない、肥料農薬を使わない、草や虫
自然農の師匠、山岡さんの田んぼで田植えをした。 今日は島を飛び出して、砥部市の山のなかの田んぼへ。自然農の田植えは初めての体験で、感情に身を任せながら田植えがしたいと思い、あえて下調べをせずこの日を迎えた。 一般的な慣行栽培の田植えは、経験がある。 耕した田んぼに水を入れ、土と水を攪拌する作業、いわゆる代掻きをして、田んぼの均平を取り、後は機械で植えていく。 肥料や除草剤も撒きながらの効率的な田植えは、作業でしかなく、つまらなさを感じていたように思う。 さて。 では自然農
山に登るという表現は、時に比喩として、目標に向かって進むこと、コツコツと毎日続けること、のように使うのですが、自然農に出会い、師匠や研修仲間と話したり考えたりする中で、「山に登る」ではない、何か違うイメージが浮かぶようになりました。 それは、「山をくだる」というイメージ。 自分の足で前に進むというよりは、流れに身を任せるようなとても受動的な感覚です。 以前みんなで、「無目的」であることはどういう状態かということを話し合いました。 自分の中から生まれた一つのあやふやな答え
あっという間に4月。 一雨ふるごとに植物たちの生育は目まぐるしく、ついていくのがやっとで、やることは増えるばかり。 花は咲き乱れ、甘い匂いは虫たちを誘う。 それを狙って蜘蛛やカエル、トカゲたちも元気に動き回り始めたよう。 春が忙しいのはもちろんわかっていたこと。農民に休みはなく、自然は待ってくれない。 ついつい朝から晩まで作業をしてしまうけれど、忘れないようにしている教えがある。 師匠の教えてくれたこと それは無理をしないということである。 当たり前のようだがこれがな
あなたは「ゾーン」に入ったことがあるだろうか。 師匠の家で他の研修仲間と話していた。 これから畑は賑やかな季節を迎える。当然やることも増える。 草整理、育苗など春は忙しい。 そんな時こそ目の前の作業に集中することを大事にしようと師匠は教えてくれた。 目下の草をひとつずつ丁寧に刈っていく。時計は見ない、後どれくらいで終わるかを考えない。 ただ目の前の作業にひたすら取り組む。 するといつもより短い時間で作業が終わっていることがあるという。その瞬間はいつもより高い境地に立って
自然の中の循環を大切に、自然と寄り添う農家が増えつつあると感じる。 肥料や資材の高騰を背景に今までの農業から転換する人、初めて農の世界に足を踏み入れる人と多種多様だが、僕自身は自然農をお勧めしたいと思う。 僕の行う自然農に「耕さない」という原則がある。文字通り、できるだけ土中環境を壊さないように、不耕起もしくは浅く耕す(浅耕)程度にとどめること。 これは人それぞれだが、畑の環境を見て判断する。必要があれば最小限の範囲で耕す。そんな感じだ。 土の中の構造を潰したり混ぜ返した
このところ雨がちな瀬戸内地方。 たまの晴れ間に畑でぼーっとするのは最高の贅沢だ。 陽の光を浴びる。体をぐうっと伸ばして深呼吸。おそらく畑の虫たち、植物たちも同じだろう。 みんなで伸びをする。 アブラナ科の植物たちは花芽をつけ始める季節だ。次の世代を残すため、寒い時期に体を作って春に備える。寒さにあたって凍ってしまわないように、アントシアニンを出し赤紫色に染まるものもいて、たくましさに見惚れてしまう。 自然農を実践する先輩方からよく聞いていたのは、白菜の菜の花のはなし。 本
今回は少し大きな話に切り込んでみようと思う。 最近よく見聞きする自然農や自然栽培に対する冷ややかな声。 その多くは、慣行栽培(農薬、化学肥料を適切に使った栽培)に対する批判に反応した人たちの声だと感じる。 無農薬、無肥料栽培が不可能で綺麗事であるというような、その人の経験に基づく指摘は、まだわからないでもない。その方の長年の経験から導き出された答えを否定することはできないと思う。 農薬、化学肥料の安全性の議論は尽きないが、これもまだ研究が進んでいるとは思えないし、国家レ
このところ気温がぐんぐん上がり、春のような陽気。雨も降り、太陽も照り、畑の生き物たちもキラキラとしている。 毎日畑を見回るとあまり違いがわからないものだけれど、少し時間を空けて見に行くとその違いに驚く。 この間まで鉛筆ほどに細かった玉ねぎがぐーんと伸びて朝露でキラキラ光っている。 大根は花芽がのぞいている。 虫たちも活発に活動していて、てんとう虫やミツバチも見るようになった。 レタスはひとまわり大きくなっている。 ひとつひとつの生命が躍動している。ダンスを踊っている。