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「逆張り」と批評: 綿野恵太『「逆張り」の研究』について

書き始めてみたはいいものも、何をどれだけ書くか考えていないもので、このエッセイの着地点もどこかよくわかっていない。あっち行ったりこっち行ったりしていくだろうがどうかわかって欲しい。

『「逆張り」の研究』を読んだ。Twitterで話題の著作だった。面白いし読み易かったのだが、内容に芯がないというわけじゃない。シニシズムや相対主義といった決して楽に扱えるわけではないものまでトピックに触れておりなかなか示唆に富む内容だったのも確かである。
でも「逆張り」と結び付けやすいトピックであったためにそこまで目が覚めるような内容でもなかった。これはまぁ前半部分の話。

後半、特に残り3分の1くらいになってからはとても面白かった。そしていろいろ考えた。



「逆張り」態度の分析

逆張りと人に対して言うとき、そこにはからかいのニュアンスが含まれている。そんな逆張りという単語がどのようにして人口に膾炙するようになったかが眺められていく。

逆張りとは順なものがあるのに対する態度である。順と逆の対比にはさまざまな対立が串刺しにされている。この本で串刺しにされているものは「絶対主義と相対主義」、「リベラルとアンチ・リベラル」、「リベラルとシニシズム」等々。その果てには逆張りに対して逆張り嫌いがぶつけられ、混沌としていく対立関係が表現されていく。

逆張りとはいったいどのようなものであるかが現状の社会分析を交えて詳らかにされていくのは気持ちがいい。

ここで注目したいのは相対主義。
「それってあなたの感想ですよね」というのも言ってしまえば相対主義的態度だ。あなたの意見はあなたの意見、私の意思決定に役立てるかどうかは私が選ぶ。人を食ったような態度であるが、この言葉を飛ばせば議論がチリのように浮いていく。
相対主義は違いを打ち出し、違いに関する理解を放棄する。私はあなた(たち)と違うという主張も暗に仕込まれている。

差異化がうながされると、違うものたちを比べるためによりメタな視点が導入される。

この相対化はある意味で逆張りの効用のようなものだ。

この相対化の最たるものは批評だろう。この本もまた批評の話に移り、そして著者の親友はるしにゃんの思い出話になっていく。

逆張りと批評家しぐさ

はるしにゃんの前に小林秀雄について書いているので先にそっちから。

文章は読んだことなくとも小林秀雄の名前は知っているだろう。昭和期に活躍した文芸批評家で印象批評の大家として知られている。
その小林秀雄デビュー作「様々なる意匠」について著者は説明する。曰く、当時絶対的な権威だったマルクス主義を相対化しようとしている、と 。

「様々なる意匠」は順なマルクス主義に対する逆張りなのだ。

以降、小林秀雄の文章には逆張り言説がたくさん盛り込まれている。
よく「現代の学者はこれこれがわかっていない」みたいなことを書いている。まぁそれが面白いところなんだけどね。

小林秀雄の文章は読んでいてとても気持ちがいい。晦渋な文体と言われるが面白ければなんでもいいんだよ。ここまで文章がうまいと怪しい言説でも一瞬正しいように感じてしまう。

それでも逆張りは逆張り。

それぞれがどういう材料を使って判断をしているかしらんが、流行っている作品に対して、「いやこれおもんないだろ」と言ってしまえば逆張りに回収されてしまう。
初めから楽しむつもりがなく、難癖を付けるためだけに見て「おもんない」って言うのは芯が通った逆張りであろう。
そして流行りに逆らうだけのものは批評家ではない。批評家しぐさでしかない。(本文ではこのような説明はされておりません)

逆張りとメンヘラと批評

私がはるしにゃんの名前を知ったのは今年のことだと思う。悲しいことが起こったときに、彼のことを思い出す人が何人かいたことがきっかけだった。今年に知ったということは、彼のTwitterもブログも読んだことはない。同人誌も高騰しているらしく入手するあてもない。

メンヘラで批評家なはるしにゃんのことを知りたくて仕方がない。彼がどのような活動をしたか知りたい。私にとっては不在の批評メンヘラなのだ。

嬉しいことにこの本を読んでいたらさまざまなエピソードが流れてくる。彼がどのようにしてメンヘラを進行させていったか、どのように著者と交友関係を結んでいたかが書かれている。

そんなはるしにゃんのエピソードはとても短く、脇道に逸れたものであり、必要のない部分と判断されてもしかたがない余白のようだ。しかし、私にはここに書かれたエピソードが鮮烈に頭に染み付いて離れない。

私にとってメンヘラとは、順な社会から溢れ落ちたすえの、否定されてもしかたのない性質を、そのまま自分を変えて自分を肯定していくためのメンタリティなのだ。

他人や作品を否定するのを躊躇しない「批評しぐさ」がはるしにゃんを炎上に追いやったと著者は記している。むべなるかな。
が、私はこう考える。その判断に理由さえあれば否定でも肯定でもしてしまう「批評しぐさ」は疎まれるものだろうが、自分以外に価値判断を下すことで逆説的に自身の価値を作っていく、セルフケアでもあるのだろう、と。

独断が走ってしまった。テクストに書いていないことについてつい考えて書いてしまう、しかしこの自我への愛があるから残してしまう。

批評と批評精神

自我まみれなことついでに批評と批評精神の差について書き記そうと思う。

批評とは何か、たとえばノエル・キャロル『批評について』を開けば客観的な価値判断に携わるものだと教えてくれるだろう。多くこのような理解をされている。
bing AIにでも聞いてみればいい。対象が何であれ(通常は芸術作品や社会現象だろうが)、それについて客観的な理由を用いて価値判断をすることだみたいなことを教えてくれるだろう。

感想ではなく批評となるのだから、それは客観的な理由というのに力点が置かれていて当然のことだろう。

だがなぜ客観的な理由を求めてしまうのだ?

批評を生み出す批評精神は、そもそも良い悪いという直観的な判断に満足できないところから出発する。
いったい現われているもののどこで私は良い悪いと判断したのだ?
私の感覚だけに満足できずについに現象だけでなくさまざまな道具立てを用いて解体を開始する。しかしどこにも良い悪いを教えてくれるものはない。結局自身の主義主張を足場にしてかくかくにてしかじかと判断うんぬん。それで満足できるのか? 主義主張すら疑い始めてみるがどうにもならない。思考はなんども積み重ねられていく。(これは小林秀雄「文化について」の影響を色濃く反映している。借り物、二番煎じ)

批評精神によって、直観から出発した思索は育てられていく。

盲信的な受容に陥らないための批評と批評精神の話。何が出発点なのかを忘れていはいけないのだろう。

逆張りとうまく付き合う

著者はTwiiterにおける「逆張り」と「逆張りぎらい」の対決は「いま」しかないと述べている。議論の蓄積がされていかないために同じ話題が繰り返し盛り上がる。その不毛さから逃れるには「いま」を相対化するのがいいだろう。

本書はいわば「逆張り」の擁護として読める。しかし完全に守っているわけじゃない。煮え切らない。このもどかしさがむしろ大切で、「逆張り」は叩いても消えんもんだし、少数派故の効用もあるんだよって話である。

「逆張り」に対する距離感がなんだか微妙なのが気持ち悪いところだが、その姿勢には多くの要素が串刺しにされているのが面白い。そのなかでも逆張りは相対主義を誘発する話は興味深い。相対主義は一方で絶対主義とのギャップをより強め分断を広くしていく。

相対主義も絶対主義もどっちもどっちだろう。そのたびごとの価値判断としての批評と、合理的判断のための批評精神を訴える方向で私はまとめたい。

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