「持続可能な地球環境」のために、「持続不能な人の集まり」を構想する。(前編)
STATEMENT:
世界は同調圧力で覆われている。
人は皆、お互いに異質な存在であり、
全ての人が分かり合うことはできない。
その一方で、人は集まり交わることで存在している。
人の集まりはうごめきとなり、時の経過と共にうごめきは形骸化していき、同調圧力のもと、人は大衆化していく。
これはどうすることもできない、人間の本質。
だから、うごめきを手放すのだ。
人はうごめきの中にカテゴライズされているのではなく、人の中にうごめきがタグ付けされている。
どんなに素晴らしい(と感じる)うごめきにおいても、人はお互いに異質な存在であることを忘れてはいけない。
美しいうごめきは、手放した瞬間に作品となり、世界に影響を与える。
影響は感覚を拡張させ、情動を生み出す。
情動は思考を生み出し、行動を生む。
行動は新たなうごめきを構築し、そしてまた手放す。
その一連の流れにのみ、持続性が宿る。
今まで、自分や世界や文化を“多色のうごめき”と捉えて、うごめきの美しさについて探究していたのだが、美しさの到達には地球環境について考える必要があると感じ、いろいろ構想してみた。
とはいえ、僕自身、地球環境や社会制度に関してそこまで知識があるわけではない。
なので、見立てが間違っている部分もあるかもしれない。
が、考えることに意味があるので、僕なりの構想を描いていく。
現在の問題意識
現在、SDGsやグリーンニューディール、ESG投資など、様々な仕組みや取り組みによって、持続可能な地球環境実現へ向けた経済活動(緑の経済成長)は、広がりを見せている。
しかし、それだけで本当に、持続可能な地球環境は実現するのか?
というのも、先日『人新生の資本論』という本を読んだのだが、
その本では、既存技術からグリーン技術への転換と同時に、「脱成長」も必要なのではないか、と書いてある。
経済成長が順調であればあるほど、経済活動の規模が大きくなる。それに伴って資源消費量が増大するため、二酸化炭素排出量の削減が困難になっていくというジレンマだ。
つまり、緑の経済成長がうまくいく分だけ、二酸化炭素排出量も増えてしまう。そのせいで、さらに劇的な効率化をはからなければならない。これが「経済成長の罠」である。
<人新生の「資本論」(集英社新書)より引用>
「ガソリン車から電気自動車に置き換えても、自動車の生産量自体が増えまくったらあんまり意味ないよね。そもそもの生産量自体を増やさない仕組みが必要じゃない?」といったことなのだろう。
この論理をより詳しく知りたい方は、ぜひ本を読んでもらいたい。
ひとまず僕は、この『脱成長』という概念をもとに、何ができるのかを考えてみた。
ドーナツ経済
人新生の資本論でも紹介されていたのだが、『ドーナツ経済』という概念がある。
下の概念図を見てもらうと分かりやすいが、
円の内縁は、人が安心して生きていくために必要な『社会的な土台』で、
円の外縁は、地球環境の中で安心して生きていくために必要な『環境的な上限』である。
この両方の縁の中で収まっている状態、つまりドーナツの中に収まっている状態であれば、環境的にも社会的にも持続可能な状態というわけだ。
また、人が文化的な悦びを自由に得るためには、社会的土台があってはじめて実現する。
なので、このドーナツ経済の実現は、人の文化的な悦びにもつながっている。
経済成長は必要なのか?
では、いかにしてドーナツの中に収まって生きていくのか?
それは、経済成長に頼らずとも社会的な土台を全世界の人が得られることではないのか?
「人新生の資本論」では、こういう情報も記載されている。
例えば、食料についていえば、今の総供給カロリーを1%増やすだけで、8億5,000万人の飢餓を救うことができる。現在、電力が利用できないでいる人口は13億人いるといわれているが、彼らに電力を供給しても、二酸化炭素排出量は1%増加するだけだ。そして、1日1.25ドル以下で暮らす14億人の貧困を終わらせるには、世界の所得のわずか0.2%を再分配すれば、足りるというのである。
また、ラワースは指摘していないが、民主主義は環境負荷を増やすことなく実現できる。
経済的平等も、軍事費や石油産業への補助金を削減したうえで再分配をするなら、追加の環境負荷は生じない。いや、環境はむしろ改善するだろう。
<人新生の「資本論」(集英社新書)より引用>
もちろん、社会的土台が整っていない途上国では、ある程度の経済成長は必要である。
しかし、全世界レベルでの経済成長は、そこまで必要でないのかもしれない。
環境経済
ということで、経済成長に頼らずとも、ドーナツ経済に収まる仕組みを考えてみた。
それは『環境経済』というものだ。(名前は微妙かもしれない)
環境経済をざっくり説明すると、
『ドーナツ経済の外縁に収まる環境資源を通貨に置き換え、全世界の人で割り勘する。』というものである。
信用によって生み出されている通貨を、環境資源によって生み出される通貨に変えていくのだ。
この通貨を仮に環境コインと呼ぶことにする。
例えば、二酸化炭素の排出量を環境コインにしてみる。
二酸化炭素の排出量をこれ以上増やさないための上限を段階的に設定し、その排出量を環境コインに変換して、全世界の人で割り勘するのだ。
その環境コインは、二酸化炭素を排出する際に支払う。なので、二酸化炭素の排出を抑えれば環境コインの支払いも減らせる。
そのように、僕らは有限性のある資産の中でやりくりするのだ。
環境コインは社会的土台を得るために消費されていく。
そして、二酸化炭素の排出量を極力減らし、排出しなくても生活できる技術や生活スタイルを生み出すことで、環境コインを余らせることもできるようになるかもしれない。
余った環境コインは、自らの文化的で自由な行動に使用することができる。(もちろん、その自由な行動でも二酸化炭素を排出したら、環境コインは減る。)
そのような感じで、他の環境資源も、ドーナツの外縁からはみ出さないラインを全世界の有限な資産として環境コイン化し、全世界の人間で割り勘するのだ。
全世界の人が有限性のある資源を自己の資産として認識し、社会的土台を得るための仕事を行う。(そうすることで、自分が存在していると感じる世界が、国からより広い領域へと拡張されるかもしれない。)
そして、必要以上に仕事をするのではなく、余った環境コインや時間は、自己の文化的で自由な悦びに使用するのだ。
「環境資源の上限は決まっている。それなら、使える分をみんなで割り勘して、各々でやりくりすれば良くない?で、余った分で楽しく生きればいいじゃん。」
という、安直な発想ではあるが、もしこれが可能であればドーナツ経済に収まりつつ、楽しく生きられるかもしれない。
環境経済とは、地球上の環境資源を地球上の全人類でシェアする、超大規模なシェアリングエコノミーなのだ。
***
当然だが、この仕組みが本当にうまくいくのかは分からない。
そもそも仕組みを作る上で、検討しなくてはいけない部分は相当ある。
・先進国と途上国によって環境コインの消費を抑えられる設備や技術の差はあるがどうするのか?
・環境コインの配分を発展レベルに合わせて変更する必要があるのではないのか?
・道路インフラ整備などの事業を、誰もやりたがらなくなってしまうのではないか?
・環境コインを貸し借りした場合はどうなる?利子は?
・国際関係のバランスが崩壊するリスクは?
・というか、環境コインの発行権はどうするのか?
・ブロックチェーンを活用…?
…パッと思いつくだけでもかなりの量がある。
ただ、なんかそれを議論しながら考えるのも面白そうだな。
まずは資料を集めよう。
理論上でもいいから、この仕組みを構築してみたい。
実験してみたい
環境経済のシステムを構築するのと同時に、実際に環境資源を割り勘して生活したらどうなるのかの実験もしてみたいと思う。
その実験自体に美しさが宿れば、後々僕以外の人にも波及するかもしれないし。
なので、『ひとり環境経済』をやってみようかと思う。
全世界で使用できる環境資源を割り出し、全世界の人口で割って、ひとり分の使用可能量をはじき出す。
そのひとり分の使用可能量でやりくりしながら、1ヶ月過ごしてみるのだ。
とはいえ、そもそも割り出すための計算方法が全然思いついていないし、自分の行動で環境資源がどの程度消費していくかの計測方法もよく分からない。
いきなり全要素を計算するのは無理だと思うので、まずは計測しやすい項目からやった方がいいのかな。
うーむ……
まずはそこの調査からだな。
…と、フワフワした文章で申し訳ないが、環境経済の世界観は伝わっただろうか?
後編では、環境経済をどのように社会実装するか?を描いていきたいと思う。
後編はコチラ▼
https://note.com/kimura_sharelife/n/nd9f0ae10ea0d
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