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「持続可能な地球環境」のために、「持続不能な人の集まり」を構想する。(後編)


前編では、持続可能な地球環境のために、「環境経済」という仕組みを描いてみた。
https://note.com/kimura_sharelife/n/ne42b91aac0ed




後編では、環境経済をどんなシステムで社会に実装していくかを描いていこうと思う。


仮に環境経済が実現可能になった場合の未来を想像してみる。


環境経済が実装されたら、世の中はどうなるのだろうか?

そもそも、ひとりで環境コインをやりくりするのはかなり難しいんじゃないか。
なので大抵の場合は、複数人で集まって共同で環境コインをやりくりしていくようになるのではないか。
共同での環境コインの管理は、現在と同じように国が行うかもしれないし、地域レベルで行われるかもしれない。


しかし、何かそれはとても閉塞感のある生きづらさが生まれそうな気がする。


なので、『人新生の資本論』で書いてあった『コモン』という概念を参考にしつつ考えてみたいと思う。


自治的な共有管理「コモン」

コモンというのは、社会的土台を支えるために必要な生産活動などを、国などが管理するのではなく、人々が集まって自治的に共有管理する概念だ。

そう言われると、何となくみんなで自給自足をする生活をイメージしてしまいそうだが、環境経済においては環境コインを共有管理して生活資源を調達するので、必ずしも自給自足にはならないと思う。
(自給自足の方が環境コインの消費は抑えられそうなイメージはあるが…どうなのかな?)

人々が集まって環境コインを出し合って協同組合(コープ)のようなものを生み出して、自治的に管理する。(なんか難しそうだけど)

みんなで管理してみんなで使用する。余分に稼ぐ必要もないので、余った環境コインと時間は文化的で自由な悦びに使用できる。


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ただ、何かそれでも閉塞感というか、行き詰まりそうな感は残る。


というのも、共有管理するコミュニティの中での人間関係に悩まされそうな気がする。
ずっと一緒に共有管理していく中で、だんだん同調圧力が高まっていきそう。


終わりのデザイン


これは僕の持論だが、
どんなに素晴らしい仕組みがあっても、それをずっと持続させていこうとすることで、時間の経過とともに仕組みは形骸化していき、同調圧力が強まり、人々は大衆化し、本来人はお互いに異質であるという前提を見失い、抑圧と反発の争いが生まれてしまう。

僕が最も「美しくない」と感じる状態だ。


なので、持続させなければいいんじゃないかと思う。

つまり『終わりのデザイン』を描くのだ。


例えば、コモンを1ヶ月運用したらそこで終わらせ、解散する。
一旦共有管理を全員が手放して、終わりにするのだ。


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そして、翌月には、また共有管理したい人たち同士でコモンを再構築する。

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そうすることで、形骸化する暇もなくうごめき続けることになる。(たぶん)

もちろん、元々のコモンが居心地良かったと感じれば、そう思う人同士で同じように再構築すればいいし、そうではない人や、別のコモンを構築したいと思った人は別に構築すればいい。

何かめんどくさそうだが、構築の流れを効率化していくことで回していけないかな。

また、解散時期の1ヶ月を待たなくても、環境コインのやり取りによって別のコモンに移動できる仕組みも欲しい。
そうすることで、世界中のコモンを自由に行き来できるので、より閉塞感はなくなる。
そのためには、コモンから出入りしても非難されないような価値観も必要であろう。(どういう価値観…?)



カテゴライズではなく、タグ付け

さらには、全ての資源をひとつのコモンで共有管理するのではなく、自分が共有したい部分だけでコモンを構築できるようにしたい。

例えば、住居はコモンで共有管理するが、食の部分は別のコモンで管理するか、個人で管理する。みたいな。

そうすることで、自分は〇〇のコモンに所属している、という感覚を持つのではなく、自分の中に複数のコモンをタグ付けしていく感覚で生きていけるのではないだろうか。

カテゴライズではなく、タグ付けである。

そこまでやってはじめて、形骸化と大衆化、閉塞感から脱却できるような気がする。

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構想終わり

ひとまず、今のところの構想は以上である。

環境経済によって、持続的な地球環境と社会的土台のある状態を実現し、文化的な自由をひとりひとりが持てるようになる。

そして終わりのデザインによって、閉塞感や同調圧力に苦しむことなく、お互いに協力しながら生きていくことができる。

めちゃくちゃ夢物語かもしれないが、実現できたらどれだけ最高だろうか。

現代において、安心できる生活を送りつつ文化的な自由を享受できるのは、経済成長の中で勝利した(負けなかった)人だけのもの、という感覚がある。
この環境経済の概念が実現すれば、多くの人にとって自分からは遠い存在として感じている、安心かつ自由な生活が、とても近い存在になる気がする。


***

環境経済のコモンを構築し、自ら手放す。

そのコモンは手放すことで作品となり、世界の誰かに影響を与える。

影響を受けた人が、さらにコモンをブラッシュアップして再構築する。

そしてまた、手放す。

という流れを汲んで行けば、結果的に持続可能な世界が実現するかもしれない。

持続不能な人の集まりの連鎖によって、持続可能な世界を実現するのだ。


ということで、環境経済の構想は以上である。

また続きは、都度更新していきたいと思う。



環境経済STATEMENT:
世界は同調圧力で覆われている。

人は皆、お互いに異質な存在であり、
全ての人が分かり合うことはできない。

その一方で、人は集まり交わることで存在している。
人の集まりはうごめきとなり、時の経過と共にうごめきは形骸化していき、同調圧力のもと、人は大衆化していく。

これはどうすることもできない、人間の本質。
だから、うごめきを手放すのだ。

人はうごめきの中にカテゴライズされているのではなく、人の中にうごめきがタグ付けされている。
どんなに素晴らしい(と感じる)うごめきにおいても、人はお互いに異質な存在であることを忘れてはいけない。

美しいうごめきは、手放した瞬間に作品となり、世界に影響を与える。
影響は感覚を拡張させ、情動を生み出す。
情動は思考を生み出し、行動を生む。
行動は新たなうごめきを構築し、そしてまた手放す。
その一連の流れにのみ、持続性が宿る。









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