子どもの学校行事が苦手だ

地域の産物を学ぶ授業が一年を通して行われる。
その一環として、産物を使ったレシピ考案し調理する授業があった。
私を含め4人の保護者が手伝いとして参加した。
担任の先生と合わせ5人で生徒達を支える。

可愛らしい字で書かれたレシピには、必要な分量も細かく記されていて、時間をかけて練り上げたレシピなんだと伝わってくる。
包丁の扱いや、分量の計り方、片付けひとつ取っても、中学年の子どもには板につかない動作だ。
包丁を扱うときは怪我をしないように、分量を量るときはきちんと摺り切りになるように教えながら一緒に調理過程を楽しんだ。

さて、雑談どうするか問題だ。
保護者は全員顔見知りで、以前から交流のある人達。
幼稚園からの付き合いの母親もいれば、小学校に入ってから知り合った母親もいる。
特に小学生になってからは保護者同士の付き合いも希薄になり、元々知ってるけど近況を知らない、最近会ってない由来の人見知りを発揮する。
セカンド人見知り。

「お久しぶりですね。お元気でしたか。」
「レシピすごく本格的ですごいですよね。」
「おうちでも〇ちゃん、お料理されますか?」
「すごい!料理好きなんですね。」
当たり障りなく、相手も話しやすいような話題を振っていく過程だ。
しかし、どれも正解は無く、あくまでも私にとって当たり障りがないだけに過ぎない。
受け取った相手にとってどのような意味を成すかは分からない。
それゆえ不安症状が出始めるのだ。
相手の表情、声のトーン、テンションの高低、目線、他の事に気を取られていないか、私が振った話題に乗り気かそうでないか、相手が楽しんでいるか面白くなさそうか、、目に映る全てがメッセージ...
相手のノンバーバルを取りこぼすことなく拾うことに全感覚が集中する。
こういう状況の会話が一番苦手であり、こういう状況が一番精神に堪える。
私の社交不安症は学校行事で強化されてきた。

なかでも、相手が楽しそうか、面白くなさそうか、これにいちいち感情を揺さぶられる。
HSS型HSP:刺激を求めるが刺激に敏感で疲れたり傷付きやすい
自認する性格はこれに該当する。
自分の中に相反する欲求があり自ら翻弄されにいく性質がある。
矛盾もいいところで、この年になっても自分の扱い方がままならないまま年を重ねてきてしまった。

また、この先当分続いていくであろう関係でありながら、互いのことをあまり深く知らない間柄が私の最も苦手としている関係性だ。
変な人だと思われてはいけない、普通であらなければいけない。
そんな考えを前提に言葉を紡ぎだすものだから、当然素の私は抑圧され、抑圧された緊張は相手に投影され、なんともぎこちない会話になってしまう。

私が感じる不安を知って欲しいし、あなたのことも教えてください。
ここは見えてる部分をデコレーションするだけでいい、ライトな関係を求められているのに、ちょうどよく適応できないのだ。

こんな考えを反芻している間に、他の人達は平凡に幸せに関係性を築いていく。それがまたコンプレックスを強化して孤立感を深める。

学校からの帰り道、歩きながらそんなことを考えていた。
どういう態度をとればよかったか。
どういう態度を先生は求めていたのか。
どういう前提で保護者と関わればよかったのか。
どうしてそれができなかったのか。
どうすればよかったのか。

悩みすぎて過ぎて鬱々。

つまり私はお母さん役が苦手なのだ。
思い描く母親像はおおらかで牧歌的な母。
素朴で化粧っ気のない素顔の母。
肉感のある身体で脂肪と共に、あらゆる不平不満、理不尽、不条理を包み込む慈愛溢れる母。
そんな圧倒的陰性をイメージするが、それが出来ない、収まらない我の強さがある。

感受性や、感覚や、ただの勘や、想像力、弱さや、負けることが女性性なら、時代にもそぐわない。

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