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【某スポーツ国際大会を横目に】言語多様性の表現の仕方について考えたい

やや遅れ気味のテーマになりますが、言語学つながりのdlitさんが某スポーツ国際大会(検索で引っかかるのもシャクなので、あえてこういう書き方にします)に及んで、コンセプトとされている考え方の「言語」に関連する問題を指摘しておられます。

世界は多言語で構成されている、というのはとっくに共有されていると思っていたのですが、そうではなかったのでしょうかねえ…

私自身も、組織委氏の「英語しか見ていない」(英語それ自体はもちろん否定しませんが)様子、それについての批判が公にはあまり大きな声では起こっていなさそうに見えることに驚いてしまった手合いです。

私自身が普段トルコ語、あるいはテュルク諸語に関心がある立場だからということもあるかもしれませんが、世界にはいろんな言語があるということは、いい加減当然のものと認識しておく段階にはいるべきだったでしょうね…(まして、政治マターになるほどの世界大会のホストでっせ旦那)。

さらにdlitさんの記事を受けて、rikayam111さんのこちらの記事にも考えさせられました。

以下、ブログ本文からの引用ですが、ここですね。

"まず問題になるのは、どの多言語が選ばれるか、である。"

そうなのですよね。全てを拾うことが現実問題としてできない。選んだ言語が一旦登場すれば、なぜその言語なのかという説明は別途しなければならないわけですね。

rikayam111さんは、そんななかで多言語化に対する代替案として、あえて共通語化しないことを提唱しておられる。世界に向けて、あえて共通語化しないのだから理論上は日本語でも沖縄の諸言語のうちのどれかでも、あるいはアイヌ語でも(さらには他の言語でも。もっとも、いずれにしてもその言語をチョイスしたことの説明の必要は出てくるのでしょうけど)よい、と。大事なこととして、自分の知っている言語を通してでは見えない概念や価値観に気づかせられるかどうか、つまり

"一度立ち止まって「どういう意味なんだろう」と考えさせるような表現や言語であるべきだと思う。そのことで、その言語文化に関する知識や関心や敬意が深まるのではないだろうか。"

ここが押さえられているかどうか、ということであると。

なるほど。考えさせられます。結局、その国際大会にスローガンのようなものが必要なのだとしたら、そのスローガンを打ち出す側として綿密な思考と計算と表現方法が求められるということは間違いなさそうです。

(その点において、例のインタビューを通して、今回のそれがいかに残念なものであったかということは改めて感じさせられます。文章には書きませんが、私個人としては担当者に対して相当の悪罵が口をついて出たことは正直に書いておきます。じゃないと、気が済まんよ)

私自身も日本語以外の言語を普段扱う身(少なくとも、そのような自覚はあります)ではあります。が、世界の言語のうち、ほんの限られた部分しか見えていないなりに、自分なりに言語に対して伝えたい部分も普段持っている身なわけです。

あれこれ書きましたが、この多様性の表現にどう向き合っていくか。私自身の答えは、簡単には出なさそうだと思います。むしろ、生涯を通じて向き合っていくべきテーマなのだろうとすら思っています。

ここやツイッターで書き綴っている「テュル活」についてのあれこれが、結果的にその一助になっていればいいですがね…(でも、それ自体を目的にはしたくないのだよな。つまんなくなるから。難しいところなのですよね)

なんにしても、英語と「国際化」とやらをイコールで結んで終わり、とするのだけは、いい加減やめましょうな

そのプロセスで捨象しているものがあまりにも多すぎるし、もったいなさすぎるし。まして「ダイバーシティ」がすぐに口をついて出ないとするインタビュアーをバカにするなんていうのは、「ダサい」の極みでなければなんなんでしょうか、と言いたい。

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吉村 大樹
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