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言語学の語り手の話題と、語学書は誰が書くべきか問題について

言語(学)を語る難しさ

ここ数日、言語学界隈で話題になっていた「ゆる言語学ラジオ」について。私の知り合いの一人、dlitさんも巻き込まれていたので一応話題だけは追っていました。

dlitさんといえば、先日こういう記事を書いたこともありました。彼のブログもぜひぜひ。

そんな中、「ご」さん(この方にも東京で何度かお会いする機会がありましたねそういえば。懐かしい。ツイッターの歴史は長い…)が良記事を書いていらっしゃるので、勝手ながらご紹介したいと思います。

専門家の方々は、そうでない方々とどのように向き合うか。一言で言い切れない問題なのだろうなと思います。「ことばは社会のもの」、と誰かが言っていたように記憶していますが、それを踏まえれば、ことば(つまり、言語)については誰にだって語る資格があるはず。なのです。本来は。しらんけど。たぶん。

ではなぜ、もめることになってしまうのか。

結局、学術的なことについて語るときの、正確性の問題かなと。またはそれに付随して、発した内容が仮に正確でなかった場合、その責任を負えるかどうかの問題というのが一番大きいのかなと思います。

メディアを通じて間違ったことが広まってしまうことのリスクを負うという側面はどうしても出てきてしまいますよね。ユーチューバーならなおさら、人気のチャンネルならもっとなおさら。

もちろん専門家のほうだって人間、誰しも間違うことはあるのですが、やはり学術的なトレーニングを受けているかどうかの差が出やすいところではあるのかなと思います。

さて上記の言語学チャンネルですが、一連の流れをみている限り、コンテンツの提供者である「ゆる言語学ラジオ」の方々の対応は相当しっかりしているなという印象を私も持っています。いいんじゃないですか。恐れず、どんどんコンテンツを提供して行ってほしい。

個人的には、誰かがツイッターで書いていましたが、日本語、それも共通語以外の言語にも今後触れてくださるならなおよい。テュルク諸語の話もぜひいつかしてみてほしいな。なんなら我々「テュルク友の会」のメンバーで、いくらでも情報提供しますよね。

さて、語学書は誰が書くか

さて私が今日書いてみたいのは、その個別言語のほうの話。語学書を書くのは誰であるべきか、という問題です。ちょっと先程の話題と関連するかなと思って書いてみます。

これ、自分が書くということに躊躇する人もいる(というか、最近観測している)のですが、私は基本的には何について誰が書いたっていいという考えを持っています。しごく当たり前のことです。

語学書に限らず、ブログでもSNSでも。いろんな人のいろんな立場からのアウトプットがあってこそ、その分野が盛り上がるという側面はきっとありますからね…ほらたとえば、めいさんのドイツ語愛を見てみましょう。

ただ、書籍あるいは印刷物として世に出る以上、その内容についての責任は色々な形で負うことになるから、その覚悟だけはしておいたほうがいいだろうね、とは思います。

なんせ語学書は、お金を出して使ってもらうことになるわけで、言語がいわゆる「マイナー」なものになればなるほど、買い手側の期待値って上がると思うのです

自分の話で恐縮ですが、トルコ語のエッセイのような本を昔出した時にも(それが書籍としてのデビュー作でもありましたが)ポジティブなものからネガティブなものまで、いろいろとリアクションはもらったものでした。

まず大前提として、世に出す覚悟が(本当に)あるかどうか。これがあるっていうことが、語学書を執筆する資格(というものがもしあるとしたらの話ですが)としての第一条件じゃないかな、と思います。

あるトルコ語の語学書の前書きのところで、「私は専門家ではないので内容についての不備はご承知おきください」という趣旨の文を見たことがあります。これは、課金した(つまり、購入した)人に対して誠実と言えるでしょうか。仮に著者本人が専門家でないという自覚があったとしても、絶対に書いてはいけない一文でした。前述の書き手の覚悟とは、そういう趣旨です。

他には、やはり当該言語の知識が十分であることでしょうか。ただ、どこまでやれば十分かと言う問題はあります。書きながら知識が増えていく部分もありますし。

あとは、やはり語学書のレイアウトの構成をどうするかとなったときに、多少の方法論というかノウハウを身につけておいた方がいいのかなとは個人的に思います。

言語学をがっつりやるべし、という意味ではありません。しかし、ライトな言語学の知識があればベスト(というか、書きやすい)かも、という趣旨です。

ライトというのも難しいところですが、やはり最初の「文字と発音」あたりは丁寧に説明されていると読者も安心するような気がします。あとは、語形や語順などをいかにエレガントに説明できるか、とか。このあたり、言語学の形態論や統語論の知識があるかないかでがらっと変わってくるのではないかと。

他には、どういう練習問題がついていれば学習者に貢献するかとか、音声資料はどうするかとかそういう応用的なところもありますね。語学書としてはそのあたりも軽視できません。(自戒を込めて書きました)

そして最も重要なのは、書き手としてモチベーションが高いかどうかじゃないでしょうか。

何がなんでもX語の本を世に出すんだという強い動機を維持できるかという問題なのだろうと思います。その動機を、うまく結果に結びつけることができるかどうかにかかっているということです。

内容的に自信がないのであれば、信頼できる人にみてもらうという方法だってあるわけですからね。ということで…

他の言語での事情はまったくわかりません。私はせいぜい、テュルク諸語界隈のことくらいしかわからないのですが、自分なんかが書いていいんだろうかと悩んでいるそこのあなた。あなたです。Sana diyorum.

よかけん、書かんね。とりあえず書いたら、いくらでも一読者の立場としてコメント出してやるけん…

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というわけで語学書。
買う側から見ると、上記のような話がある以上、目利きみたいなことが必要にはなってくるのかなと。

言語学の一般向けコンテンツの方もきっとそうですが、コンテンツを享受する側も目利きの素養を鍛えていく必要があるのかなと思います。これは、誰でも発信ができるようになった時代の必然とも言えるのかもしれません。

どういう本なら買いか、どういう本を避けるべきか。その辺のノウハウについては、機会があればおいおい…そのうち…たぶん…

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吉村 大樹
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