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2013年トルコ訪問の記(南東部旅行の続き):ビュユクチェクメジェ、ビュユクアダ

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2013年8月の南東部ツアーは、食あたりというトラブルにあいつつも、なんとか無事終わりました。8月18日、空路でアダナからイスタンブルへ。

旅程が残り10日ほどありましたので、あとはイスタンブル市内、または近郊の写真をできるだけ撮る予定でした。特にイスタンブル近郊では、イスタンブルの西方にあるビュユクチェクメジェ地区と、長年の知り合いのご家族がお住まいのビュユクアダへ。

まずは8月20日、ビュユクチェクメジェ地区に。お目当ての橋があったので、それを見に行きました。手持ちのガイドブックには掲載がなかったところなので、行き方は手探りで。

ちなみに、「ビュユク」とカナ書きしましたが、トルコ語ではbüyükという語で、「大きい」という意味を表します。

カーヌーニー・スルタン・スレイマン橋という、16世期にミマール・シナンという、オスマン史に残る有名な建築家によって手掛けられた橋があるということで、それを一目見てみたいと思っていたのです。

ちなみに、この橋の情報を知ったのはたしか当時の『芸術新潮』の雑誌で、トルコの特集があったときにその橋の写真を見てしりました。とんでもなくかっこよかったというか、美しい橋だったので、ぜひ見てみたいといいながら。

イスタンブル市内から、ビュユクチェクメジェというところに向かうにはいくつかルートがあるみたいなのですが、とりあえず当時のアタテュルク空港近くの駅、イェニボスナ駅からバスが出ているというので、市内バスを利用して行ったのを覚えています。

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ちゃんと目的地で降りられるか不安ではあったのですが、この当時からすでにバスではこうやって電光掲示板がついていて、(故障していることも多いのですが)次のバス停がどこか、というのを表示してくれていました。

実際、目的地に着くときもバスの車掌さんのアナウンスがあったので、無事に目的地に到着。初めていく場所は、いつも迷わないかが異常に気になってしまいます。

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イスタンブル中心部とはうって変わって、静かな地区という印象です。観光地化されているという雰囲気ではなかったかなと。今はどうだかわかりません。橋目当ての観光客と言うのもそんなに多くはなかったかもしれませんが。

道ゆく人に聞きながら、橋のある公園に向かいます。

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雰囲気のあるモスクも。これも16世紀に建築されたのだそうで、ソクルル・メフメト・パシャ・モスクというのだそうです。

さてさて、橋は…

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記事の扉絵にも使いましたが、この橋です。

カッコいい。これが16世紀の建築のデザインとは!

渡れそうなので、渡りに行きました。橋ですからね。橋は渡らなければ。

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橋の説明も親切に書いてありました。

渡ると、視界はこんな感じ。広いです。

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結構長い距離。建築のことは(いつも言うように)詳しくないのですが、これほどの長さの石橋を造る技術が、16世紀にはすでにあったのかという感慨です。それに、そんな箸を建築できた当時の帝国の栄華というか。

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何か書いてあります。残念ながら読めないのですが。おそらく、橋の説明なり、スルタンを讃える言葉なり、神への感謝なり、そういうことが書いてある…のかな…(ぜひ専門家に解読してもらいたいと思いながら、月日がだいぶ経ってはいます)

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橋の建築を手掛けた、ミマール・シナンの銅像もありました。この人はオスマン史上とても重要な人物だ、ということは私でも知っているくらい。この人の最高傑作のモスク、と聞けばやはり見に行きましたし、この偉大な建築家の橋と聞いたら、やはり見てみたくなるでしょ。

というわけで、ただ橋を見に行ったといえばそれまでなのですが、例によって地元の人たちとも話をしたりしながら、満喫して帰ってきました。写真撮ったぞ、どこかで使えるだろーきっと、などと言いながら。

満喫したので、橋の近くの食堂で食べたごはんもおいしかったですよね…

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南東部ツアーでは酷い目にあいましたが、イスタンブルに戻ってから、徐々におなかの調子も良くなっていったかなと思います。

続く8月24日、ビュユクアダへ。マルマラ海に浮かぶ、いくつかの島があって、その中の最も大きな島がこのビュユクアダです。グーグルの地図では、「プリンスィズ諸島」となっていますね。

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フェリーで向かう、途中の景色が最の高なのです。

フェリーは、イスタンブルのエミノニュ(たしかエミノニュだったはず)の発着場から、およそ1時間半くらい。その後、アジア側のフェリー乗り場ならもう少し短い便もあると教わったのですが、このときは長い船便のほうを選んだのでした。

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その後いろいろ問題があったらしく、今ではもう見ることのできない、「ファイトン」という馬車。

当時島の中を車などで移動することは原則禁止されていて、早い移動手段の一つとしてこの馬車に乗るということになっていました。

長年の友人(大学のときからの知り合いなので、かれこれ25年くらいにはなるでしょうか)、そのご家族ともに付き合いが長くて、留学の時もイスタンブルに1週間ほど滞在した時には家に泊めてもらったりなど、お世話になりっぱなしです。この時もご招待をさずかり、「おまえトルコ語もうちょっとがんばらないといけないよ」とみなさんから激励を賜ったことでした。ご家族からの激励は、お決まりのことになっていまして、ありがたいことです…

イスタンブル編はおまけみたいなものですが、ここまで読んでいただきありがとうございます!ということで、マガジンのコンテンツ記事ということになりますので、投げ銭制をこのシリーズは続けようと思います。ビュユクアダのエクストラの写真と文をご覧になりたい方はぜひ。また、マガジン購読くださった方はそのまま続きをお読みいただけます。

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