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離れてみてわかる自分のトルコ養分不足

日曜日ということで、今日はトルコの写真を多めに出してみましょう。
愛にあらずして執着、と書いたのは先日のことでしたが、それにもかかわらず…の内容になるかと存じます。

昨日、アンカラに勤めていたころ知り合った学生氏がとあることで相談があるということで、ならばZoomで話してみようではないかということで久しぶりにオンラインながら面会することとなりました。

トルコ語だけで話をするのも久しぶりでしたが、懐かしいなという感慨も。そう、もうトルコを離れて1年半以上経つのですね。

あれだけ自分の周囲に当たり前にあったものや光景が、すっかり過去の写真を通してしか思い出せないものになりつつある。先日、あるフォロワーの方が「最近我々はついに『コロナが明けたら…』と言わなくなってしまった」とおっしゃっていましたが、それはまさしく。

いずれ終息するとは思います(終息してもらわんと困るというか、わしら商売あがったりですよ!)が、果たしてその時に見る光景というのはどういうことになっているのか。私には皆目見当もつきません。

昔、トルコ留学に気が焦る私に、「心配してもトルコは逃げやしませんよ」と言ってくれた人がいましたが、今でも、あるいは今後もそうだといいのですけどね。

で、本題。自分のトルコ語もさび付いている部分があるなと思うし、何よりその当たり前に自分の身の回りにあったトルコ的なものがどうしても足りないと思ってしまう。「養分不足」と表現したのはそういうことです。

言語も食も、風景も足りないなと。まあ、言語と食はなんとかなるでしょう。いざとなれば、どちらも自分で再現すればよい。でも、風景が恋しいですね。そろそろ。

とある方も「イスタンブルが恋しい」という趣旨の写真付きのツイートをしていらして、私にも引火してしまったという次第でした。自分の写真フォルダにも、トルコで撮った写真ならたくさんあって…

まだ蔵出ししていないのはどれだっけ、と思いながら画面スクロールしていたら、何枚か見つけてああ懐かしい…という気分になったのでありました。

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かつて博物館だったアヤソフィア大聖堂は、今はモスクになってしまったというし…

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ロカンタ(大衆食堂)でさっと食べられるピラフとスープの味も懐かしい(自分で再現しようと思ったらかなりめんどくさそう!)

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パン屋さん(トルコでは「かまど」を意味するfırın(カナ書きすると「フルン」が原音に近い)で朝買いに行くあのパンのおいしいことも。

当たり前に享受できていたことが、遠く離れた日本に帰ってきてみて貴重な瞬間の連続だったのだということを改めて実感する次第です。

もっとも、日本のいいところも今は享受できているわけで、その日本にあるもののありがたさは、逆に当時トルコにいるころはしょっちゅう痛感していたというんですから人間というものは業の深い生き物ですよね…人はないものを欲しがる生き物だ、ということに尽きるでしょうかどうでしょうか。

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