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スマホ+SNS時代の戦争ニュースを      理解するためのメディアリテラシー          国際世論を戦場に          「ハイブリッド・ウオー」が進んでいる      ウクライナ戦争に関する私見4       2022年3月23日

<前置き1>今回も戦争という緊急事態であることと、公共性が高い内容なので、無料で公開することにした。

<前置き2>今回もこれまでと同様に「だからといって、ロシアのウクライナへの軍事侵攻を正当化する理由にはまったくならないが」という前提で書く。こんなことは特記するのもバカバカしいほど当たり前のことなのだが、現実にそういうバカな誤解がTwitter上に出てきたので、あらかじめ封じるために断っておく。

1963年生まれの私は、ソ連が崩壊したとき28歳だった。その時はすでに記者として働いていた。ゆえに「ソ連が存在し、冷戦が現実だった時代」の社会の空気を覚えている。

冷戦時代は、ソ連軍の外国での軍事行動や、ソ連政府の国内統治がいかに苛烈で残虐でも、誰も不思議に思わなかった。大きな社会的関心もなかった。「あれは社会主義だから」(=社会主義国は人権軽視だから)という「定型思考」に放り込んで、おしまいだったのである。

その時代、定形思考に放り込んだあとは、人々はその先を考えるのをやめてしまった。

ソ連軍に占領されたアフガニスタン(1979〜88年)の人々や、ソ連の支配から離脱しようとしたら軍事侵攻されたハンガリー(ハンガリー動乱=1956年)、チェコスロバキア(プラハの春=1968年)国民への「同情」「応援」は「なかった」とまでは言わないが、現在のウクライナ戦争への国際世論の反応とは、まるで別の惑星のように違う。


それはすべて「イスラム世界」とか「社会主義国・東側」という「あちら側の世界」の話だった。"One of Us"(我々と同じ人間)という認識はされなかった。

そもそも情報環境がまったく違う。当時はスマホはおろか、インターネットやSNSはなかった。携帯電話もパソコンもなかった。日本でネット使用者が少数派(約25%)から多数派(約75%)に転じるのは1998〜2008年の10年間のことだ(総務省統計より)。

アフガンやチェコにソ連軍が軍事侵攻しても、西側の新聞・テレビ記者が現場に行って取材しなければ、何もわからなかった。そもそも制圧したのが秘密主義のソ連なので、現場に入ることもほぼ不可能だった。

今では、新聞テレビ記者が現場で取材するより、はるかにリアルタイムで生々しい動画が、ウクライナ市民・政府・軍のスマホによって撮影され、世界に発信される。世界の市民が手にするスマホに、戦場の現実が飛び込んでくる。

(下は『ウクライナ第二の都市ハリコフの住宅に飛び込んだ不発弾』と説明がある。ロシアの独立系メディア"Rain"のTikhon Dzyadko編集長の2022年3月20日のツイートより。烏賀陽はフェイクニュースチェックをしていないので注意されたい。これもフェイクである可能性はゼロではない。巻頭写真も同じ)

(注)Tikhon Dzyadko氏は2022年3月5日「放送局を閉鎖してロシアを離れる」と話している。記者を取り締まる法律がロシアで成立するため。下は「国境なき記者団」とのインタビュー。

いま世界の市民は、戦場に自分がいるような現実感を、手のひらの上でリアルタイムで経験するという、人類史上初めての経験をしている。

もちろん、ウクライナもロシアも、こうしたスマホ+SNSという情報環境を前提に戦争をやっている。

●ハイブリッド・ウォーのもうひとつの戦場はSNSとスマホ

通常の軍事力に、情報戦や心理戦、サイバー戦など非破壊型威力(Non Kinetic Warfare )を組み合わせて政治的ゴールを達成する戦略を軍事論では「複合戦」=Hybirid War (ハイブリッド・ウォー)という。クライナ戦争では、ロシアもウクライナもこのハイブリッド・ウォーを実行している。

<ロシア側> 本欄(上)ですでに指摘した恐怖戦術。ロシア軍は非戦闘員の殺傷や非軍事施設の破壊をためらわない。ウクライナ側が抵抗すればするほど非戦闘員の犠牲が増える。「早く抵抗をやめた方が犠牲が少なくて済みますよ」と交戦相手に心理的圧力をかける。軍事用語でいうと「心理戦」である。

そうした残虐な戦場の現実をSNS・インターネットで毎日見せつけられる国際世論は、時間が経つにつれ耐えられなくなる。特に長い平和に慣れきった西欧や日米の国民は「戦争の現実」に耐性がない。「条件は何でもいいからとにかく戦闘を止めろ」という圧力を高める。

ロシアは、西欧型民主主義国ではない。報道、言論、表現の自由がない。政策決定者は、国内・国際世論とも気にしなくてもいい。ゆえに圧力はウクライナ側により強くかかる。

例:マリウポリの市街戦(下)。ロシア軍が市街戦を演じたチェチェン戦争でのグロズヌイでは、27万人の街で民間人「数千人」が死んだので、人口40万人のマリウポリでも同規模の死者が出るだろう。国際人権NPO"Human Rights Watch"は非戦闘員3000人以上が死んだと報じている。

マリウポリはロシア軍が包囲しつつある首都キエフ(人口280万人)が市街戦になったときの「見せしめ」にされている。キエフで市街戦があれば数万人規模の死者が出る計算になる。ロシアは「キエフもこうなってもいいんですか」と恫喝している。

 もちろん、ロシア側も情報戦はやっている。

「ウクライナがチェルノブイリ原発でダーティー・ボム(核物質を通常爆弾で破裂させて汚染や被曝させる兵器)を作ろうとしている」という報道が3月6日になってタス、インタファクスなどロシア政府系通信社から流れてきた。ニュースソースやエビデンスは示されていない。

実際に戦争前の2022年2月5日にウクライナ軍はチェルノブイリとその近郊プリピャチ(原発事故で36年間無人)で市街戦の演習をしている。前掲ロシア側ニュースはこれに呼応している。

「ウクライナがチェルノブイリでダーティー・ボムを作ろうとした」という情報の真偽はわからない。もしウクライナ側がそれほど重要な軍事作戦にチェルノブイリを使ったのなら、わざわざ報道陣には公開せず、極秘で実施するはずだ。私はそう考えている。

しかし情報戦では、真偽は別にどちらでも構わない。「もしかしたら本当かもしれない」という「ほんのかすかな疑念」でも国際世論に抱かせることができれば、情報戦は成功である。ついでに、侵攻する口実(言いがかり)のひとつぐらいにはなっただろう。

(例)サイエンスの世界では議論に決着がついている『CO2による気候変動』に、産業界が『研究機関』『科学者』を雇って疑義をはさみ『論争には決着がついていない』と主張する手法。2014年のドキュメンタリー映画「世界を欺く商人たち」に詳しい。

が、後述するクライナ側のメディア情報戦と比較すると、ロシア側はまだ旧態依然とした「政府発表」や「政府系報道機関」に依存していて、洗練度合では負けている。

<ウクライナ側> 国際世論を味方にして交戦相手国への圧力をかけようとするのは、軍事的に劣勢にある側の定石である。また国内の団結を呼びかけるためにも情報戦を活用する。ウクライナ戦争では、新聞テレビといった旧来型メディアより、スマホとSNSがメインメディアになった。

一発数千万円する誘導ミサイルや戦闘機、戦車を買うより、ネットを使った情報戦ははるかに安上がりだ。欧米のマスコミ記者に取材してもらう必要もない。編集される心配もない。好きなことを言い、好きなものを写し、好きな長さ・頻度で発信できる。動画の編集も発信も、一台10万円程度のラップトップパソコンがあればできる。いや手慣れた人ならスマホでできる。

ウクライナ政府デジタル庁のボルニャコフ副大臣(40)はテレビ東京の取材に答えて、11:05付近で「戦争中にSNSを使う理由」を簡潔に述べている。

「SNSはとても重要です。国民とコミュニケーションを取り、安全など必要な情報を与え『この戦争に勝つのだ』と自信を与えることができます。SNSなしではとてもむずかしいでしょう」

「また、世界にメッセージを届けることができます。とても大事なことです。我々はロシアとのビジネスをやめるよう世界の企業と連絡を取っています。グーグル、フェイスブック、You Tube、ツイッターなどにはとても感謝しています」

「(SNSは)我々にもっとも強いインパクトを与えてくれます。公式のルートで連絡を取っても、彼らはそれを『見なかった』と言うこともできるでしょう。しかし、SNSを使って連絡を取ると、瞬時に数百万人もの人々の注目を集めるので、反応を示さないわけにはいかない。注目を集めることはこの戦争ではとても大事です。中には『反応したくない』という企業もある。しかしSNSでは反応を余儀なくされます」

●テレビ出身政治家の面目躍如
ましてゼレンスキー大統領は2019年に当選するまではテレビタレントだった。ウクライナ大統領を演じて人気者になってテレビドラマ「国民の下僕(しもべ)」(下)のタイトルそのままの「国民の下僕党」を率いて当選した。タレント時代のPRチームはそのまま側近として大統領府入りした。動画を中心としたメディア情報戦は得意中の得意だろう。

こうしたメディア情報戦のよい見本として、私は"Defence of Ukraine" アカウントの流すツイートを観察している。アカウント名を直訳すると「ウクライナの政府組織・ウクライナ防衛省」である(偽アカウントである可能性も留保してそういう記述にしておく)。

特に2022年3月21日に流れてきたこの動画はよくできている。

 ウクライナ戦争のウクライナ側の動画をつなぎ合わせ、重々しいBGMをミックスし、重厚な男声ナレーションが重なる。

「我々ウクライナ人はすでに次に何が起きるのか知っている。我々は勝利する。新しい都市を築く。新しい夢を見る。新しい物語が始まる。我々は生き残る。何の疑いもない。失った者を忘れることはない。また再び歌い、新しい時代を祝う」

 私もマスコミの世界に生きているので実感するのだが、この動画は本当によくできている。英語のキャッチコピー、動画がカットインするタイミング、音声とのシンクロ、すべてが上級のプロレベルの作品である。おそらく広告制作経験者がウクライナ政府にいるのだろう(あるいは広告代理店を雇ったのかもしれない)。英語で語りかけているのだから、国際世論を「ターゲット層」にしていることは間違いない。そのへんの計算も行き届いている。

これが1分43秒の短さにまとめられているのが重要だ。スマホ視聴者の集中力はこれぐらいが限界だからだ。

この「尺」に「ロシアの不当さ」「残虐さ」「ウクライナ人の強さ」「希望」という広告宣伝(プロパガンダ)に必要なメッセージがすべて入っている。戦争も「イメージビデオ」にできてしまうのだ。お世辞でも皮肉でもなく、私は驚嘆した。

●プーチン演説はサッカー番組とアメリカ政治動画にそっくり
「ウクライナの洗練されたメディア情報戦術と比較すると、ロシアは前時代的だ」と考えていた2022年3月19 日、プーチン大統領が開戦以来はじめて公の場所に出てきて演説する動画が流れてきた(下)。

ウクライナへの軍事侵攻を正当化する理由も述べている。「ナチズムのない世界を作るため」「虐殺と苦しみから同胞を救うため」という。内容的には、これまでのロシア政府の公式見解から特に大きな変化はない。

この動画の演出は非常によくできている。スポーツスタジアムという舞台設定からして、通常の政治家の演説ではない。政治家のスピーチは、記者会見や議会、大統領府(クレムリン)など「装飾のない味気ない場所」で行われるのが普通だからだ。

そのスタジアムを埋める満場の群衆(本物なら数万人。デジタル修正の可能性は留保しておく)。ロシア国旗を振り、顔にロシア国旗を描いている。その歓喜の表情とプーチンの演説が交互に映る。

お気づきのとおり、これはサッカーなどスポーツ中継番組のフォーマットである。破壊と殺戮がウクライナ戦争で進行している現実であるにもかかわらず、その暗いイメージは後退する。サッカー試合のような平和的な行事であるかのように錯覚する。理性や思考ではなく、むしろスポーツ試合のような「熱狂」や「歓喜」=「感情」に訴えかけている。

プーチン大統領は背広でも軍服でもなく、カジュアルな白いタートルネックと紺のダウンパーカー。ふらりとサッカー見物に来たおじさんのようだ。つまり「庶民の一人」というビジュアル演出になっている。しかも白と紺は「清廉」「潔白」を象徴する色である。なおかつロシア国旗の赤・白・青のうちの2色でもある。

プーチンを後ろから照らす青と白のネオンがアウトフォーカスにボケて幻想的で美しい。一方、顔色は血色良く見えるよう正面下からのライティング(赤)が計算されている。私も人物写真をスタジオ撮影することがよくあるので、本当によくできていると思う。「ビジュアルが美しい」ことは情報戦で視聴者に好印象を与える重要な要素だと理解した人物の作品だ。

プーチンは動き回りながら話す。その全身が映る。演壇にじっと不動で固定された、通常の政治家の演説ではない。この「アクション」は「活動的」「実行力がある」「健康」「力強い」(侵攻時にプーチン疾患説が流れたため)などの好印象を視聴者に与える。

言うまでもなく、こうしたスタジアムフィールドの真ん中という舞台設定やライティング、カメラの位置、プーチンのアクションは事前に設計され、厳密に打ち合わせた上で撮影されたと考えるのが自然だ。撮影後の編集も計算づくでされている。つまり作為の塊である。

まだ真偽を確認していないが、この動画に映る聴衆も、事前に動員された「サクラ」「バイト」の可能性が高いだろう。情報戦においては、観客がサクラであるかどうかは別に重要ではない。自然発生的にロシア国民が集まったかのように「見える」ことが重要なのだ。西欧流の動画演出に手慣れた広告代理店を雇えば、これぐらいの演出は普通にできる範囲だ。

スピーチの文面もよくできている。

聖書から「友のために命を投げ出すことほど大きな愛はない」と引用する。「ロシア三大名将」の一人フョードル・ウシャコフ海軍大将(18世紀。オスマン・トルコとの戦争で生涯不敗。クリミア半島と黒海を征服)の言葉を引用して「ロシアに栄光あれ。過去も現在も、未来も」と高らかに宣言する。

言うまでもなく、クリミア半島はロシア海軍の戦略的要衝であり、帰属をめぐってウクライナとの紛争になった場所だ。ちなみにプーチン大統領の父親はソ連海軍兵としてクリミア半島に駐在していた。

これは日本の総理大臣が戦争時の演説に「万葉集」の「防人の歌」や織田信長の言葉を引用するようなものだ。

聖書や名将を引用しても、ウクライナ戦争を肯定する論理的な根拠にはまったくなっていない。しかし大衆の持つ保守的・伝統的な感情(愛国心や祖国愛など)に訴えることができる。論理的にはハズレでも「なんとなく」そう思わせれば、政治宣伝としては成功なのだ。

同じプーチン大統領の演説動画でも、2022年3月5日段階のものは演出が地味でダサい(眼前に美女を並べている以外は)。比較してみてほしい。

戦争開始から23日を経て、ロシアも「恐怖戦術」だけでは足りないことに気づいたようだ。ソフトサイドの情報戦に手を広げたことがわかる。

●アメリカスタイルの政治宣伝動画
先にプーチンの演説動画を「スポーツ中継のフォーマット」と書いた。

もうひとつ重ねてあるフォーマットは、世界に流通しているアメリカの政治宣伝動画である。下は2020年アメリカ大統領選挙でのトランプ陣営の動画。比較してみてほしい。そっくりである。

●「はず・べきバイアス」で歪んだ現実認識

ここまでで明らかなように、ウクライナ戦争ではスマホ・SNSを前提にした「情報戦」「心理戦」を包括した「ハイブリッド・ウォー」を、ウクライナ・ロシア双方が繰り広げている。その主戦場はインターネットで統合された国際世論である。

政府がプロパガンダをするのは仕事のうちなので、特に不思議でも異常でもない。まして戦争である。自国に有利になるように、使えるものは何でも使うのは当然である。

特異なのは、この新しい情報環境でのウクライナ戦争への国際世論の反応だ。過去のどの戦争とも違う。21世紀も5分の1が過ぎて「戦争は新しい時代を迎えた」と私は考えている。

手のひらの上のスマホに、ダイレクトかつ時を選ばず飛び込んでくる戦場の残虐なリアリティを見て、日本大衆はじめ国際世論は狼狽(パニック)している。

(注)ひとつだけ留保をつければ「残虐」といっても建物が破壊されたり、非戦闘員が死ぬという、戦争映像、特にロシア軍が関与した戦争ではこれまで幾度となく繰り返されてきた範囲を出ない。集団虐殺や拷問、組織的レイプ、捕虜虐待といった戦争の極限の残虐さは現段階でどちら側からも出てこない。イラク戦争では捕虜の虐待画像が2004年に出てきた。

その狼狽(パニック)にはこんな心理があると思う。

「民主主義国は戦争をしないはずだ」
→「ロシアは民主主義国になったはずだ」
→「現実が信じられない」

そんな「はずだ」思考があるように思う。

ここでは
「民主主義国は戦争をしないはずだ」
「社会主義は終わったはずだ」
「冷戦は終わったはずだ」
「民主主義国同士の戦争はなくなったはずだ」

といった「〜はずだ」「〜べきだ」のバイアスが何重にも重なっている。

この前提にあるのは「民主主義国は平和的で理性的なはずだ・そうあるべきだ」という「はず」「べき」のバイアス(予断、先入観)である。

つまり「現実は〜のはずだ」「現実は〜であるべきだ」という「はず・べきバイアス」がかかった歪んだ目で現実を見ている。

よく考えれば「はず・べきバイアス」は見る人の「希望」「願望」「幻想」「夢想」にすぎない。現実とは何ら関係がない。願望と現実を混同している。ゆえに錯誤を犯す。

これは「民主主義」という政治制度への過信、あるいは幻想・ファンタジーと考えるべきだろう。いずれにせよ理解不足であることは同じである。

●「戦争は政治の一形態にすぎない」
特に戦後の日本大衆は「軍事と政治の間には明確な一線があり、越えてはならない」と考える人が多い。そこには「軍事=悪」とする「善悪の価値判断」が混入している。しかしこれは現実認識としては錯誤である。

むしろ西欧的な国際政治文化では一貫して「戦争は政治の一形態」にすぎない。古典に論拠を求めるなら、19世紀初頭のプロイセン将校だったカール・フォン・クラウゼビッツが書いた「戦争論」がその嚆矢である。この本は今でも国際関係論や国際安全保障論を学ぶ欧米のカリキュラムでは必読文献に入っている。私が学んだコロンビア大学の国際公共政策大学院でもそうだった。

国と国の間で利害の対立があったとき、平和的に交渉すれば「外交」(政治)になる。暴力的に交渉すると「戦争」(軍事)になる。どちらも「政治的ゴールを達成する」(=国益の最大化)ことが目的ある点では同じで、手段が違うにすぎない。戦争は双方が条件で合意すれば終わる(ウクライナ戦争でもウクライナ・ロシアの停戦協議=条件のすり合わせが頻繁に行われている)。そんな内容である。

軍事は、外交や経済と並んで、政治に統合された一部門にすぎない。どちらも「国家戦略」「国益」の追求手段として、政治指導者(大統領、総理大臣など)の指導下に置かれる。軍事力の行使は「できるだけ避けるもの」であっても「悪」とまでは見なされない(どの程度避けるものなのかは、その国の世論、経済力、資源などの変数によって変わる。時代や国によっても違う)。民主主義のコントロール下に置かれるなら、軍は安全に制御できる。

●現代日本人は民主主義に自信がない
ところが現代日本の大衆は、この「軍事は民主主義という政治制度のコントロール下に置かれる」という感覚がわからない。

大日本帝国時代、軍事が民主主義のコントロールを逸脱して国が破滅した経験がある。戦後も独力で民主主義政体を樹立した経験がない。そんな歴史的経緯のせいだろう。「軍事は民主主義を破壊する敵である」という錯誤が今でもごく普通にまかり通っている。軍事と民主主義は両立せず、敵対すると考える。

これは反対にいえば「軍事に対する恐怖心が過剰に強い」ということを意味する。さらに進めて言えば、現代日本人は「軍事に対する民主主義のコントロールに自信がない」と言えるだろう。

むべなるかな、である。2012 年から過去10年、衆議院議員選挙の投票率は50%前後を低迷している。つまり有権者の半分は国会議員を選ぶ責任を放棄している。有権者がこれほど無責任な有様では、日本人が自国の民主主義の軍へのコントロールに自信を持てないのは当然なのかもしれない。

●「民主主義国は戦争をしない」は誤り
現実には「民主主義国=平和的・軍事力行使をしない」は等式としてまったく成立しない。

それは米国のベトナム戦争、イラク・アフガン戦争でも明らかだし、第二次世界大戦後のイギリス・フランスの数限りない軍事行動(第一次インドシナ戦争、アルジェリア独立戦争、スエズ動乱、フォークランド紛争など)が証明している。

つまり「民主主義国=平和的・軍事力行使をしない」は単なる「思い込み」にすぎない。むしろ「そんな現実は一度も実現していない」と述べるのが正しい。

「民主主義国は平和的で軍事力行使から遠ざかる」という命題が成立するのは

①軍事力を行使するほどの国益の紛争がない 
②第三次産業型富裕国になり領土拡張の動機がない 
③隣接国と紛争がない
④覇権国(グローバル・リージョナル問わず)ではない
⑤前の戦争の敗戦によって軍事力行使に制限を課せられている
⑥海外で軍事力を行使するほどの国力(軍事力)がない

などの条件が重なった、かなり限定的な国(日本、ドイツなど)だけである。

もちろんソ連〜ロシアも、ハンガリー動乱、ベルリン封鎖、プラハの春、チェチェン戦争、グルジア戦争など数限りない軍事介入をしている。

ところが、日本では「第二次世界大戦の敗戦」で「戦争→民主主義に生まれ変わった」という認識が大衆に定着したため「戦争」と「民主主義」が対立概念で、両者は両立しないと誤解している人がまだ多数いる。

●イデオロギーと人間の本質は無関係
1991年の冷戦の終結で世界の人々が学んだのは「イデオロギーは政治体制を決めるだけで、人間の本質は、どの国はでもそれほど変わらない」という真実だった。

人間の内面の基本要素はどの国、民族、政治体制でも大きな差はない。

家族や友人、祖国を愛する。音楽や絵画、文学といった芸術を愛する。イヌやネコを愛する。誰もが死を恐れ、人生の幸福を願う。また反面、出世欲や名誉欲、物欲、虚栄心、見栄、嫉妬といった人間の弱点も、大きな差はない。1991年にソ連が崩壊して社会主義が終わったあと、フタを開けてみれば、資本主義国と大差はなかった。

つまり人間の内面や本質には世界どこの国もそれほどの違いはなく、そうした人間の集まる社会という基礎部分の上に「イデオロギー」や「政治体制」が乗っていたにすぎない。

建築にたとえて言うなら「人間」は「コンクリートの基礎部分」であり「イデオロギー」「政治体制」は「上屋」にすぎない。基礎はなかなか変化しない。が上屋は解体・新築できる。

●マスメディアは現実の多様性を消す
もうひとつの真実は「いかなる国や民族にも多様性がある」だ。人間には個体差がある。ソ連にも社会主義を嫌悪していた人は多数いたし、アメリカ人でもイラク・アフガン戦争に異議を唱えた人は多数いた。

ところが、マスメディアはこの「多様性の現実」を消してしまう。なぜなら、新聞やテレビの短いフォーマットでは「一つのタイプ」を紹介するのが精一杯だからだ。ゆえに記者が選んだ「全てを代表させられるワンタイプ」だけが流れる。よって時間を経るに従って報道は単一性に収斂し、多様性は落ちていく。

例えば、ウクライナ戦争のニュースで「祖国で戦争が始まっても何もしない海外のウクライナ移民」はニュースにはならない。

現実に、アメリカや欧州に移民したウクライナ人は多い。ソ連崩壊後、30年間でウクライナは人口が約5000万から約4000万人に約1000万人減少した(出生率や平均寿命の減少による人口減も含む)。下はウクライナからポーランドへの移民を取材したFrance24の2018年1月の報告。

しかしマスコミでニュースになるのは「祖国のために救援物資を送る」「義勇兵に参加する」「親戚や知人の安否を気遣う」など、戦争に関連して「日常」が「非日常」に変化したウクライナ移民だけである。

カウントすれば「母国で戦争が起きても、何ら変化なくそれまでと同じ生活を送る海外のウクライナ移民」の方が圧倒的に多いのが現実のはずだ。しかしマスコミは「非日常」しかニュースにしないので、少数であっても「全体を代表するワンタイプ」として報じる。すると、少数があたかも多数であるかのように見える。

こうしたマスコミのふるまいは、日本人は東日本大震災・福島第一原発事故の経験で知っているはずだ。

福島県のニュースであると言うだけで「原発事故」と関連づけられ、関連のないものはニュースにならない。「非日常」だけが取り上げられ「日常」「平常」はニュース価値を持たない。老若男女、個性(個体差)は無視され「避難者」「被災者」という特性で判断される。

こうした単一的なステレオタイプニュースは、福島県民や被害当事者を苛立たせている。

私は日本国民だが、日本政府の政策には賛同できないことのほうが多い。同じように、ロシア国民でもプーチン政権の政策に同意しない人は多数いる。ウクライナでもゼレンスキー政権に賛同しない国民は多数いる。政府の方針が国民の考えと一致しないことはむしろ当たり前である。一致する人もいるし、しない人もいる。どこの国でも、そうした「多様性」がある。

マスコミ報道は、こうした多様性より「ワンタイプ」に収斂する、自律運動のような挙動をする。それが行き過ぎると「ステレオタイプ報道」に堕落する。

ウクライナ国民は全員一致団結してロシアと戦い(あるいはロシア軍の暴虐の犠牲になり)、ロシア国民は全員プーチンに黙って従う。そんなステレオタイプ認識に大衆は陥る。

「祖国防衛に奮闘するウクライナ兵士」だけをクローズアップした下の記事などは、そうした「多様性を無視して」「単一性へ収斂」した典型である。

ここにマスコミ情報に依存することの危険性がある。視聴者が現実の多様性を忘れ、現実の見方が単一的になるのだ。

●プーチン、ゼレンスキーの「キャラクター化」
この多様性の軽視が行き着くところまで行くと、あたかも「国」が1人の人間であるかなように錯誤に大衆は陥る。

例えばプーチン大統領を「ロシア国民全員」を代表する人物、ゼレンスキー大統領を「ウクライナ国民全員」を代表する人物であるかのようにマスコミは扱う。マスメディア上でよく流通する「キャラクター化」現象である。

(例)千葉県を「チーバくん」、熊本県を「くまモン」というキャラクター(ゆるキャラ)に象徴させる。

「キャラクター」とは、もともとは映画やテレビドラマといったフィクションの「登場人物」の意味だ。ところが、同じマスメディア上の情報として見るうちに、視聴者は現実をまるでドラマや映画を見るような感覚で見るようになる。

誰でも発信者になれるインターネットでは、このキャラクター化の作用が既存マスコミより強く作動する。

日本語ネットを渉猟してみれば「ゼレンスキー大統領のTシャツブランドはどこ?値段やサイズも徹底調査!」とか「プーチンの元妻との娘は娘は二人で美人!」と、戦争の停止や殺戮・破壊の防止といった、現実の問題の解決にはなんら価値のない情報が流れている。

ファッションや家族といったプライベートな情報は、芸能人(映画・テレビドラマといったフィクションのキャラクター)のゴシップ情報と同じである。ウクライナ戦争ではすでに、日本語ネット界はこの「キャラクター化」の錯誤に陥っている。つまり現実の戦争と、映画・ドラマといったフィクションの境界を見失っている。

●ニュースの決定権はマスコミではなく視聴者にある
2022年の現在新聞・テレビなど旧来型マスメディアもネットメディアも「マスメディアが何をニュースに選ぶのか」の決定権は、すでにマスメディア側にはなく、視聴者側に移っている。

もともとテレビの世界では「視聴率=視聴者の反応」が仕事の成績表である。Twitterでは「フォロワー数」「インプレッション数」、You Tubeなら「ビュー数」「チャンネル登録者数」という数字でその成績が数値化される。You Tubeではそれが現金収入の額にすら影響する。

新聞はかつてはそうした数値競争から一歩引いたところにいたのだが、ウエブやTwitterがニュースを運ぶメインメディア(以前は紙だった)になって、ニュースへの注目度が数値化されるようになった(下は朝日新聞のTwitterアカウント)。

●どんなに重要なニュースでも、情報消費者は必ず飽きる
2022年2月24日に侵攻が始まったので、まもなく1ヶ月=28日が経つ。これぐらいの長期間、同じウクライナ戦争のニュースが続くと、そろそろ日本の大衆は飽き始める。

ウクライナは日本から8000キロ以上離れているので、砲弾や銃弾が飛んでくることはない。ウクライナに知古がいる日本人は稀だろう。

すなわち、日本人大衆の大半にとってウクライナ戦争は「現実」ではない。「メディア上の情報=コンテンツ」に過ぎない。そうしたメディア・コンテンツを「現実」のように錯覚しているだけだ。

もし仮に、日本の現実世界で戦争が進行していれば、情報需要は深刻かつ切実なので「飽きる」ことは不可能である。

マスコミ企業は経験上「同じニュースが続くと、視聴者は飽きて離れる」ことを当然の前提として知っている。したがって、戦争や原発事故のような大クライシスが起きても、見る人が飽きないように、連続や反復を避けようとする。「バリエーション」を欲しがるのだ。

●戦争ニュースのエンタメ化
すでに日本の民放テレビの流すニュースは、ウクライナ戦争そのものに関係のない情報に迷走し始めている。

下の3例を見てほしい。

(1)テレビ朝日。電気自動車企業「テスラ」のイーロン・マスクCEOとチェチェン共和国の新ロシア指導者カディロフ首長とネット上で舌戦を繰り広げている(のだそうだ)。

チェチェンは交戦当事国ではない。マスク氏に至っては、ウクライナ戦争に何の関係があるのかすらわからない(同氏は南アフリカからアメリカへの移民)。プロレスでいえば「場外乱闘」ですらない。酔っぱらいが観客席でケンカしているみたいなものだ。それをテレビが放送している。

(2)TBS。ロシア人宇宙飛行士の宇宙服が黄色で、ところどころ青のワッペンがあるので「ウクライナ国旗の色と同じ」「ウクライナへの支持を表明しているに違いない」と強引なナレーションが入る。しかし宇宙飛行士たちは「たまたま黄色い布地が余っていたので」と否定している。

(3)テレビ朝日。前述のプーチン大統領の演説も「160万円のダウンジャケットを着ていた」という戦争には関係のないゴシップニュースにされてしまった。

こうした例でわかるように、マスコミは「歴史的な重要性」でニュースを決めているのではない。視聴者の「嗜好」で決めている。もし「歴史的重要性オンリー」でニュース価値を決めるなら、毎日ウクライナ戦争がトップニュースになるはずだが、そうはならない。

大衆の情報・ニュースへの需要は「歴史的重要性」とは無関係である。そしてマスコミ企業もその視聴者の判断に従う。これも、日本大衆は福島第一原発事故のマスコミ報道が2〜3年で急速に消えていった前例で知っているはずだ。

ここでいう日本の「ニュース視聴者」は、古典的な意味での「ニュース読者」ではもはやない。むしろ「情報消費者」と呼ぶほうがふさわしい。

同じニュースが繰り返されると、その重要性に関係なく「飽きる」という現象は「毎日カレーを食べると飽きる」現象に似ている。

つまり「ニュースを受け取り、理性と知性を使って思考する」のではない。視覚・聴覚が受け取る「感覚」を(快感だけでなく、恐怖や悲嘆といった不快も含めて)楽しんでいるにすぎない。それはカレーを食べて味覚や嗅覚を楽しませるのと本質的には同じである。だから頭では重要だと思っても、感覚が飽きてしまうのだ。

これは「消費者」の態度である。この情報環境では、ニュースや情報は、カレーライスやシャンプー、スナック菓子と等価の「消費物」として扱われる。そこでは「消費者の嗜好」がイコール「需要」とみなされ、ニュースや情報の価値を決定する。

理性的に思考すれば、チェチェンのカディロフとイーロン・マスクが口喧嘩をしても、戦争の本質にはまったく関係がない。ロシア宇宙飛行士の服が黄色くても(宇宙飛行士本人が言うように)ウクライナとは無関係である。

ニュースとしてはむしろバカバカしく、くだらない。

しかし視聴者に「バカバカしい」「くだらない」という「感覚」を惹起させることができれば、メディアコンテンツとしては成功なのだ。話題になる。視聴率が上がる。ビューが稼げる。

くだらなく、バカバカしくても、いいのだ。
いやむしろ、くだらなくてバカバカしいから、いいのだ。

ここではウクライナ戦争の情報すら「娯楽コンテンツ」にされている。商品として消費されている。「恐怖」「悲嘆」といった「負の感情」ですら消費物、商品にしてしまっている。

よく考えてみると、これは「ホラー映画」や「お化け屋敷」といった娯楽コンテンツ産業の発想とほぼ同一である。

そんなことを考えていたら、@ArmedForcesUkrというTwitterアカウントからこんな動画が流れてきた。

「戦場のウクライナ兵士が、コーヒーを飲み、パンをほうばり、ルービックキューブに興じている」という動画になっている。

しかし、この動画は本当にウクライナ戦争が始まってから撮影されたものなのか、わからない。

戦争前の演習の映像かもしれない。平和な時代、ウクライナ人がサバゲーをやっていた動画かもしれない。場合によっては、映画の撮影だったのかもしれない。

もちろん、本物かもしれない。しかし「フェイクかもしれない」という「かすかな疑念」をゼロにすることはできない。

それは冒頭に掲げた「住宅に飛び込んだ不発弾」の写真も同じだ。
あまりにできすぎていて、かえって嘘くさく思えてきたりする。

SNSの上では、現実と虚構の境界がどんどん消えていく。戦争ですらこうなるのだ。

(2022年3月23日、東京にて記す)

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