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ウクライナ戦争を理解する歴史知識3  大飢饉の次は大粛清=75万人犠牲     「富農」追放に続きポーランド系住民虐殺 ウクライナ・ベラルーシはその被害地         ウクライナ戦争に関する私見16   2022年8月24日現在

ウクライナの苦難は続く。

大飢饉が収束したと思ったら、今度はスターリンが「大粛清」(政治弾圧)を始めた。また百万人単位のソ連国民が犠牲になった。続いてナチス・ドイツがソ連に攻め込んできた。ウクライナは「殲滅戦」の戦場と化した。

まず今回はスターリンの「大粛清」について書く。

冒頭写真:ロシアのペルミ市(1940年〜57年はモロトフ市)郊外にある「ペルミ36」グラーグ(強制収容所)。現存するグラーグはロシアでここだけ。現在は博物館になっている。



<前回までの話>
1930年代前半、スターリンが暴力的に強行した農業集団化で、ソ連の農業地帯全体で1450万人が飢餓や強制収容・強制移住で死んだ。

これは現在の東京都の人口(1396万人:2021年)より多い。その規模を把握するには、東京都民が全滅して一人もいなくなる様子を想像するほかない。

穀物生産地であるウクライナの犠牲はそのうち350〜500万人に及ぶ。これは現在の大阪市と名古屋市の合計人口に匹敵する規模である。

ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の犠牲者はだいたい600万人と見積もられている。それに匹敵する。

私見だが、これはスターリン体制による「自国民の大量虐殺」と呼んだ方が適当なように思える。こんな残虐なことをすれば反スターリンの反乱やクーデターが起こってもよさそうなものだが、歴史はそうはならなかった。

大飢饉に続いて、スターリン率いるソ連政府は、自分の政敵と市民を虐殺する「大粛清」を始めた。終わったと思ったら第二次世界大戦が始まった。

大粛清の発端は、大飢饉の責任転嫁から始まっている。大飢饉と大粛清は、実は時間的にも事実関係でも連続している。

・質量とも近代史に類例のない大規模弾圧

「粛清」とは、もともとは「浄化する」という意味だ。「政府や政治団体の内部で、政策や組織の一体性を確保するために、反対者を追放や処刑などにより排除して純化をはかること」を指す。英語ではpurge(パージ)、フランス語ではépuration(エピュラシオン )、ロシア語では чистка(チーストカ)という。

「粛清」はソ連や中国、北朝鮮といった社会主義国の独占物ではない。「粛清」と日本語で呼ばれないだけで、世界の歴史、特に革命・クーデーターなど政治変動期には、各国で起きた。フランス革命(ジャコバン派の恐怖政治)や冷戦期のアメリカ(マッカーシズム=『赤狩り』=Red Purge)、明治維新期の日本(佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱、西南戦争などの士族反乱)でも同質の現象は起きている。

しかし、スターリンが1930年代に実行した「粛清」は量・質とも別格である。ゆえに「大粛清」と区別して呼ばれる。犠牲者が莫大かつ、政府や共産党内の政敵から拡大して「反革命」とレッテルを貼った一般市民の集団(『富農』など)や民族集団を丸ごと弾圧対象にしたからだ。ソ連国民だけでなく外国人も犠牲になった。

ソ連崩壊後はロシア語でも、前述の”чистка”(粛清)ではなく"Большой террор"(大テロル)と呼ばれる。「テロル」とは要するに「テロ」(terror)=恐怖=テロリズムのことだ。

またロシア語では、1936年から38年までソ連の政治秘密警察NKVD長官として、大粛清を実行したニコライ・エジョフの名前を取って「エジョフチカ」(ежовщина=エジョフ体制)とも言う。NKVDはKGBの前身である。

・大粛清で75万人銃殺

大粛清でどれぐらいの犠牲者が出たのか。中東欧現代史を専門とする歴史学者ティモシー・スナイダー(イェール大学教授)は著書「ブラッドランド」上巻(2015年、筑摩書房)で次のように述べている。

1934年6月から39年8月までに、ソ連では約75万人の国民がスターリンの指示によって銃殺され、それよりも多くの人びとがグラーグ(烏賀陽注:政治犯収容所と強制移住施設を併せたソ連独特の収容所)に送られることとなった。弾圧の対象になったのは、大半がソ連の社会体制に支えられるべきであった農民と労働者であり、そのほかは民族的少数派の人々だった。

ティモシー・スナイダー「ブラッドランド・上」(筑摩書房)
ロシアのペルミ市(1940年〜57年はモロトフ市)
郊外にあった「ペルミ36」グラーグ(強制収容所)。
ただしぺルミ36は1946年の建設で、大粛清当時のグラーグではない。
Wikipedia Commonsより。
「ペルミ36」の位置。Google Mapより。
最盛期にソ連全土でグラーグは476ヶ所あった。
Wikipedia Commonsより。
ソ連・モロトフ市(現:上記ペルミ市)にあったグラーグの内部。
撮影日時不明。

下はアメリカCBCテレビが放送したペルミ36のニュース。

・大粛清の発端はウクライナ大飢饉の弾圧から

大粛清の発端はウクライナから始まった。

スターリンは1933年ごろから、大飢饉の責任を現地の共産党になすりつけて処刑し始めた。

断っておくが、粛清の対象は、モスクワの共産党(ボルシェビキ)の「身内」であるウクライナの共産党である。ロシア革命後の内戦時にモスクワのボルシェビキに敵対していたウクライナの民族派・独立勢力(本欄『ウクライナ戦争を理解するための歴史2』参照)ではない。むしろモスクワに味方したウクライナ人たちだ。

大粛清当時の1930年代はにすでに内戦は終了し、ウクライナはその共産党が統治する「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(Socialist Soviet Repubilc = SSR)」の支配下に入っていた。

ウクライナ共産党書記など幹部は「ポーランドの地主やドイツのファシストから献金されていた」と告発され、僻地の「グラーグ」(GULAG)に追放されるか、自殺に追い込まれた。

共産党政治家だけではない。知識人も標的になった。1933年4月にはウクライナ語研究所が「ブルジョワ民族主義の温床」として攻撃され、7人の言語学者が逮捕された。その後の数ヶ月間、編集者、文学者、知識人の逮捕と自殺が続いた。ウクライナの民族音楽演奏者まで処刑された。

1922年のロシア革命内戦終結後、大飢饉前後まで、ウクライナの都市部はウクライナ語・文化研究やウクライナ語教育が花開き「ウクライナ文化ルネッサンス」と呼ばれた。しかしスターリンは「反革命的知識人はソビエト政府打倒を目指している」「穀物の調達困難に責任がある」と濡れ衣を着せ、ウクライナ文化を弾圧しロシア化を押し付けた。

ウクライナでは「ポーランド軍事組織」あるいは「ウクライナ軍事組織」なる「スパイ」や「民族主義陰謀団」が暗躍し、収穫を妨害し、餓死した農民の死体を並べて、反ソ宣伝に利用している。そんな架空の報告をNKVDのウクライナ支局がモスクワに上げていた。

・ウクライナ政府閣僚17人全員逮捕。首相は自殺。


ウクライナSSRの政府閣僚17人全員が逮捕・処刑された。首相(主席人民委員)だったウクライナ人のパナース・リューブチェンコは1936年に自殺した。

ウクライナの共産党員の37%にあたる17万人が粛清された。1933〜34年だけでウクライナ共産党は10万人の党員を失った。こうしてウクライナの共産党は壊滅状態になった。

1930年代末には(ソ連国内)各共和国の自治はほとんどまったく死滅していた。スターリンは自分の子分を送って各共和国を治めた。ウクライナには1938年スターリンのお気に入りのフルシチョフがウクライナ共産党第一書記として送られてきた。

黒川祐次「物語 ウクライナの歴史」中央公論社

・フルシチョフ、ウクライナへ送り込まれる

ここでいう「フルシチョフ」とは、1953年から64年までソ連共産党第一書記として最高指導者になったニキータ・フルシチョフである。スターリンが死んだ後の指導者の地位を継ぎ「スターリン批判」を展開、ソ連の非スターリン化を進めた。キューバ危機のときのソ連側首脳でもある。

フルシチョフは民族的にはロシア人だが、育ちはウクライナ東部ドンバスのドネツク市である。そこで労働運動に参加して共産党員になった。スターリンは「ウクライナを熟知するロシア人」である忠臣を送り込んだわけだ。

スターリンの期待通り、フルシチョフはウクライナ統治を成功させた。 1941年にナチス・ドイツがソ連に侵攻すると、スターリングラードやクルスクなど重要な戦闘で政治将校として前線に入り、軍将校の見張りをして手柄を立てた。そして戦後はスターリンの後継者としてソ連の最高指導者に上り詰めた。

・スターリン側近暗殺で大粛清がソ連全土に拡大

1936〜38年には、粛清の嵐がソ連全土に拡大した。

きっかけは1934年12月、スターリンの側近だったセルゲイ・キーロフ(共産党レニングラード市委員会第一書記)が、レニングラード共産党本部の執務室に向かう廊下を歩いていたところを背後から拳銃で撃たれ、暗殺された事件だった(この暗殺そのものがスターリンの謀略という説もある)。

暗殺実行犯はすぐに逮捕された。がスターリンは通常の刑事裁判では満足しなかった。「国内の政敵が仕組んだ陰謀」「ソ連の指導者のさらなるテロ攻撃と政権の転覆をもくろんでいる」と主張し「テロリスト」の即時処刑を許可する特別法を強引に可決させてしまった。

まず標的になったのは、ロシア革命以前から活動していた古株のボルシェビキ(共産党員)だった。言うならばスターリンの「古くからの同志」だ。それだけにスターリンと上下関係がない。臆面なく反対意見を言うので、権力の座に就く前後のスターリンにとっては煙たい存在だった。

1936年8月から、エジョフ(烏賀陽注:前述のNKVD長官)はかつてスターリンの政敵であった人々に突拍子もない濡れ衣を着せ、見せしめ裁判にかけた。かつてトロツキーの同志で反スターリン派であったレフ・カーメノフとグレゴリー・ジノヴィエフの裁判は8月19日から24日間にかけて行われた。

彼らはスターリン暗殺計画に参加したと自白し、ほかの14人とともに死刑判決を受けて処刑された。こしたボルシェビキの古参活動家たちは脅迫され殴られ、あからかじめ用意された台本を読み上げたにすぎなかった。

ソ連国内では、見せしめ裁判で次々に自白がおこなわれ、組織的な陰謀の存在が裏付けられていくかのように見えていた。エジョフはこうした組織を外国諜報機関の支援を受けた「センター」と呼んでいた。

1937年6月下旬、エジョフはモスクワで自分が導き出した結論を共産党中央委員会で発表した。彼は党幹部に、すべての政敵、軍、NKVDにさえ浸透する指導的陰謀組織「センター中のセンター」の存在が確認されたと報告した。「彼らの狙いは、ソ連を破壊し、その領土に資本主義を復活させることにほかならない」。

エジョフの報告により、党、軍、NKVD内部の粛清が正当化された。月末までに軍の最高幹部8名が見せしめ裁判にかけられた。それから数ヶ月のうちに、赤軍の将官の約半数が処刑された。

1934年の党大会に参加した中央委員会のメンバー139人のうち、98名が銃殺された。軍、国家機関、共産党の粛清により、総計約5万人が処刑される結果となった。

ティモシー・スナイダー「ブラッドランド」上(筑摩書房)。一部途中略。

こうしてスターリンの「大粛清」という名の政敵の虐殺は、共産党内部だけでなく、赤軍、取締機関であるNKVD自身にまで拡大し、あらゆる国家機関がその対象になった。

・「富農撲滅」を掲げて一般市民に粛清を拡大

政府内にスターリンの政敵が見当たらなくなると、大粛清は「クラーク(富農)撲滅」というスローガンを掲げて一般市民へと標的を拡大していった。1937年の共産党中央委員会総会は「異質な分子が都市部の純粋なプロレタリアートを堕落させようとしている」「クラークはソ連の政治体制を激しく憎悪している敵」と決めつけた。

実際には「富農=クラーク」という社会階級は存在しなかった。1928〜32年間の「第一次五カ年計画」で暴力的に強行された農業の集団化の間、抵抗した農民たちに「クラーク」というレッテルをソ連政府が貼ったにすぎない。

「第一次五カ年計画」とその農業集団化で、約300万人の農民が農地を奪われ、賃金労働者になった。そのうち約20万人が処刑や流刑の判決を受ける前に都市部へ逃げ延びた。約40万人が特別居留区を脱走し、一部は都市へ、多くは農村地帯へ逃げ込んだ。こうして集団化→飢餓→強制収容所という苦難を生き延びた人々が「クラーク」だった。

(用語注)
富農:「クラーク」(ロシア語:кула́к)。元々は「拳骨」の意味。「貧農から搾り取った金を握ったら放さない「けち、欲張り」という侮辱語。

強制収容所:「グラーグ」(ロシア語:ГУЛАГ, ГУЛаг. ラテン文字表記ではGULAG)である。

・モスクワで処刑数ノルマを決めてから地方に人選させる


1937年7月30日付のモスクワから各地域に通達された命令「元クラーク、犯罪者、その他の反ソ分子鎮圧作戦について」という文書には「7万9550人のソビエト国民を銃殺刑に処し、19万3000人を8年から10年のグラーグ行きとする」という内容が記されている。

しかし「誰を刑罰に処するのか」という氏名は特されていない。それはNKVDの各地方支局が決めることになっていた。

ムチャクチャな話である。最初に処刑するノルマ人数を中央で決めてから、地方支局に誰を処刑するか決めさせたのだ。「数だけ決めとくから、誰を殺すかはそっちで決めといて」という話だ。

NKVD地方支局にすれば、処刑した人数がノルマより少ないと「職務に不熱心だ」として自分が処刑される恐れがある。当然の結果というか「足りないよりは多すぎるほうがよい」と、実際に処刑された人数はモスクワからのノルマの5倍に膨らんだ。38万6798人のソビエト国民が処刑された(スナイダー前掲書)。

「裁判所」として機能したのは「NKVD支局長」「地方共産党指導者」「地方検察官」の3人からなる「トロイカ」(Тро́йка =トリオのこと。馬3頭が引く馬車、馬橇のことでもある)だった。そんなトロイカがソ連全土に64支部あった。

もともと「反ソ的」とNKVDのファイルに記録があった人間から順に勾留された。

「被疑者」は夜間自宅から勾引された。自白は拷問で作られた。自白するまで勾留者は殴り続けられた。「判決」にモスクワの許可はいらなかった。控訴もなかった。

すでにグラーグ(強制収容所)に収監されていた人々も処刑の対象になった。強制収容所で自由を奪われている人がどうやったら「反ソ活動」ができるのか、不可思議としか言いようがない。

あらかじめ供述書の原稿を作っておいて、個人の情報を書き入れ、手書きで内容に修正を加えていた尋問官もいる。無理やり白紙に署名させ、あとからゆっくり書類を作成する者もいた。

トロイカは一度に何百件もの事案を扱い、1時間に60件以上のペースで判決を下した。人ひとりの生死を一分足らずで決めていたのだ。たとえばレニングラードのトロイカは、たった一夜のうちにソロフキの強制収容所に囚われていた658人に死刑判決を出してしまった。

クラークを対象にしたこの作戦は秘密裏に進められた。罪に問われた本人をふくめ、誰も判決内容を知らされなかった。刑が決まればただ連れ去られるだけだ。

最初は監獄のような施設に入れられ、次には、貨物列車に乗せられるか、処刑場へ送られる。

処刑は必ず夜間にひそかに、防音処理が施された地下室や、騒音で銃声がかき消される自動車整備工場のような大きな建物や、人里離れた森の中でおこなわれた。処刑人はNKVDの職員で、たいていナガンの軍用拳銃を使用した。

スナイダー前掲書
ナガンM1895。7発リボルバー。ベルギー製。帝政ロシア軍・赤軍が軍用拳銃として採用。

ふたりが囚人の腕をつかみ、背後から処刑人が頭部の付け根に弾を一発撃ち込む。そのあと、こめかみに「とどめの一発」を見舞うこともあった。

ある指導書には「処刑後は、前もって掘っておいた穴に死体を寝かせ、ていねいに埋葬してから、その穴をカモフラージュすること」と具体的に手順が示されていた。

1937年の冬が来て地面が凍結すると、爆発物を使って穴を準備した。

スナイダー前掲書

クラーク作戦開始当初は死刑より流刑のほうが多かった。しかし次第に死刑の比率が増えた。粛清しすぎて、強制収容所が満杯になってしまったからだ。また貨物列車で収容所まで囚人を運ぶより、殺して埋めた方が簡単だった。

・「民族主義は革命の妨害」とクレムリンは敵視


いかに牽強付会とはいえ「富農」は、いちおう「敵対する階級集団を標的にする」という意味ではマルクス主義の原義に合致している。

ところが大粛清の標的は次第にそれを逸脱し「ウクライナ民族主義者」「ポーランド系住民」などに「民族集団」に対象を拡大していった。その大きな被害を受けたのはウクライナとベラルーシ(白ロシア)である。

カール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスが当初考え出した「共産主義」は「ヨーロッパの先進国で革命が起こり、世界に波及していく」という「世界革命」を唱えていた。その共産主義をソ連に導入したレーニンも世界革命論者だった。

しかしロシア革命後の内戦が終結してソ連が成立(1922年)、レーニンが死去した1924年には、欧州の共産主義運動はほとんど壊滅していた。

スターリンは「一国だけで社会主義の建設は可能」という「一国社会主義」に転じた。

(注)それに反対し永続革命論を唱え、スターリンと対立してメキシコに亡命、最後は暗殺されたのがレフ・トロツキー)。

一方、ソ連国内には多数の民族が共存している。「階級」と「民族」の辻褄を合わせるソ連政府の公式見解は次のようになっていた。

「ソビエト国家の建設とともに各民族集団がソビエトの政策を受け入れる」

「農民階級から労働者・事務職・専門職へと階級をのぼる」

「社会的進歩を遂げる」

「その過程で忠実なソビエト国民になる」

「その後で民族意識に目覚める」

「あくまでソビエト中央の認める範囲内で民族文化が許される」

つまり「革命による階級の変革」が先で「民族意識の目覚め」は「忠実なソビエト国民になった後」という順番である。

このロジックに従えば、まだ「忠実なソビエト国民」になっていないのに、民族主義を主張するのは「革命の妨害」ということになる。ウクライナなど各地の民族主義がソ連政府に敵視されたのには、そんな理由がある。その標的にされたのが、ウクライナとベラルーシに居住していたウクライナ地元民とポーランド系住民だった。

ウクライナがソ連に編入されたころの地図。
Gene Thorp, "Washington Post," March 9, 2015.

・「ウクライナ民族主義者」とポーランド系住民が標的

集団化時代に広く「クラーク(富農)の抵抗」があったソヴィエト・ウクライナでは特に多くの犠牲者が出た地域だ。イズラエル・レプレフスキー(NKVDウクライナ支局長)は、ウクライナの民族主義者と思われる者も(処罰の対象に)含めた。

大飢饉以来、彼らはソ連の領土保全に対する脅威として扱われてきた。1937年と38年の2年間にNKVDに殺されたソヴィエト・ウクライナの住民の数は合計7万868名にのぼった。

1938年のソヴィエト・ウクライナでは、銃殺刑の比率がほかの刑よりもとくに高かった。1月から8月までのあいだに、3万5563人が銃殺されたのに対し、強制収容所に送られたのはわずか830人だった。

スナイダー前掲書。一部省略のうえカッコ内を加筆した。

大飢饉のときにNKVDが「ウクライナ民族主義軍事組織」「ポーランド軍事組織」なる架空の存在に飢饉の責任をなすりつけたことを先に述べた。

大粛清では、この「ポーランド軍事組織」陰謀説がまた復活した。

今度は「ポーランド軍事組織」がソ連全土の共産党、軍、NKVDにも浸透しているという、さらに膨らませた陰謀説が政府によって流布された。

当時、ポーランド本国(第一次世界大戦後、独立国として復活)はソ連・ドイツという東西隣国を刺激しないよう等距離的な外交を展開していた。「同盟国でもないし敵対国でもない」という立ち位置だ。

特に1932年1月には「ソ連・ポーランド不可侵条約」が結ばれ、ソ連に介入する意思をポーランドは失っていた。同国工作員がソ連内で活発に活動した時代はとっくに終わっていた。

「ポーランド軍事組織の陰謀」はもともと存在しないので、NKVDはポーランド系市民やポーランドに関係のある人々をますます恣意的に(つまり自由に)拘束し、流刑・死刑にすることができた。

当時、ソ連国籍を持つポーランド系住民の大半は、ロシアSSRではなく、ポーランドと隣接するベラルーシSSRやウクライナSSRにいた。

本稿「ウクライナ戦争を理解するための歴史知識1」で述べたように、ベラルーシやウクライナ西部はもともと、17世紀から18世紀にかけて「ポーランド・リトアニア共和国」の領土だった。

ロシア帝国領になった19世紀の100年間に、ポーランド・ベラルーシ・ウクライナ人は混合し同化していた。

ウクライナ・ベラルーシ語を話すようになったポーランド系もいれば、ウクライナ・ベラルーシ人がポーランド語を話すようになることもあった。

ソ連に住むポーランド系住民約60万人のうち、70%はウクライナに住んでいた。

下地図では、かつてポーランド・リトアニア共和国の領地だったウクライナやベラルーシが、次第に右側から赤色のロシア帝国に侵食されていく様子がわかる(緑が現在のウクライナ国境。オーストリア帝国に併合されたリビウを中心とする最西部だけが例外)。もともとポーランドの領地だったのだから、ポーランド系住民が多いのは自然なのだ。

ロシア帝国とポーランド・リトアニア共和国が隣接していた17〜18世紀の領土図。
東部のドネツク地方を除いてウクライナもPL共和国領土。
Gene Thorp, "Washington Post," March 9, 2015.

前掲書「ブラッドランド」はポーランド系ソ連国民の大粛清による死者を次のように見積もっている。

ポーランドのスパイと断定され逮捕された者:14万3810人。
そのうち処刑された者:11万1091人。

処刑されたポーランド系住民の居住地
ベラルーシ:約6万人以上。
ウクライナ:4万7327人。

大粛清の犠牲者全体数:68万1692人。
同時期(1937〜38年)ポーランド系処刑数:8万5000人。
=犠牲者のポーランド系の比率:8分の1以上。
=ソ連全人口に占めるポーランド系市民の比率:0.4%以下。

「ポーランド人は、クラーク作戦でも多民族に比べ標的にされた者が多く、とりわけソヴィエト・ウクライナではその傾向が強かった。大テロル期の死者数や、逮捕者の死亡率、逮捕されるリスクの高さを考慮すると、ポーランド人はソ連国内のいかなる民族集団より苛酷な体験をしたと言える」

スナイダー前掲書。

スナイダーによる大粛清期通じてのウクライナの被害をまとめると

大粛清期の全処刑件数:68万1692件
ウクライナで執行:12万3421件
=約18.1%

・最後はユダヤ系政府職員が標的に


最後に標的にされたのは、体制内のユダヤ人職員だった。大粛清で「富農」「ポーランド」作戦の立案と実行にかかわったNKVDの上級職員の3分の1はユダヤ系だった。例えば、富農撲滅を始めたNKVDウクライナ支局長のイズラエル・レプレフスキーは「イスラエル」という名前のとおりユダヤ系だった。しかし、彼らも逮捕され処刑された。

1938年、大粛清が収束するころには、NKVD幹部のユダヤ系の比率は20%に、39年には4%に減った。その後釜にはロシア系が昇進した。

もともと、ボルシェビキのメンバーには都市部のロシア系・ユダヤ系が多かった。スターリン最大のライバルだったトロツキーもユダヤ系だった。「ボルシェビキ=ユダヤ人」という偏見があった。

スターリンは、最後は大粛清の責任をユダヤ系になすりつけることで、ウクライナ系やポーランド系ソ連国民の恨みをかわそうとした。

後に第二次世界大戦が起きてナチス・ドイツがソ連を占領すると、占領地でナチスは「ウクライナ人(そのほかリトアニアなど地元民)弾圧はユダヤ人のせい」という宣伝を広めた。不幸なことに、これは後にウクライナ民族主義過激派がユダ人を排撃する背景のひとつになる。

・ヒトラーはソ連の脅威を利用して独裁者の座に

ウクライナで進行していた大飢饉を欧米が無視していたころ、それを非難した数少ない政治家がいた。アドルフ・ヒトラーである。

ウクライナで大飢饉が起きていた1933年1月30日、ドイツではヒトラー内閣が成立した。ヒトラーは政権基盤を固めるために議会を解散。3月5日に総選挙を行うことを決めた。

1933年2月27日、ドイツ国会議事堂が放火され炎上した。23歳のオランダ人無政府主義者マリヌス・ファン・デア・ルッベがその場で逮捕された(後に死刑)。しかしヒトラーはドイツ共産主義者の仕業と決めつけた。

そんな不穏な空気の中、ヒトラーはウクライナ飢饉を反共産主義の選挙キャンペーンに利用した。投票日3日前の演説から引用する。

1933年3月2日、ヒトラーはベルリンの多目的スポーツ施設「スポルトパラスト」に集まった聴衆の前で、「世界のパン籠ともなれる国で何百万人もの人々が飢えている」と明言した。そして「マルキスト」というひとことで、ソ連の大量死をヴァイマール共和国の砦とも言うべきドイツ社会民主党に結びつけた。

ヒトラーはまだウクライナ飢饉が歴史的事実であると確認されていないうちから、この事件をイデオロギー上の重要な争点として選挙戦で積極的に利用した。「マルキスト」を激しく非難し、マルクス主義体制の欠陥を表す証拠としてウクライナ飢饉を挙げたのだ。

スナイダー前掲書

同年3月5日の総選挙で、ナチスは43.9%の得票率を得て、288議席を獲得。18日後の3月23日には、新しい議会が「授権法」を可決した。この法律で、ヒトラーは大統領にも議会にもはからずにドイツを統治できるようになり、その死まで効力を保った。独裁者ヒトラーの誕生だった。

本欄2で述べたイギリス人フリーランス記者ガレス・ジョーンズがウクライナ飢饉を現地で取材してソ連から戻り、その悲惨な実態を初めて世界に知らせる記者会見をベルリンで開いたのは、この6日後、1933年3月29日のことである。歴史の皮肉としか言いようがない。ジョーンズ記者の報告は、ナチス独裁政権誕生のニュースの渦に埋もれてしまった。

ロシア革命の成功とソビエト連邦の成立は、欧米日に共産主義への恐怖を呼び起こした。スターリンの統治は、その恐怖をさらに増幅した。ヒトラーはそうした共産主義への恐怖を政権獲得に利用した。

ドイツ共産党は「ソ連の仲間」と有権者に疑われた。社会民主党は共産党と協力ができなくなった。両党は分断されて孤立し、ナチスに票が集まった。その後もナチス政府がソ連に強硬的な外交政策を取ったため、ナチスは「共産主義の拡大を食い止める防波堤」として支持を保った。

独裁者ヒトラーの誕生を助けたのは、実はソ連そしてスターリンなのである。これも歴史の皮肉としか言いようがない。

ソ連とドイツが第二次世界大戦で衝突するのは1941年。この8年後のことだ。

・無名・多数の人間の心にある悪と残虐

最後に私見を述べる。

スターリン体制下の大飢饉〜大粛清の歴史を調べれば調べるほど、陰鬱な気持ちになる。戦争でもないのに、1500万人以上の人が死ぬ。それも自国の政府によって殺される。「人権」もヘチマもない。殺された人々や遺族の怨嗟と苦しみを想像すると胸が切り裂かれる思いがする。

これほど大量の人命がゴミのように粗末に扱われるのを見ると、権力の恐ろしさは言うに及ばず、人間が内面に持つ残虐さを考えずにはいられない。

これを「猜疑心」「偏執狂」「残虐」「冷血」とか、スターリン一人の人間的資質のせいにするのは、誤導であるように思う。もちろん自国民1500万人以上を犠牲にするグランドデザインを描いたスターリン本人は想像を絶する人物なのだが、私がめまいを感じるのは、その下にいて、殺戮を組織的に実行した多数で無名の政府・共産党や軍・警察職員たちなのだ。

処刑対象者を決める「NKVD支局長」「地方共産党指導者」「地方検察官」の「トロイカ」はソ連全土に64あった。そして処刑者を勾留し、拷問し、自白させ、処刑し、グラーグに送る末端の職員に至るまで、組織的な反抗や反乱の記録がない(反抗すると処刑されるからかもしれないが)。誰もが「真面目に」=「党と指導者に忠実に」与えられた職務を遂行する。そして無実の同胞を殺し続ける。

こうした現象は、現代日本人は旧大日本帝国軍や特高警察の所業として、あるいはナチス・ドイツの所業として、あるいはアメリカ軍の所業として史実を知っている。それを「スターリンは残虐だから」「ロシア人は冷血だから」「ドイツ人は」「日本人は」と個人や国民の資質のせいにするのは誤謬だと私は思う。

NKVD長官だったエジョフですらスターリンに比べれば無名だ。スターリンは「右代表」として歴史に名を残す「有名」の人物にすぎない。大粛清のような巨大な悪は「多数」かつ「無名」の人間の群れが集合体として実現する。

ソ連にもいた無数で無名のアイヒマンたち


ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺移送責任者だったアドルフ・アイヒマンが戦後イスラエルで裁かれる裁判を傍聴し「エルサレムのアイヒマン」という本を書いた政治哲学者のハンナ・アーレントは「悪は凡庸である」="banality of evil"という言葉を残している。

悪は根源的・悪魔的なものではない。思考や判断を停止し、外的規範に盲従した人々によって行われた陳腐なものだ。しかし表層的な悪であるからこそ、社会に蔓延し世界を荒廃させうる。

アーレント「エルサレムのアイヒマン」みすず書房

「悪は凡庸である」を私なりに言い換えると、こうだ。人間を虐殺するような残虐さ、冷血さは、気づかないだけで、誰の精神にもある。

つまり悪は平凡で凡庸なものだ。誰でも、人間の内面には悪と善が共存している。スターリン一人が悪魔的な人物だったのではない。多数・無名の人々の心に眠る悪こそが、社会に大きな害をなす。

思考や判断を停止させない。外的規範に盲従しない。少なくともそれに意識的でいる。私たちが「多数で無名の人間が集合してなす巨大な悪」に加担しない方法は、それしかないように思う

(2022年8月24日記)

<注1>今回は次の3件の文献に依拠していることを特記する。より詳しく知りたい人はぜひ読んでほしい。

特に「ブラッドランド」は「大飢饉」「大粛清」という、長らく秘密にされてきたソ連史の暗部である大虐殺の規模や詳細を、ロシア語やポーランド語の一次資料から積み上げて実証した労作である。

<注2>今回も戦争という緊急事態であることと、公共性が高い内容なので、無料で公開することにした。しかし、私はフリー記者であり、サラリーマンではない。記事をお金に変えて生活費と取材経費を賄っている。記事を無料で公開することはそうした「収入」をリスクにさらしての冒険である。もし読了後お金を払う価値があると思われたら、noteのサポート機能または

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<注3>今回もこれまでと同様に「だからといって、ロシアのウクライナへの軍事侵攻を正当化する理由にはまったくならないが」という前提で書いた。こんなことは特記するのもバカバカしいほど当たり前のことなのだが、現実にそういうバカな誤解がTwitter上に出てきたので、封じるために断っておく。

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烏賀陽(うがや)弘道/Hiro Ugaya
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