<フクシマからの報告>2020年春 「人が戻らない」 再開3〜4年 事故前の人口を回復した市町村ゼロ 強制避難地域 帰還者の苦悩
2011年3月11日に始まった私の福島第一原発事故取材は、9年目に入った。
今回の論点は「かつて強制避難の対象になった市町村には、どれくらいの住民が戻ったのか」である。
東京で見る新聞テレビは、やれ「JR常磐線が全線復旧した」とか、やれ「東京五輪の聖歌ランナーが走る」(コロナウイルスで五輪そのものが延期にならなければ2020年3月26日に福島市を出発するはずだった)とか「復興」を演出するイベントやセレモニーばかり報道している。もちろん、そんな演出をしても、メルトダウンした原子炉は1ミリも変わらないし、放射性物質のチリは一粒も減らない。
こうした演出にごまかされないように確認しておかなくてはならない。本来「復興」とは「住民たちの暮らしが、2011年3月11日以前の状態に戻ること」である。
ところが、その指標となるはずの「原発事故で強制的に避難させられた住民たちは、どれくらい故郷に戻れたのか」という基本中の基本であるはずの統計が、福島県外のマスコミには出てこない。
避難が解除されて(市町村によってまちまちだが)3〜4年が経過している。そろそろまとめてみてもいいころだろう。
そこで私は、かつて強制避難の対象になった同原発から半径20キロ以内の11市町村・地区について、原発事故当時の人口と、現在の人口を比べ、「帰還率」を割り出してみた。原発直近の、汚染が一番ひどかったエリアである。
詳しい数字は本文中で述べる。2020年春現在、原発事故前の人口を100%回復した市町村はひとつもなかった。50%以上の住民が戻った市町村でも、3つしかない。他はもっと低い。
原発事故から10年で「事故前の状態を回復すること」はほぼ絶望になった。残念ながら私はそう考えざるをえない。10年は原発事故のダメージを回復するには足りないのである。
しかし、人間の一生にとって10年は長い。小学生が成人式を迎えるくらいの時間である。故郷を離れた時間が伸びれば、避難先で生活した時間が長くなる。生活の基盤は避難先に移っていく。
現地は一体どうなっているのか。
様子を確かめに、私はまたフクシマを訪れた。
(冒頭の写真は、福島県飯舘村でみた、満開のサクラの下にある線量計。毎時0.672マイクロシーベルトは事故前の約17倍。この一帯は除染が終わっている=2020年4月24日撮影)
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