ウクライナ戦争を理解する歴史知識1 異民族支配と抵抗の歴史 大陸ど真ん中「ウクライナ」の歴史は 朝鮮・インドシナ・バルカン半島に似る ウクライナ戦争に関する私見14 2022年7月29日現在
<前置き ウクライナの民族問題を理解するヒント>
2022年2月に始まった「第二次ウクライナ戦争」は、ロシア軍の侵攻以来5ヶ月が経過した。ウクライナは軍事大国ロシアに抵抗を続けている。彼の国の国民がかくも頑強にロシアに抵抗する姿を見て、その背景を知りたいと思った。そこにはウクライナ人が共有する「民族の記憶」があるはずだ。その歴史を知らずに現在の「ウクライナ」を理解することはできない。そう考えた。
そう思ってウクライナや東ヨーロッパの歴史に関する文献を集め、読み込んで、頭を抱えた。ウクライナの歴史は長い。そしてややこしい。複雑極まる民族の興亡史である。
その長くて複雑な歴史を日本人にも理解できるように説明するにはどうすればよいか、悩ましい。簡略に書くだけで膨大な量になった。とても一回では終わらない。長すぎて読みにくい。数回に分割することにした。
およそ次のように分けて書いていく。
20世紀以前。「ルーシ」の誕生。キリスト教徒に改宗。モンゴル帝国が来て去る。ポーランド、リトアニアと戦争。
第一次世界大戦とロシア革命。ソ連成立。
第二次世界大戦。ソ連崩壊。ウクライナ独立。
(冒頭写真:10世紀にキリスト教に改宗したキエフ・ルーシの王ウラジミール1世の像。2016年、キエフではなくモスクワ、しかもクレムリン近くに建立され物議を醸した。プーチン大統領はウクライナとロシアは同じ民族だと主張している= Reuters通信より)
・民族とは液体である
一般論を例えていうなら、民族は液体、水のようなものだと考えるとわかりやすい。
日本のような島国では、民族は「島」という容器=ボトルに入っている。「海」という障壁で隔てられているので、多民族とは容易に混合しない。
ペットボトルに入った烏龍茶を冷蔵庫に入れておくとする。隣にポカリスエットのペットボトルを立てておいても、中身は交わらない。
しかし2本のペットボトルの栓を開けてを中身をひとつの器に注げば、どうだろう。烏龍茶とポカリは混合する。それは烏龍茶でもポカリでもない別の液体になる(あまりおいしそうではないが)。
一方、ウクライナのような大陸の真ん中の空間では、民族移動を遮る自然の障壁がない。周囲から河のように民族が流れ込んでくる。
川が海に流れ込む河口部のことを考えてみよう。そこには川の水と海の水が混じり合って、真水でも海水でもない「汽水」という水域ができる。そこは川でも海でもない。汽水にしかすまない「汽水魚」(ボラ、スズキ、マハゼなど)が生息している。
ウクライナという空間は、河口部の海に似ている。周辺から「ロシア川」「ポーランド川」「オスマン・トルコ川」が流れ込んでくる。混合する。その地域にしかない文化や言語が生まれる。言語や文化の異なる集団が混在する。そういう場所なのだ。
・国家も国境も人工物にすぎない
ややこしいのは、そこに人間が「国家」というものを作った後だ。「国家」はあくまで人間が作る。国家には必ず「領土」がある。その境界が国境線である。
ウクライナのような大陸国では、国境線は「人間と人間の交渉」で引かれる。民族の居住区分に従って国境線が引かれるとは限らない。民族集団を分断して国境線が引かれることも多々ある。
河川が海に注ぐ河口部に人間が線を引いて「ここまでは川」「ここからは海」と境界を設定しても、その線で真水が突然海水に変わったりはしない。
自然は、人間のつくる「境界線」とは無関係なのである。それは民族の分布と国境線の関係にも応用できる。
日本人がウクライナをめぐる民族や文化の流転や衝突を理解することの難しさは、ここにある。ずっと島というボトルの中で過ごしてきた日本人には、ウクライナのような民族が入り乱れ混じり合う空間は想像しづらい。
・空間としての「ウクライナ」と国としての「ウクライナ」は別
まず空間、土地、場所としての「ウクライナ」と、国としての「ウクライナ」は分けて考えたほうがすっきりする。
そもそも「ウクライナ」という「国」(あるいは地元民族の国)が存在する時間は、1300年近い同地の歴史の中でも100年にも満たない。そのうちの31年がソ連崩壊で誕生した現在の「ウクライナ」だ。地元民族が自分たちの国を持たない時代のほうがはるかに長い。
加えて「民族」としての「ウクライナ」も、「空間」「国」としてのウクライナとは分けて考えたほうが理解しやすいだろう。
「ウクライナ人」という民族単位は、はじめから自然にあったわけではない。地元民族が「我々はウクライナという民族である」と自覚し始めたのは18世紀以降。ウクライナ語が体系づけられたのは20世紀初頭だ。
この「ウクライナ民族はロシアやポーランドとは別個の独立した民族である」という主張に対して、ロシア側はずっと警戒をやめない。「いやいや、君たちはロシア民族の一部あるいは同祖だ」と反論し続け、今も解決せず尾を引いている。つまり「ウクライナ民族という民族は存在するのか」という最初の論点で、ロシアとウクライナは一致しないまま今日まで来ている。
第一次世界大戦後にアメリカのウイルソン大統領が提唱した「民族自決」原則からすれば、民族が違えば、独立した別個の国家を持つ権利がある。
ロシア側が常に「ウクライナ民族主義」を警戒してきたのは「ウクライナ民族のロシアからの分離」→「ウクライナ国家独立」を警戒したからだ。それは「自国政府の制御が及ばない集団の発生」であり「敵対的な隣国が誕生する」リスクでもある。ロシア(時代によってはポーランド)がウクライナ民族の独立につながる動きを神経質につぶしてきたのはそういう背景がある。
・ウクライナ国内に言語の違う民族集団
前回の本欄でウクライナ東南部の「ドンバス」2州のことを書いた。ロシア系住民が多いエリアである。
首都キエフはポーランド文化圏に入る。ウクライナ語はロシア語よりポーランド語に近い。NATOやEUなどヨーロッパの仲間入りを目指すキエフの政府がウクライナ語を公用語にしようとするたびに、ドンバスのロシア語住民が反発してもめごとになる。
ここでまず日本人は「ウクライナ語」と「ロシア語」が違う言語であることを知る。言語が違うということは、違う民族集団ということになる。しかもウクライナ語はポーランド語により近い。かつてソ連の一部だったのに意外だ。かつて国内だったロシア語より、外国のポーランドに文化的に近似しているのだ。
・民族集団を分断する国境線
ウクライナ西部にはポーランド文化の影響が強い住民がいる。つまりウクライナ西部は「ポーランド川が流れ込む海」である。
前述のように、ウクライナ語はポーランド語に近い。西部の住民は「我々はポーランド〜中欧〜西欧と連続している」と考える。「ロシアの影響圏を脱して西欧圏(EU,NATO)に入りたい」と考える。
一方、反対側、東部のドンバスにロシア系住民が多数いるのは、ロシア民族の居住地を分断してウクライナ・ロシアの国境線が引かれたからだ。前述のたとえでいえば、ウクライナ東部は「ロシア川が流れ込む海」である。
ソ連時代はウクライナは「地方自治体」だったので、境界線がまたいでいても問題はなかった。しかし「別の主権国家」になると話はまったく変わる。
すぐそばの隣国ロシアより遠くにいる首都キエフの政府が「ロシア語は公用語から外す」と決める。ドンバス住民は「ウクライナより地理的・文化的に連続するロシアに入りたい」と思う。それがドネツク・ルハンスク州の「分離独立」運動の背景である。
ウクライナ政府は離脱を止めようとする。2州を引き込もうとするロシアが国境線の向こう側から介入する。そのいざこざが高じて2014年に内戦になった。2022年2月のロシア軍侵攻は、この8年続いてきた軍事紛争のエスカレーションと考えることもできる。
・ウクライナは反対方向の民族的力学が作用する空間
ロシアにすれば、1991年のソ連崩壊までウクライナはソ連の「地方自治体」だった。「そこは今でもロシアの影響圏だ。勝手に出ていってもらっては困る」と考える。わかりやすく任侠映画の言葉でいえば「そこはウチのシマ(縄張り)や」と言っている。
2008年にメドベージェフ大統領が発表した「外交5原則」にそれが表明されている。日本で例えれば、九州や四国が独立して主権国家になったような感覚かもしれない。
ここでウクライナは東部と西部で、ロシア・ポーランド(西欧)と反対方向からの力に引き裂かれていることがわかる。ウクライナという空間は、そうしたまったく逆方向の民族的引力が作用する接点にある。つまり反対方向に引き裂かれている。
ポーランドがカトリック系スラブ民族、ロシアが正教系スラブ民族であることを考え合わせると、ウクライナはカトリックと正教という、宗派が違う民族の境界地帯だと言うこともできる。
こうした民族の力学は解決が難しい。「民族」とは究極的には「自分をどんな人間だと考えるか」という「アイデンティティ」=自己認識の問題だからだ。認識は主観にすぎない。そうした主観が積分されて民族という集団になる。主観は他者の説得では解決できない。
他者が「君はX人ではなくY人だ」と説得しても、Xが人たちが「確かに私たちはY人だ」と納得しなければ解決はない。合意することはない。「あいつらと俺たちは違う集団だ」と認識する限り、対立点が生じて延々と紛争が繰り返される。
・共産主義という共通の価値体系が消えた
ソ連時代、民族衝突が現在ほど頻発しなかったのは「共産主義」という「違う民族を貫く共通の政治上の価値体系」(『イデオロギー』とも言う)がモスクワのソビエト政府によって全国に導入されたからだ。
その共通の価値観が消えてしまったのだから、異なる民族集団をつないでいた「共通の文化、言語、社会構造」もなくなってしまった。それどころか「暗い過去」として「捨てるべきもの」になった。
異なる民族集団は「(ソ連の)仲間」ではなく「異者」になった。日本語でいうと「身内」ではなく「よそ者」になったと表現すればいいだろうか。
共産主義というイデオロギーが消失
→共通の価値感の喪失
→他民族を「身内」ではなく「よそ者」と認識
→民族対立
→武力衝突
→民族集団ごとに国家が分裂
→国家そのものが瓦解
・ソ連崩壊はユーゴスラビア崩壊に似る
このコースをたどった先例として「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」(旧ユーゴスラビア)がある。セルビア人(正教徒)、クロアチア人(カトリック)、ムスリム(イスラム)の三民族が平和的に共存する実験を成功させていたのに、1991年に一党独裁体制を廃止したとたん、内戦に突入。三民族が三つ巴の虐殺合戦を繰り返し、2001年までの10年間で30〜40万人が犠牲になった。旧ユーゴは8つの「国」に分裂した。
このユーゴスラビア崩壊の過程と「ソ連解体→ウクライナ戦争」の過程は相似形を描いている。「連邦国家が民族集団ごとに分裂→対立・衝突→国家も分裂」というプロセスが近似しているのだ。
ユーゴスラビアは連邦国家解体の過程で武力衝突になった。ロシア・ウクライナ戦争は、いったん連邦国家が解体、別の主権国家になったあとに武力衝突が起きた。その違いがあるだけだ。
・ソ連は30年以上かけてゆっくりと崩壊する過程にある
これは個人的な見解だが、ソ連は1991年に一気に崩壊したのではなく、今も崩壊の過程にあり、30年以上かけてゆっくり崩壊しているように見える。
少なくとも私はそう見ている。ウクライナ戦争はその30年以上続く「ゆっくり続くソ連崩壊」のプロセスである。そう考えると現実が理解しやすい。
ロシアの影響圏から脱して欧米の影響圏に入ろうとするウクライナを、ロシアが力づくで押し留め、自国影響圏にとどめておこうとしている。それがウクライナ戦争の本質である。
これは崩れていく「家」を壁や柱を必死で支えて、倒壊を防ごうとする姿に似ている。
ロシアの「やっぱり、昔のソ連時代の国の形へ戻りましょう」という「反動」ともいえる。「ソ連」がなくなっても、旧構成国をロシアの影響圏内にとどめておこうとしている。ソ連が解体して主権国家に分解したあと、それを政治(共産主義)とは別の力(軍事、経済、宗教など)で再統合しようとしている。
しかも、旧ソ連構成国の主権侵害(=軍事介入)を常套手段にしている。つまり旧構成国を主権国家と見なしていない。「ソ連」が「影響圏」に名前が変わっただけで、クレムリンの発想はソ連時代から変わっていないことになる。
前述の「外交5原則」は「ロシアの国益のためなら隣接国の主権は制限できる」(軍事介入してよい)という1968年のブレジネフ・ドクトリンに近似している。少なくとも旧構成国にすれば「これではソ連時代へ逆戻りじゃないか」と思うだろう。
・ウクライナの地政学的悲劇
ウクライナは、肥沃な大地を持ち、豊穣な穀物生産を誇るがゆえに、歴史上長らく周辺国の争奪の対象にされた。
ウクライナはユーラシア大陸の真ん中にある。海や砂漠、ジャングルといった軍隊の侵入を防ぐ自然のバリアがない。四方八方から国が攻め込んだ。石炭と鉄鋼という工業地帯になった18世紀以後は、ますます周辺国のほしがる場所になった。
歴史上「空間としてのウクライナ」に侵入して占領・支配した民族はロシアだけではない。1200年代のモンゴル帝国に始まって、ポーランド王国、リトアニア、スウェーデン、オスマン・トルコ帝国、ドイツ(第一次・第二次世界大戦の2回)、フランス、オーストリア・ハンガリー帝国と周辺国でウクライナに侵入しなかった国のほうが少ない。
・1991年のウクライナ独立は350年の民族悲願の実現
現在の私たちが「ウクライナ」という国として認識している国境線は、1945年時点のものがソ連時代に外敵から封印され、そのまま1991年のソ連崩壊とともに独立国「ウクライナ」として姿を現したものだ。
ウクライナの歴史は日本の奈良時代に遡るくらい古い(後述)。
しかし、他国の支配を受け続けたため「ウクライナ」という空間は「ポーランドの一地方」「ロシアの一地方」とみなされる歴史が長く続いた。
地元民族が「自分たちはポーランド人でもロシア人でもなく『ウクライナ民族』という別の民族である」というアイデンティティを自覚し始めたのは18世紀に入ってからだ。「ウクライナ語」が体系付けられたのは20世紀以降。このあたりから「ウクライナ民族」が民族の単位として形を取り始める。
いま主権国家「ウクライナ」として認識されている空間には、ずっと地元民族の「国」がなかった。「国家を持たない民族」だった。1991年のソ連崩壊で地元民族が「ウクライナ」という独立国を手にしたとき、それは300年以上に及ぶ地元民族の悲願の実現だった。
まずこの歴史を頭に入れておかないと、2014年から始まるロシアとの戦争で、ウクライナが自国民を殺戮され、国土を破壊されても、なお抵抗を諦めないのか理解することはできない。
「やっとの思いで自分たちの国を持ったのに、また異民族に支配されるのは嫌だ」「ましてソ連時代の自由のない世界に戻るのは嫌だ」
そんな二重の嫌悪感が働いている。
・ウクライナの歴史は長くてややこしい
地理的に西欧に連続するウクライナ西部では、同じ地域でも支配者がポーランドだったりドイツだったり、撤退してまた戻ってきたり、滅亡して復活したり、二転三転する。東部はロシア帝国の支配がある意味「安定」していた。これがウクライナ国内の文化的多様性・重層性の源流になっている。
こうして大国が国土の占領・分割を繰り返したため、1991年に独立した「ウクライナ」の領土には「かつてX国の領土だった」という地域がモザイクのように混在している。
Xには「クリミア汗国」「オスマン・トルコ」「ポーランド」「オーストリア・ハンガリー帝国」「ドイツ」「ロシア」などが入る。Xが変わると、その地域に残った文化や言語が異なる。現在、ウクライナ国内に10以上の言語集団がいることは前回書いた。
侵略国同士が争い、あるいは革命が起きて、侵略・支配していた国家がまるごと消えてしまったことも何度もある。リトアニア、ポーランド、オーストリア帝国、ロシア帝国がそうだ。東ヨーロッパ興亡史のど真ん中にあるのがウクライナなのだ。
ウクライナ史を理解しようとすると、ロシア史、ポーランド史、オスマン・トルコ史なども読まなくてはいけない。実に実にややこしい。「3Dジグソーパズル」のような有様である。
こうしたエスニックな集団が、下記①②③④でさらに細かく分化する。
①居住地域
西部か、東部か。南部か。クリミア半島か。
②社会構造
都市住民か。農村部か。工場地帯か。炭鉱地帯か。港湾地帯か。
③労働形態
IT,金融など事務職・頭脳労働者(ホワイトカラー)か。港湾・鉱・鉄鋼工場など肉体労働者(ブルーカラー)か。
④世代
ソ連統治時代を知っている世代か、ウクライナ独立以降に成人した世代か。
こうして「ウクライナ人」とひとくくりにできない複雑なグリッドが出来上がる。
・ウクライナ人自身もびっくりの国内多様性
ウクライナ人自身も、日ごろはそうした「自分たちとはまるで異なる人々」が国内にいることを意識せずに暮らしている。
それがリアルの空間で顔を合わせることになったのが、2014年の「マイダン革命」だった。当時のヤヌコビッチ政権に抵抗する人々が全国から首都キエフ中心部の「独立広場」(マイダンとは広場のこと)に結集して、そこを占拠して同居することになった。
ウクライナ人自身がそのときの驚きを下のように語っている。
前回、そうした支配民族の違いによって、文化的にポーランドにより近いキエフ以西「ウクライナ西部」と、ロシアにより近いドンバス(ドネツク、ルハンスクなど)「ウクライナ東部」では「違う国」にも匹敵する文化差があることを書いた。「ウクライナ国内の東西格差」である。
下図は2022年7月20日現在のロシア軍支配地域だ。その東部が、いまウクライナ戦争でロシア軍の主な占領地帯になっている。ここはかつて帝政ロシアが「ノヴォロシア」(新ロシア)と呼んだ地域である。ここはウクライナの歴史上ほぼずっとロシア帝国〜ソ連の領土だった。ロシアとの親和性が高い
のにも理由がある。
さて、ウクライナの現在の国境線を見ながら、その支配民族の移り変わりを概観できる図表を ネットで探してみた。2015年3月9日付のアメリカ「ワシントン・ポスト」紙にちょうどよいチャートを見つけたので以下に引用する。緑線で囲まれた部分が現在のウクライナである。
(A)8〜13世紀:モンゴル襲来まで
・キエフ・ルーシはロシア民族のご先祖さま
ウクライナの起源は西暦750年ごろにまで遡る。日本ではまだ平城京(奈良)に都がある「奈良時代」。東大寺にある「奈良の大仏」が建立されたころだ。
現在「ロシア」と呼ばれる民族の起源は、実は現在のウクライナの首都キエフ周辺である。そのロシア人の祖先を「ルーシ」という。
この「ルーシ」(Rus)という言葉が後年「ロシア」(Russia)の語源になった。日本の世界史の授業で「キエフ公国」という名前で登場する国は、英語ではKievan Rus(=日本語では『キエフ・ルーシ』)という。
つまりキエフ・ルーシは全ロシア民族のご先祖さまということになる。キエフはロシア民族にとっての「古都」だ。日本でいえば奈良か京都のような存在になるのかもしれない。
ルーシのご先祖さまは、スカンジナビア半島からバルト海を渡ってやってきた民族である。日本でいう「バイキング」だ。地元の東スラブ人は「ヴァリヤーグ人」と呼んだ。バルト海から川沿いに船で南下し、黒海に抜ける通商路を開いて、モンゴル、イスラム帝国やビザンツ帝国との通商を営んでいた。商品は毛皮である。
・キリスト教に改宗してロシアはヨーロッパになった
なぜキエフ・ルーシがロシア民族にとって「始祖」なのかというと、初めてキリスト教を国教にしたからだ。それまでのルーシ民族は土着のアミニズム的な多神教を信仰していた。キリスト教を国教にしたことで、ルーシ民族はキリスト教文化圏=「ヨーロッパ」に属することになった。これが、現在に至るまで続く「ロシア民族=東方正教( the Orthodox Church) 文化圏」の始まりだ。
改宗するにあたって、ヴォロディーミル王(聖公)は、コンスタンティノープルの東ローマ帝国から皇帝の妹を妻に迎えた。西暦988年。日本では清少納言が「枕草子」を書いたころ。藤原道長の摂政が始まる直前だ。
ヴォロディーミル王は改宗前、イスラム教やユダヤ教にも家来を派遣してどれを国教にするか検討した。イスラムは「酒は禁止」と聞いて「わが民族は酒が好きだから」と断念。ユダヤ教は「神に愛されているというのに、彼らにはどうして国がないのか」と選択しなかった。そんな逸話が残っている。
このときヴォロディーミルがイスラム教やユダヤ教を国教にしていたら、今ごろロシアはアジアに属する国になっていたかもしれない。
・東方正教会を信じる民族はロシアの「身内」
現在でも、ロシア民族がアイデンティの重要な部分として挙げるのは「正教会のキリスト教徒である」という「宗教」だ(厳密には『ロシア正教』『ウクライナ正教』など地域ごとにまた細分化している)。
プロテスタントでもカトリックでもなく、東方正教会のキリスト教文化圏に属することがロシア民族には「身内」かどうかを判別する基準になっている。
例えば、ポーランド人は同じ人種的には同じスラブ民族だが、カソリックなのでロシア民族は同民族とはみなさない。
冷戦終了後、ロシアがNATOに不信感を持った出来事の一つは、旧ユーゴスラビアの解体の過程で、同じ東方正教会の民族であるセルビア人のユーゴスラビアをNATO軍が空爆したことだった(1999年3月・コソボ独立紛争)。
2008年に起きたジョージア(グルジア)戦争でも、ロシア正教徒である「オセット人」の住む「南オセチア」を親ロシア地域として独立させている。オセット人は人種的にはイラン人に近い。しかしロシア人にとってはロシア正教を信仰するから「身内」なのである。
プーチン大統領が2021年に発表した「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」という論文が「ロシアとウクライナは元々ひとつの民族だ」と主張する根拠にも、こうした正教を共通の信仰とする歴史が挙げられている。今振り返ると、この論文は2022年のウクライナへの軍事侵攻を正当化するロシアの「前口上」だったわけだ。
・キエフ・ルーシはヨーロッパ有数の大国だった
さてモンゴル帝国侵入前のキエフ・ルーシに話を戻す。同国はヨーロッパでも最大の領土を持つ大国に発展した。
キエフルーシの総人口は700〜800万人。同時期の神聖ローマ帝国800万人、フランス1500万人に次ぐ規模である。
西欧では人口の大半が農村部にあったのに対して、キエフ・ルーシは都市型で、総人口の13〜15%が都市住民だった。13世紀はじめごろのキエフは人口3〜5万人、ヨーロッパ最大の都市だった。ロンドンがこの規模に追いつくには約100年後である。
王家はノルウエー、スエーデン、ハンガリー、フランス、ポーランド、ビザンツ帝国と積極的に姻戚関係を結んで影響力を行使した。当時のキエフ・ルーシは「ヨーロッパの義父」と呼ばれた。
・モンゴル侵入でキエフからモスクワに中心が移動
1223〜1240年にかけてモンゴル帝国が侵入してきたころには、キエフ・ルーシは分裂して衰退の過程にあった。1240年、キエフが陥落した。
(注)日本へのモンゴル襲来「元寇」は1274年、1281年の2回。
ルーシ民族の中心は、モスクワに移った。正教の府主教座もモスクワに移った。ステップ草原が広がるウクライナとちがって、モスクワは北の森林地帯にある。平原部に比べるとモンゴル人の関心は薄い。
モンゴル人は、抵抗しなければ地元民族の宗教や社会制度をそのまま認めた。モスクワはモンゴル統治下で徴税を請け負い、経済力を付けた。
(B)モンゴル支配終焉後
この「モスクワ公国」がキプチャクハン国から独立を達成、約250年間に及ぶモンゴル人支配(タタールのくびき)を脱したのが1480年である。キプチャクハン国は22年後に滅亡する。
一方、ウクライナのステップ平原は、モンゴルの統治が衰退した14世紀後半には、誰も統治する者のいない「パワー・バキューム」になった。そのある種「自由な空間」に移り住んで遊牧民族的な生活を送った人々を「コサック」と呼ぶ。
①ロシア南部のステップ平原にいたモンゴル・トルコ系のようなアジア系の遊牧民族を「タタール」
②白人系の遊牧民を「コサック」
そう地元民族が呼んだと考えるとわかりやすい。
ちなみに現在のウクライナ国家は、コサックを「ウクライナ民族のルーツ」と考えている。異民族が侵入を繰り返す「ウクライナ」という空間にいた「地元民族」という位置づけになる。
なお余談だが、日本の毎日の料理としてもおなじみの「タルタルソース」の「タルタル」は「タタール」のことだ。
モンゴル兵の馬肉を細かく刻んで香味野菜と混ぜて食べる調理法がヨーロッパに伝わり「タルタルステーキ」になった(ただし欧州では馬肉でなく牛肉)。日本人には「ユッケ」と説明したほうが早いだろう。
「生の挽肉を食べる」のが珍しかったので、当時「蛮族」を意味する「タタール」の名前を冠して「蛮族風ステーキ」になった。
タルタルステーキの生肉が食べられないヨーロッパ人は焼いて食べた。これがハンバーグステーキの起源である。
ウクライナを支配した国その1 リトアニア大公国
1236年:日本は鎌倉時代中期
現在のリトアニアの祖先。国内多数派は東スラブ民族(ルーシ)。公用語は教会スラブ語。国教はカトリックだが、正教の信仰も認めていた。
下図(1387年ごろ)の通り、現在のウクライナの大半がリトアニア大公国の支配下である。モンゴル帝国が侵入して領土を奪ったが、モンゴル支配が衰えた14世紀後半にはウクライナの大半を支配した。リトアニアは東の隣接国モスクワ・ルーシと戦争が絶えない。
やがてリトアニアはポーランドに同化していった。同国は現在も「バルト三国」の一つとして生き残っている。
ウクライナを支配した国2 クリミア汗国
1441年ごろ →日本は室町時代。
モンゴル帝国の末裔。民族的にはチュルク(トルコ)系。イスラム教徒が多数派。クリミア汗国の末裔は現在もクリミア半島に少数派民族「クリミア・タタール」として居住している。
1475年、オスマン・トルコがクリミア半島南部を支配下に収めた(下図赤部分)。クリミア汗国はオスマン・トルコに臣従した。
下図は1600年ごろ。オスマン・トルコ帝国の保護下、クリミア半島(南岸はオスマン・トルコ領)や黒海北岸やアゾフ海沿岸など、黒海からイスタンブール、地中海への海上貿易の出入り口を支配していた。
下図 "Bakhchisaray"(バフチサライ)はクリミア汗国の首都だ。ロシア文化に詳しい人ならプーシキンの詩やアサフィエフ作曲のバレエ作品「バフチサライの泉」をご存知かもしれない。
上図で、現在のウクライナは、南部はクリミア汗国、西部はポーランド・リトアニア共和国、東部はモスクワ大公国に分割されて支配されていたことがわかる。周辺三大強国がウクライナで入り乱れている状態だ。
ウクライナを支配した国3 ポーランド・リトアニア共和国
1569年 →日本は戦国時代
リトアニアが衰退してポーランドが強国化。ポーランドがリトアニアを吸収合併して1569年に同君同盟「ポーランド・リトアニア共和国」が誕生。実質的には
下図は1526年、合併前のリトアニア(黄色)とポーランド(ベージュ)の領土。合併によって、キエフを中心とする西部から南東部、現在のウクライナの大半がポーランド・リトアニア共和国の支配下に入ったことがわかる。現在のウクライナ西部がポーランドとの文化的な連続性を持つのはこの時代からの名残だ。
ウクライナを支配した国4 帝政ロシア
・1721年:(日本は江戸時代)
ここまでですでに、空間としてのウクライナが周辺強国の領土争奪戦でもみくちゃにされていることがわかる。
現代に情勢が近づくのは、モスクワ・ルーシが強大化して「帝政ロシア」になってからだ。
ワシントン・ポスト紙のチャートに戻ろう。下図・緑線が現在のウクライナ国境線である。
右側・赤い部分がロシア帝国である。ポーランド・リトアニア共和国やオスマン・トルコ、クリミア汗国の領土を蚕食しながら、1667年→1772年・1795年→1768・1792年と次第に領土を西・南へ広げていったことがわかる。最後はポーランドそのもの(首都ワルシャワ)を呑み込んで分割してしまう。
ロシアは「民族のルーツ」であるキエフを400年ぶりに奪回した。反対にポーランドは穀倉地帯ウクライナの大半を奪われ国力が衰退。ロシアへの敗北を「大洪水」という名前で呼んでいる。ロシアがポーランドに勝ち、東ヨーロッパの覇権国はポーランドからロシアに移った。
ウクライナはどうなったのか。上図の青い部分を見てほしい。現在のウクライナ西部の都市リビウはポーランド領からオーストリア帝国の領土に入ったことがわかる。それ以外は赤=ロシア領である。つまりリビウ周辺地方は、ポーランドだけでなくオーストリアの文化圏でもある。ウクライナ西部から西欧との連続性が高いのはこうして歴史的条件がある。
・1792年:クリミア半島をロシアが制圧。
ロシアは黒海への出口を求めて南への侵略を繰り返した。これを「南下政策」という。オスマントルコと衝突。16〜19世紀に11回の戦争を繰り返した=「ロシア・トルコ戦争」という。
ロシア帝国がクリミア汗国を併合したのに続いて、1792年にオスマン・トルコはクリミア半島から撤退。同半島をロシアが制圧した。
13世紀のモンゴル侵略以来、500年目にしてロシア民族はトルコ・モンゴル(タタール)=アジア系民族の領土を追い出すことに成功した。
こうした歴史が、ロシアがクリミア半島に固執する背景にある。2014年のウクライナ危機(第一次ウクライナ戦争)、2022年の第二次ウクライナ戦争でも、ロシアは真っ先にクリミア半島の領有を主張してウクライナと争っている。まとめておく。
①ロシアにとってクリミア半島は、世界に3ヶ所しかない外洋への出口である。戦略的な重要性が高い。ここにロシア海軍黒海艦隊の基地・セバストポリがある。
②ロシアの視点で見れば、オスマン・トルコと200年に11回もの死闘を繰り広げ、やっとの思いで手に入れた海への出口がクリミア半島。
・1795年:ロシア、プロイセン、オーストリアの周辺強国に分割されポーランド国家そのものが消滅(『第一次ポーランド分割』)。
つまりこの時点でウクライナは、リビウなど西端部がオーストリア帝国領として残ったのをのぞいて、ほとんどがロシア帝国の領土になったことがわかる。
こうして19世紀(1800年代)に入ると、現在のウクライナは大半がロシア帝国領、西端だけがオーストリア領でおよそ100年間はまがりなりにも安定していた。
それが一気に流動化するのは20世紀に入ってから。
1914年:第一次世界大戦
1917年:ロシア革命
という大地殻変動が立て続けに起きたからである。周辺大国が崩壊したことをチャンスとして、ウクライナも独立国を樹立しようとする。このへんは次回に詳しく述べることにしよう。
・地政学的にはウクライナは半島国家
最後に、地政学の観点からウクライナについてひとつ追加点を述べておく。
ここまで私はウクライナを「大陸国家」として書いてきた。
一点留保をつけたい。ウクライナの南端は黒海という海に面していることだ。その突端にクリミア半島がある。黒海はボスフォラス・ダーダネルス海峡を経由して地中海に接続している。地中海を西に行けば大西洋に出る。つまり、ウクライナは「大陸から海への出口」でもある。
こうした「大陸と外洋の接点」を半島と呼ぶ。半島は、陸の大国(ランドパワー)が海洋への出口を求める通路として、世界のあちこちで陸側からの侵略を受けてきた。朝鮮半島やインドシナ半島、バルカン半島などがその例だ。
世界の半島部は、海洋に出ようとするランドパワーと、それを大陸に封じ込めようとするシーパワー(海洋国家)が衝突を繰り返す場所になった。ベトナム戦争、朝鮮戦争など、半島国の歴史は、紛争と戦争の歴史である。(詳しくは拙著『世界標準の戦争と平和』参照)。
ロシア、ポーランド、オーストリア帝国など大陸国家(ランドパワー)の視点からすれば、ウクライナは外洋に出るためには必ず通過しなくてはならない「海への通路」という位置づけになる。つまりウクライナは大陸国でありながら、他国から見ると「半島国」でもある。
ウクライナ戦争は、ランドパワーが海への通路を確保しようとして半島部に侵略を繰り返す「半島の地政学的悲劇」の新たな例になったといえるだろう。
(2022年7月28日、東京にて記す)
<注1>今回も2冊の文献に依拠していることを特記する。より詳しく知りたい人はぜひ読んでほしい。
<注2>今回も戦争という緊急事態であることと、公共性が高い内容なので、無料で公開することにした。しかし、私はフリー記者であり、サラリーマンではない。記事をお金に変えて生活費と取材経費を賄っている。記事を無料で公開することはそうした「収入」をリスクにさらしての冒険である。もし読了後お金を払う価値があると思われたら、noteのサポート機能または
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<注3>今回もこれまでと同様に「だからといって、ロシアのウクライナへの軍事侵攻を正当化する理由にはまったくならないが」という前提で書いた。こんなことは特記するのもバカバカしいほど当たり前のことなのだが、現実にそういうバカな誤解がTwitter上に出てきたので、封じるために断っておく