フクシマからの報告 2021年冬 渋谷区より広い核のゴミ捨て場が 4500人のふるさとをのみこんだ 撤去されるのは2045年 帰還人口2.5%の大熊町を歩く
福島第一原発事故の被災地に行けば、延々と続く黒いフレコンバッグの山を目にしないことはない(下の写真は2014年5月14日、福島県大熊町で)。
中身は除染ではぎとられた汚染土や、解体された家屋の廃材である。福島第一原発の原子炉から噴き出し、一帯を汚染した放射性物質が含まれている。
政府は、住民を強制避難させている間、ばらまかれた放射性物質を除染し、それが済むと「帰ってよろしい」と避難を解除した。
除染で出た汚染物を詰め込んだフレコンバッグは、しばらく現地に積み上がられていた。やがて運び出され、次第に数が減っている。
あの莫大な数のフレコンバッグは一体どこに行ったのだろう。
その答えが「中間貯蔵施設」である。場所は、福島県双葉町・大熊町にまたがる海岸部にある。海岸と国道6号のあいだ、幅約3㌔の帯状の敷地が、福島第一原発を取り巻くように広がっている。
ここに、福島県内43市町村から出た除染廃棄物が集まってくる。最初のフレコンバッグが運び込まれたのは2015年3月13日である。
その広さは約16平方キロメートル。といってもなかなか実感がわかないのだが、実は東京都渋谷区(約15平方キロメートル)より大きい。渋谷も原宿も竹下通りも表参道も、恵比寿も笹塚も新宿駅南口ものみこまれてしまう。ばかでかい面積なのである(下はGoogle Mapより)。
なぜ「中間」貯蔵施設という名前なのかというと、ここはあくまで「仮置場」だからだ。使用期限は2045年。その後は汚染土は「最終処分場」に移さなくてはならない。
「最終処分場」に移すと、その名のとおり、放射性廃棄物は永久にそこに置いたままになる。しかし、日本国内ではこの「最終処分場」は候補地すら決まっていない。
なぜこんな扱いをするのかというと、福島第一原発からばらまかれた放射性物質が付着した物体は、すべて「放射性廃棄物」だからである。
放射性廃棄物は、一般ごみや産業廃棄物と同じには扱えない。放射能という毒性を化学的に無毒化する方法はない。放射線がおさまり、毒性が消えるまでの間は、燃やして埋めたり、海に捨てることができない。ひたすら人間から隔離して毒性が消えるまで貯蔵しておくしかないのである。特に福島第一原発事故後は、その放射性汚染物の取り扱いのための法律が新しく作られた(放射性物質汚染対処特措法)。
その中間貯蔵施設の中を取材することができた。2021年1月15日のことである。月2回開かれている見学会に申し込んだら、許可が出たのである。今回はこの報告をする。
中に入って私が驚愕したのは、かつて人々が暮らした団地や学校、幼稚園など町並みがそっくりそのまま残っていたことだった。津波が破壊して何も残っていない海岸部に施設が作られたとばかり思っていた私は言葉を失った。
政府や東電が「中間貯蔵施設」と呼ぶ名前には、有害なイメージが消去されれいる。しかし、実態を直視すれば、それは「放射性物質で汚染された土壌の埋立地」にすぎない。あえて語調を強めれば「核ゴミ捨て場」である。
つまり、人々が暮らした町がそのまま「核ゴミ捨場」にされてしまったのである。双葉・大熊両役場に、かつてどれくらいの人々が住んでいたのか取材した(意外なことに、両役場とも正確な数を把握していなかった)。
「施設に含まれる集落の2011年3月11日時点での合計人口」という定義で調べてもらった。結果、大熊町3910人。双葉町632人。およその数で4500人。そのふるさとが、核ゴミ捨て場になってしまったことになる。これはひとつの「町」が消えてしまったに等しい。
貯蔵施設だけではない。外に出て大熊町を回ってみると、町役場が2019年にできた数平方キロの地区を除いて、町内のほとんどの場所が汚染のために立ち入り禁止のまま無人で眠っている(下は大熊町のJR大野駅前商店街。2020年10月6日撮影)。
震災発生当時1万1505人いた大熊町の人口は、避難解除後2年が経っても283人(約2.5%)しか戻らない。つまり町民の約97.5%がいなくなってしまった。
ここでも私は、福島第一原発事故がもたらした巨大な破壊を目撃することになった。それは10年という歳月を経て、ゆっくりと姿を現したのである。
(冒頭の写真は、中間貯蔵施設の中にある熊町小学校、幼稚園、児童館、団地など。中間貯蔵工事情報センターで展示されている空撮写真より)。
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