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他人の山の中のオブジェクト

作成日:2018/5/2

六甲山で展示したいと思い、プランニングした時のテキスト

錆びた看板ー洞窟のような岩ー石のタワーの上に地蔵ーー脳みそのついたパイプーーー雪に埋め込まれた形


 私は秋田県出身だ。好きな山は鳥海山。よく晴れた日は高校に向かう登校中鳥海山が美しく顔を出したものだった。それと同時に私は晴れた日は大嫌いだった。秋田県はやたら曇りの日が多い。曇りに慣れている私の体に、太陽光はとても残酷に感じたのだ。そんな残虐な日差しの中、薄青色に光るあの山に私は憧れを抱いた。「あの山の中でならのたれ死んでも幸せだ」そんな甘いことを考えながら高校時代を過ごしていた。つい去年、私は唐突に鳥海山に登ることを決めた。自分で作ったおにぎり2個と、500mlのポカリスエットを抱えて。地図も無いまま、無計画に自分の体力の限界を押し切って登ったのだ。今思うとなんて暴力的なことをしてしまったのだろうと後悔もしている。おにぎりはもっと持っておくべきだったし、飲料水も2Lは必要だった。

 地図をよく見て行動すべきだった。私は山の中の廃れた看板や、登山口の前に張り出されていた説明書きを元に登山したのだ。そういえばその日は雲ひとつない快晴で、登山日和だった。結局、遠回りをしたりなんだりしてしまい、時刻は15時。「これ以上登ると帰り道が暗闇の中だ。」と判断し、頂上に着く手前で諦めて下山した。後日この話を山好きの彼に話すと叱られた。「そういう人が行方不明になるのです。もしものことがあった場合、世の中に大迷惑ですよ。」と。生きて帰ってこれたこともあってか、私は「あの山の中で見た自然の造形、人為的造形が欲しい」という欲望が湧き出した。私はあの大きなオブジェたちを持って帰る暴力性は持ち合わせていない。自分の手でそれを作るだけでいいのだ。それで「手にした」と感じる中枢を持っている。

 六甲山と何の関係があるのか、と言われると失礼ながら無いかもしれない。ただ、山の中には人為性が積み重なって、時間とともに「私は自然」と言ってるかのように振る舞い始めるオブジェの存在と六甲山の開発史と重ね合わせると「なるほどな」と思えて来ないだろうか。(いかにも怪しいつなげ方だ・・)

 私たちは山の中に、「登ること」以外の楽しみを求めているのだ。石を積み重ねる、丸太の上でおにぎりを食べる、穴があったらそこの中に何か入れてみる。それが自分がその場に来たという実在的な記録になるからであろう。そう思うと六甲山はオアシスだ。ホテルも、植物園も、オルゴール館などいろいろな施設が山の上に存在する。登る他たくさんの体験が待ち構えている。

 私はその山にいた記録として、過去の登山者の記録の積み重ね、過去起こった自然現象によりで生み出された形を、たまたま立体造形をする人間であるが故に作るに過ぎないのだ。そこに鑑賞者が何を感じるかはわからないが、この造形物と出会って「六甲山に来たんだ」という記録や記憶作りの1つとして作用してくれることが私の中の幸せである。

付け足して言うと、私がもし兵庫県出身であるならば六甲山を愛しただろう。

錆びた看板(比叡山/滋賀県)
洞窟のような岩(岩木山/青森)
石のタワーの上に地蔵(比叡山/滋賀)
脳みそのついたパイプ(鳥海山/秋田)
雪に埋め込まれた形(金足/秋田)

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