国語教員の心持
変な話で、なんで社会人になってまでいわゆる学校教育の科目とか受験勉強に関わってんの?って考えることがあります。基本的に受験勉強は辛いものだし、国語の授業が面白いと言ってもそれは「やらなきゃいけないことの中ではまあ好きだなあ」ってくらいの人がほとんどだと思います。
得意教科は何ですか?は好きなことは何ですか?ではない。学ぶ必然性は日本の場合は特に受験があるからなんですね。点数化されて評価されるものを好きになれるかというと結構難しいですよね。ましてそれは学ぶ必然性が受験。どこか矛盾している気がします。
しかし、そんな中での国語教員になるという選択をしたのが私であり、国語教員です。「変な奴だなあ」「なんでわざわざ」と考える人もいるかもしれません。誰もが通る学校教育を仕事にするってのは少数。国語を仕事にするってのは、すなわち一生学び続けることが仕事になる(ただし、学び続けなくても何とかなってしまう)。何故か。
今までは、国語が好きだからという理由に終始しておりました。でも何が好きなのかというと具体的に考えることをしてはいなかった。今回、夏期講習で実用文を扱って初めてちゃんと言語化出来た気がします。僕が国語を好きな理由は、誰かの思考(情念・私怨・思い・主観)を知るのが好きだから。実用文の数字は僕の性には合わなかった。
今ある事実=数字・現実を知ってから感じる「誰かの思い」を知るのが好きだったんだなあ。どんなに難しい文章にも書いた人の思いが詰まっている。それを「日本語」という枠組みで理解することに喜びを感じる人間。それが国語教員。つまり僕です。