土神と狐 #宮沢賢治noteその2

 この童話の結末は、童話としては片づけられない何かがあるように思います。哀しくて、空しい。空虚という言葉が似合う。空しくて、虚しい。誰かを傷つけること。感情のコントロール。立ち振る舞い。

 登場人物は3人。美しい樺の木。素朴で朴訥な土神。世渡り上手な狐。土神も狐も、樺の木も、誰も悪くない。ただそれぞれに、不器用なだけ。嘘をつくことは良くない。でも、狐の気持ちは分かる。好きな人に良く見られたいのはみんな同じです。だから、つかなくてもよい嘘をついてしまいます。そして自己嫌悪の繰り返し。嘘は、一瞬の極彩色。吐しゃ物に似た輝きを秘めています。狐にとっては、その一瞬に得られる樺の木からの羨望こそが求めていることなんです。

 狐は口も上手く、世渡りが上手い。土神は不器用だけど、素朴。そして動物と神という立場。樺の木は純粋なだけ。この三者三様の姿は、私たちの日常生活にそのまま通じています。決してステレオタイプではなく、このような人たちは現実に存在するのです。この三角関係はだんだんと良くない方に流れていきます。お互いに面と向かって話し合うことのないまま、徐々に崩れていく関係。いない所で誰かの話をするときは、注意しなければなりません。意図せずに、誰かの反感を買ってしまうことは誰にでもあることなので。なんとか保たれていた均衡は崩れ、ついに緊張の糸は切れてしまいます。

 癇癪・憎悪が破裂したとき、誰にとっても悪い事態が起こります。土神が感情、怒りに任せて起こした行動は、狐を殺してしまいます。その後、狐の住居に入り、狐も自分と同じように孤独だったことを初めて知るのです。そして、途方もない声で泣き出します。笑い顔のまま、死んでいった狐。何もわからず、殺してしまった土神。原因となったことを知らずにいる樺の木。みんな哀しいよ。死んでいって、嘘を弁解することも出来ない狐。後悔しても戻らない土神。後から知るであろう樺の木。救われない。本当に救われない。

 立場も性格も違う僕らの生活は、時に齟齬を生み、争いを呼びます。人間の思考力から言えば仕方がないことかもしれない。でも、その齟齬や争いの中でこそ、考えなければいけないものがある。感情のコントロールが出来なくなってしまうと、全く健康的ではない。

童話から気付かされた世の摂理。誰も後悔しない世界なんて存在しないのかもしれません。が、僕らの生きている世界は常にその危険と隣り合わせ。和解とまではいかないかもしれないけど、何とか調整して生きていく毎日。

いいなと思ったら応援しよう!