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ワンダーランドと第3新東京市は、村上春樹と村上龍に似ている気がする。

前回、「頭の中を表現してみるとどうなるか」でアリスやエヴァについて触れたのでもう少し考察してみました。

勝手に「ごちゃごちゃした作品」と呼んでいましたが、これらの作品にはアプローチの異なる2つのタイプがあるんじゃないかなと思っています。

ひとつは,、アリスみたいに相手に話が通じない類の支離滅裂なもの。ひさびさに「ふしぎの国のアリス」を見直してみたんだけど、やっぱり怖さを覚えます。ただの怖さではなくて、意味不明なことがまかり通っても通らなくてもとりあえず進んでいく怖さ。常識も会話も通じないワンダーランドの登場人物たち。

彼らは同志であっても話が進んでいかない。それらが同居するとこうなってしまうのか。周りの事なんて考えず(気にせず)、自分が思うがままに夢想し、相手にそれを押し付けたり押し付けなかったりする。一方アリスはただただそれを目の当たりにし、でもそこまで気にしている様子もない。結局、不思議の国では全員が不思議な存在であって、迷い込んだアリス自身も不思議の国の中では不思議な存在である住民の1人となってしまう。3月ウサギ、マッドハッター、眠りネズミ、ドードー、チェシャ猫と同じような自分だけの世界を持ったアリスとして迎えられています。

夢落ちのラストはご都合主義とかではなく、アリスの世界を取り戻すための手段。夢か現実か分からないもの。アリスは僕たちのことを考えているわけではなく、アリス自身の世界が大切なのです。そして、本人は黙って僕らに世界を提示する。それを見て、気持ち悪くなったりする。ある意味客観的です。

もうひとつは、エヴァのように訳が分からないように見られるもの(意志)が込められている作品。エヴァで庵野さんが描く世界は、庵野さんのやりたいようにやっていくっていう気持ちが感じられる。これがわかるか?いやわからないよな。わからなくても別に構わないよっていう意志表示。

シンジは世界を救おうとしますが、その世界に救いがあるかはわからない。僕たちが住んでいるのに近い世界観で、みんな人間的で、それぞれの思惑があって、時に人間性が暴走して、理性が消えてなくなる。残酷だし、なんでそうしなければならないのか、と見ているこちらに痛みと困惑を与える。それは、自分の立場から見たエヴァそのものの世界への批評です。

次々と起こる変化、日常世界が終わっていく展開に引きずり込まれている登場人物と共にあるのがエヴァだと思います。アリスに惹かれるのは不可解さがかわいいから、エヴァのキャラクターの魅力は人間性に惹かれるからであって、それは主観的で、僕らの内面を浸していく。

受け入れるかどうかが読者に委ねられていて、それが共感によって決まるのはどれも同じ。でも、自分とは違う在り方に対してかどう思うか、自分がそのものに対して自分の感情を持って向かうでは、異なる意味を持っている。

この2つの作品と同じような特徴を持っているのが、村上春樹と村上龍の対比かなと思います。日本を代表する、どちらも好きな作家さんなのですが、描き方のアプローチは異なります。

平素な文体で、でもよく分からない展開に比喩を込める春樹さん。現実と夢の境目で起こる物語は最後まで本当かどうかわかりません。羊男、双子、別世界の少女、品川猿。言葉にも展開にも何か意味があるんじゃないかと思うけれども、それを判断することもほとんどかなわない。ただ、村上春樹さんの世界を私たちが眺めて判断する。

綿密な描写と情報量で、視覚イメージをも伝えてくる龍さん。現実世界で起こる人々の内面と行動をごちゃまぜにしても描きたいんだという欲。キク、ハシ、リュウ、オキナワ、小田桐、イシハラ、ノブエ、。一人の人間の荒々しい生を言葉で表現しようとする。その世界に私たちは半ば無理やり惹き入れられる。

人によってさまざまな表現があるけど、頭の中が見えるような作品には力があるんだなと思います。

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