鬱の牛「憂し」

ボクの性格は、人間嫌いと孤独嫌い両方の性質を併せ持つ♧ 日頃、人間強度が下がるからなんて嘯きつつ馴れ合いを冷笑しては、その実他人から孤独だと思われることを嫌い、そして一人をみじめだと感じてしまう意志薄弱の、厭世家にして怯弱家にして冷笑家のどうしようもない人間、それが俺。
今俺を悩ませているものはほかの人から見たらどうでもいい。本当にどうでもいい。だから俺は決して原因を言わない。「こいつ成人してるクセに女子中学生みたいなことで悩んでるよww」と思われたくないからだ。まったく自分でもびっくりである。成人年齢引き下げ決定のニュースを見たとき(確かそのときは中学生とかだった気がする)想像した成人の俺の姿はもっと精神的に成熟していたはずだったのだが。それでも俺は単純人間なので、こうしてどうでもいい、どうでもいいと書いていたらさっきまであれほど悩んでいたことがどうでもよく感じてきた。(というか実際ホントにどうでもよくて、おかしいのはそんなことで悩んでいたさっきの俺なのだ。)憂鬱に聞く魔法の言葉”どうでもいい”。しかしこのどうでもいいが曲者なのだ。突き詰めればこの世のことすべてに本質的意味はない。どうでもいいこととそうでないことを区別するのは当人が培ってきた価値観なのだ。自分にとって嫌なことはどうでもいいとし、逆にうれしいことはどうでもよくないとする。この自己矛盾にどれだけ目をつぶれるのかが健全に生きるコツだろう。尤も普段はそれができている。うれしいことはうれしいと感じるしもっと経験したいと思う。逆に嫌なことは経験したくないと感じる。人間の体はそんな風にできているのだ、良いことを重視し悪いことをどうでもいいと判断するのは当然だろう。しかし生来の人間関係に対する不安と恐怖が募った結果、本来どうでもいいはずだったことが頭の中で占める割合が多くなり心の天秤も傾いてしまうのだ。こういう不安を口にすると、大丈夫だよ!この世の不安ごとの9割は起きないっていうじゃん!!とか言ってくる浅い輩もいるが、本当にわかっていない。何がわかっていないのかというと、俺もそんなことはとっくにわかっているということを、だ。不安ごとは起こることよりも起きないことのほうが圧倒的に少ないということはわかっている。しかし、わかってはいても俺は不安な気持ちを支配することはできない。俺が今できることと言ったらせいぜいそう、この気持ちを文章に書きとどめておくことだけなのだ。将来こんなこともあったねと笑ってやるために。

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