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はじめてのnote/我が文と冗長さ


noteはじめました

 2024/9/08、俺はXの名前をTakから共テ申し込みに変更しつつも、怠惰故共通テスト申し込みを書く気が起きず、このままじゃ最速で一浪を確定させてしまうかもな…浪人したら名前は死屍累生死浪かTak浪だな(宅浪だけにね)なんて緊張感をかかえながらだらだらと物語シリーズを読んでいた。
いや、ここは俺にも受験生としてのプライドがある。やはり、東大2次試験の小説対策をしていた、とでも書かせてもらおう。
 テレビで大谷翔平の活躍をみたガキが野球選手になりたいと思うように、あるいは男の娘にはまってしまったオタクが自らも女装したいと考えるように、西尾維新の小説ばかり読んでいた俺が凝った文章を書きたいと思うのも半ば必然だった。
 そうと決まれば行動は早い。ぼっ、ぼくも面白い文章を書くんだい🤓‼と意気込んでXにポエムを投稿した。友人に文章のアドバイスも求めた。そこで帰ってきた答えに俺はショックを受けた。俺の文章は面白くないらしい。
「面白くない」ってのは俺が言われて効く言葉ランキング2位だ。
(1位:女子から言われる「Tak君っておとなしいねw」、3位:ブス)
 ということで俺は顔真っ赤にしながら何が面白くないのか尋ねた。
曰く俺の文章は長ったらしく、そんな長いツイートは読む気が失せるとのことだ。
 なるほど一理ある。どうも俺は冗長とした文を好むきらいがある。事実、長い文章を書くためにnoteはじめました!という内容だけで600文字以上使っている。しかし俺はどうしても長い文章を書きたい。
 そこで俺はnoteの存在を思い出した。Twitterとnoteの相性はよく、俺も以前からちょくちょく明石さん(現セックスさん)や阿修羅さんのnoteを読んでいた。
 noteなら長い文章が書ける、というか長い文章が書きたい人が使うのがnoteだ。 
 そんなわけで俺もnoteを始めようと思い立ったのが、2024年9月8日、
俺が18さいになって約1週間たった日の夜である。

我が文と冗長さ

 先に述べたように、俺は冗長な文が好きだし、そんな文を書きたいとも思っている。俺が思うに、文章の魅力のその根幹をなすのは文の内容にかかわらない部分、いわばなくても関係ない冗長な部分だ。
 考えてもみてほしいのだが、単に情報を伝えるだけなら誰が書いてもその内容に大差はなくなってしまう。
 それなら何が面白い文章の”面白さ”を担ってるのか、となればそれは内容を飾り立てる部分、俺が言うところの冗長な部分だろう。「文章の面白さは100%内容で決まるんだ!」と考えている人は残念ながら俺と価値観が合わない。興味深い数学の論文でも読んでいていただきたい。
 ”龍のひげ”というお菓子がある。飴を伸ばして伸ばして、ちぎれそうになったら折りたたんで、また伸ばして伸ばして。そうしていくうちに飴は空気を含んで固まり、軽やかな触感をもたらす。
 俺が書きたい文章もこれと同じだ。内容に対して俺のやりたい表現や追記したいことを盛り込み、文章をなるたけ引き延ばし伸ばし、文章がちぎれそうに、すなわち何を言いたいのかわからなくなりそうになったらいったんまとめ、また延ばして伸ばして… そうして紡がれた文章はきっと軽やかだ。
(ここまで書いておいてアレだが、俺は龍のひげを食べたことがない。小学4年生までゲーム機を持っていなかったものの周りの話題についていこうとした過程で、やってもないことをあたかも経験した風に語るのは割と得意になった。)

俺にとっての文を書く行為

 ポエマー的表現となり恐縮だが、俺にとって文を書くというのは、心を圧迫する気持ちを吐き出し、整理することだ。
 素晴らしいことに俺は、齢18にしてまだなお精神が安定しておらず、頭の中で考えが止まらず、自分が飲まれてしまいそうになることが多々ある。
(皮肉でもなんでもなく、俺はこんな自分を素晴らしいと思っている。とういのも俺はこのことにより、自分の中に思春期特有の不安定な精神が残っていることを確認できるからである。少なくともこの精神が残っている間、俺は思春期のままであり、心から大人になることはない。つまり、俺の青春は終わらないと錯覚させてくれる。)
 これからも当面俺は文章を書き続けるだろうし、逆に俺の文章の更新が止まったら俺が大人になってしまったと解釈してもらってかまわない。
 とにかく伝えたいのは俺は文章にこんな思いを乗せているよ、というこのなのだ。

 これから俺が大人になるまでの間、それは案外すぐかもしれないしあるいは一生来ないかもしれないが、それまで俺の文章を読んでくれたらこれほどうれしいことはない。


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