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The Melancholy of Uferseite

さて今日は起きた瞬間からメランコリーとでもいうべき気分に包まれ、俺の帰宅部精神も行くところまで行ってしまったのか、学校に行く前に帰宅するとかいうテクニック(通称登校キャンセル)を駆使して帰宅RTA界隈に新記録を樹立してしまった。まあ普段から「俺は帰宅するために学校に行っている。平日最も楽しいのは帰宅する時だ。俺は八九寺真宵なんだ。人生も一緒だ。人生のゴールは死だ。帰宅するための登校、死ぬための人生。これは何も違わない。」なんて嘯いてるからこうなるのも必然だった。俺の親は俺がキャンセルするといったとき、おそらく何か言いたいことはあるだろうがとりあえずは許してくれている。そして決まってこう言うんだ。「昨晩勉強しすぎて疲れたんだろう」と。違う、違うんだ。勉強なんて全然していないし、なんなら勉強はいくらやっても精神的に疲れはしない。俺はただ自己肯定感が低く他者からの視線に常におびえありもしない被害を妄想してしまう弱弱しいバカたれなだけなんだ。俺にとって休むなんてそんなもんなんだよ。まあ彼らは高校教師だったんだ、学校を休むことへの認識が俺と違うのも無理からぬことではある。高校教師といえば弊校の教師はゴミでクズだ。彼らから唯一学んだことと言えば、なるほど教師なんてのはこれほどの人格破綻者でもなることのできる職業なんだなぁということと、仄暗い青春時代を送ったせいか学校行事の度に理不尽に生徒に当たり散らかす人間の惨めさだ。これらはどちらも隣のクラスの教師から教わった。全く彼女は俺の人生で最高の反面教師だ。まぁ反面教師は彼女に限らない。ほかにろくな学校もない東北の片田舎で長い間県一番の進学校を名乗ってきたせいだろうか、ほとんどの教師はプライドだけが異様に肥大化してしまっている。しかもその実態は学年のほとんどに東北大を受けさせ、時には探究活動とかいうAOの実績欄を薄い内容で埋めるためだけの詐欺行為を全員に強制させるなどして、毎年30人くらいを東北大にぶち込んでいるだけに過ぎない。まあここは東北、東北で名門の大学といえば東北大学なのだからその方針はある意味正しいのかもしれない。しかしその指導が問題なのだ。俺は正直自分がやりたいように勉強するタイプなのでほかの人からウダウダ勉強について語られ、しかもそれに従わないといけないなんて言う環境は耐えられない。その指導が鉄緑会のような確かな実績とノウハウに基づくものだったらまだいい。俺も甘んじて受け入れるだろう。しかしわが校にそんなたいそうな実績はない。東北大卒を再生産する仕事をしている東北大卒人間からのアドバイスは、入学当初の純真な心を持った俺なら聞いていただろうが今は聞く気になれない。先生方ご自慢の勉強法なんて、教師の言うことと黒板の内容を丸暗記して公立中スコア460くらいを維持し勉強ができる人としてアイデンティティを確立しそれにすがって生きてきたような真面目人間にだけやらせておけばいいのである。くれぐれも俺を巻き込まないでいただきたい。すべての元凶はそんなクソ高校が俺の家から片道40分以上の距離にあることだろう。もしこれが自転車で10分以内に行ける場所にうにゅっと移動してきてくれたら俺はこれまで一度も愚痴を言うことなく学校に通い続けることができた。まあもちろんその間すべて精神が健全だということはあり得ないとは思うが。ただ実際、徒歩20分くらいの距離にあった公立中に通っていたころは、過去の思い出補正を差し引いても明らかに精神の病みは少なかった。というか病んだ記憶がない。どうひいき目に見ても環境自体はいま通っている高校のほうがよかったのにもかかわらずだ。(いくらおれが弊校の愚痴を言ったとしても、さすがにその環境はカオスの代名詞であるコウリッチューよりはマシだ。まぁそれが楽しくもあったのだが。)その要因として、中学時代は毎朝7時くらいまで寝れていたというのがあるのではないかとにらんでいる。あとはそうだ、中学時代のほうが人間強度が高かった。というか、無知だった。中学時代に友達と遊びに行く頻度は明らかにほかの人と比べて低かったが、当時の俺はそんなこと気にしていなかった。高校になってからだ。余計なことを知ってしまったのは。普通の高校生というものがどれほど社交的で、また俺がどれほど普通から外れていたのか、ということを。そんな無知からの反動による怯えが最もひどかったのは高校一年の時だった。俺は中学の時からパソコンを使ってインターネットを嗜んでおり、また先に言ったように中学の時は人間強度が高かったので他者との連絡ツールが欲しいと思ったことはなかった。そんなわけで俺がスマホ、その本質は離れた他者とつながりを持つためのツール、を持つようになったのはだいぶ後のことだったので、特にインターネット上のコミュニケーションへの無知具合と怯えは相当なものだった。当時の俺は、もし周りの人が俺の知らないことを話していようものなら即座に俺を省いたグループラインでみんなが楽し気に会話している様子を想像しダメージを受けていた。そんなことは朝飯前だった。尤も、今もそんな性質も完全には抜けきっていないのだが。もとをただせば今の不幸の本質は”知ってしまったこと”ではない。他者におびえて生きるような人間性をもってしまったことだ。だいたい俺はおかしくない、社会がおかしい。どうしてこんなにも他者と仲良しこよしでいることが必要不可欠になってしまったのか。ただ、中学で病まなかったのが高校で病んだのはある意味成長なのかもしれない。この世界は他者とかかわることなしに生きることはできない。俺が大人に近づき他者とかかわることが増えたからこそ、中学で病まなかったものが今になって病むようになったのかもしれない。だとしても今の俺がこんなにも憂鬱な気分に浸らなければならない理由はないし、そんな社会に抗いたい。だからこそ最近の俺は人間強度に固執しているのだ。かつて持っていた、しかし今は失われてしまったあの強さに。
言いたいことはだいたい言ったしそろそろこの文章とも言えない何かを締めようと思う。まったくmelancholyは文に吐き出すに限る。


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