2022年2月13日 琉球ど愛 光話『平和とは』〜文字起こし全文〜
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よく小学校、中学校、高校生の方々に「平和とは?」と質問したとき、
「ひとりひとりが、あるいは国々が戦う武器を持たぬこと」と言います。
本当にそうなんだろうか?
皆さんは、人を傷つけたり、あるいは破壊する武器は今、持っている人は一人もいないんですよ。物質としては。
しかし、私は丸見え。心には武器を背負っている人間がいっぱいいるんです……憎しみ、怒り、嫉妬、あるいはうらみ。
これは武器でなくて何といいましょうか。
「私、武器を手にしていません」
嘘つきと言いますよ。
心には、もう散々武器を背負っているということを知ってほしいんです。
うらみ、怒り、嫉妬、あるいは裁き……それそのものがカタチある武器をここに具現化させていることを知ってほしいんです。
神は、どの国にも、誰にも、傷つけたり人を殺したり、その武器を与えたんではないんです。
あたかも神が戦う戦車、戦う戦闘機、戦う戦艦をつくり、与えたと錯覚しているんです。
いつも説いてます。
決してカタチとして皆さんが手にしているだけが武器ではないんです。
いちばんおそろしいものは、心に潜んでいるんです。
Dさんが、総合美研研修センターの案内をまとめているのを、私にみてほしいと言われました。
「世界平和であるためには、ひとりひとりの心の平和」と説いてます。
じゃあ、ひとりひとりの心が平和であるならば、どうあるべきなのか?
我はすべてであり、すべて我なり。
我は全体であり、全体、我なり。
全一体感なんです。
全一体であるならば、物質としてカタチの武器も、で、心の中に武器が潜んでいるはずはない。
何年も何十年も説いてきました。
で、「誰彼を殺す」と、私が銃の引き金を引いたとき、カタチある物には必ず限界があるんです。“射程距離”というものがあるんです。
まさか私が5メートルしか飛ばないその銃の引き金を引いて、5メートル以上飛ぶことはないんです。5メートルではそこに落ちるんです。
どんな武器でも必ず射程距離というのをおいているんです。
私がいちばん怖ろしいとみるのは、皆さんの心に潜んでいる武器ですよ。
たとえば、5メートルの射程距離を決められたならば、これは5メートルでは落ちますよ。5メートル以上飛ばないですよ。
で、どの厚さの壁を貫通するかで決められているならば、それ以上の、たとえばこれが5センチしか射貫けないというなら、10(センチの壁)をもってくれば射貫けないですよ。
しかし皆さんの心に潜んでいる武器は、皆さん自身が想像することができるだろうか?
時間も空間も壁も距離もないんですよ。皆さんの心に潜んでいる武器は。
その逆を考えてみてください。
愛のために皆さんがそれを、その思いを、その意識を使えるならば、そこに真実の平和が訪れるんです。
つまり、全一体という本質に目覚め生きることほかに、平和である方法はないんです。
皆さん、うらみや、怒りや、嫉妬、あるいはそのような裁き、分離感に、
時間も、空間も、壁も距離も、で、支配することができるだろうか?
その波動は一瞬にして、地球を、宇宙を駆け巡り、必ずやカタチを具現化させますよ。
だから私は「思いは実現」と言ってきたんです。思いは実現。
平和であるためには、ひとりひとりが真の我に目覚めることほかにないんです。
それを皆さんは「真我覚醒」と言っています。
真(まこと)の我に目覚める。
神としての我に目覚める。
真我覚醒。
じゃあ、真我覚醒ができたならば、自ずとその顕現が為されていくこと。
まさか真我覚醒に至って、うらみや、怒りや、嫉妬、分離感、差別、とならば、
それはニセモノですよ。真我覚醒であるならば……
すべての平和のためにこの肉体という道具を使って顕現することを真我覚醒、真我顕現というんです。
そうでないというならば、その者はニセモノであり嘘つきですよ。
腕の良い大工が、あえて粗末な建物を造るはずがない。
愛は何を建設しましょうか?
愛は完全意識。
完全意識であるならば、完全を創造し、完全を建設し、すべてを完全に生かそうとする働きがあることを、真我覚醒、真我顕現というんです。
だから、この世の中には、嘘つきの真我覚醒、ニセモノの真我覚醒がなんて多いことか、と私は観ますよ。
真我覚醒……嘘つけないですよ。
完璧に行為に顕現されることを、真我覚醒、真我顕現、というんですよ。
常に全体の幸せ、全体の喜び、全体の平和を願って生きていますよ。
その者にはもう個人という、本質から分離した個人なんてどこにもないことを知っています。
全体のために生きることであって、だから、すべての僕(しもべ)であるとともに働き手。働き手であるとともに僕(しもべ)であるということを確立してますよ。
個人ごとで生きている者に、目覚める必要はないですよ。
個人ごとに生きているというならば、覚醒する必要なんてないですよ。
はじめから偽我そのもので生きていけばいい。
あえてあえて真我に目覚めよと努力する必要もない。
もしこの現象の世界で、1分1秒、この刻まれていくこの時間に生かされているというならば、1分1秒、何を思い、何を描いているのか。
「すべての幸せ」以外にはないですよ。
「すべてが私」であることを私は知っています。
誰と分離していましょうか。
どこに嫌える者がいましょうか。
誰を憎める者がいましょうか。
どこに否定できる者がいましょうか。
全体の我ですよ。
我はすべてのなかに、すべては私のなかにですよ。
どこで誰と分離ができましょうか。
誰を嫌えましょうか。
誰を憎めましょうか。
誰を否定することができましょうか。
それは皆さん自身が全一体という境地を味わっていない結果ですよ。
本当の明想状態にあるならば、全一体を感じていますよ。全一体を味わっていますよ。
我はすべてであり、すべて我なり。
我は全体であり、全体、我なり。
じゃあ、全体が我であるならば、
誰を憎めましょうか?
誰に怒りを向けられましょうか?
誰に嫉妬を向けることができましょうか?
一(いつ)にして多身のあらわれに皆さん、目をくらまされてはならないんです。
一つなるものが、美しさ、力強さ、綺麗さ、あるいは智慧を、愛を、慈悲を顕現するためにまとった道具はさまざま。
しかしそれは、「本質にして一つ」なんですよ。
それを、「本質は一(いつ)にして多身」と表現しているんですよ。
姿、カタチ、形態は異なっていても、表現の方法は異なっていても、生まれ出てきた場所、環境は違っても、皮膚の色が黒かろうが白かろうが、本質は一つしかないんです。
あなた方がゆるせない相手、嫌っている相手、憎い相手、で、裁いている相手、
誰なんだろう?
己自身であるとともに、神なんですよ。
一元なる神が、すべてのすべて、あってあるものに宿り給う、生かし給う、なんですよ。
どこに神を宿さずにして存在がありましょうか。存在しているものがいましょうか。
すべての存在の本質は、一(いつ)なる神ですよ。
宗教の数ほど神がいるんではないんです。
キリストの神だ、仏陀の神だ、さまざまなそのような神々が存在しているんではないんです。
一(いつ)なる神が、さまざまなカタチ、姿、形態をとってあらわれていることを、「神々」といっているんですよ。
さまざまな姿に宿う神を「神々」といっているけれど、その神は、一つなる、一体なる神が、さまざまなものを生かしていること。
皆さんは錯覚をしているんです。あたかもキリスト教、仏教、何教……で、その数ほど神がいるという錯覚。
今、皆さんが目を閉じて、皆さんが空間と言っているその空間に満ち満ちている、その本質を観てみてください。
今、即、無限という本質を観じますよ。
無限という本質をその中に。
じゃあ、ここからここまではSさんの命。ここからここまではSちゃんの命。ここからここまで元子さんの命。
皆さん、分離してそこに命が、本質が存在しえようか?
だから外を見ればさまざまな分離感を感ずるがゆえに、
外を見るな、内を観よ。
外に生きるな。
外に生きることに皆さんは「あの人に何を言われた、この者が何をした、何をしなかった」で、常にそこに対立しているんですよ。だから、
外を見るな、内を観よ。
外に生きるな、内に生きよ。
皆さんの目で見ているどんな悪しき表現をしている方でさえも、その者の本質は誰とも変わらない、無限にして一元なる愛を生きているんですよ。
ただその者が自らの本質を見失っているがゆえに、自分というものを見失っているがゆえに、そのような間違った行為をしていることであって、その者の本質は皆さんと変わらない。本質そのものは一つなる命ですよ。一つなる愛ですよ。
じゃあ、平和であるためには、
心からすべての武器を排除せねばなりません。
それ、いちばん(の武器)は、「分離感」ということですよ。
皆さん、あの人はゆるせない、憎い、嫌い、愛せない。
それは何ゆえに?
分離感のあらわれですよ。
分離感がなければ、すべてをゆるすことができるんです。
イエス・キリストが全世界の兄弟姉妹にこれまで示してくれたではないでしょうか。
槍で心臓を突き刺そうとする者たちを「神よ、この者たちは、すべてが一つなる命を、一つの命を生きていることを知らないゆえに、今、間違いをおかそうとしていることをゆるしてほしい」ですよ。
一点の裁きもないですよ。
「神よ、この者たちは一つなる命を生かされていることを知らないゆえに、すべては一つの命を本質として生かされていることを見失っているがゆえに、愛として完全であることを見失っているがゆえに、今、このような間違いをおかそうとしていることをゆるしてほしい」と願ったんですよ。
今までの我々はどうなのか?
ちょっとでも不都合な状態が見えたら、あるいはその言葉を聞いたら、
すぐ裁く。すぐ非難。すぐ批判。すぐ嫉妬。
皆さん、たとえば今日、24時間が与えられてますよ。
我々が、何百、何千、何万回という転生をここまで歩んできた目的は、一瞬一瞬にして本質に近づきいくために、ここにこのように肉体衣装をまとったにもかかわらず、その本質から遠ざかっていく人間がいるんですよ。
1分の落ち込みは、本質からどれだけ遠ざかっていくか、皆さん知っていますか?
ただ1分、あるいは1秒、1回の裁きで、どれだけ自分自身を本質から遠ざけているか知っている人間はこの世にいないですよ。
ちょうどこの二日くらい、家内が私のできるかぎりの仕事を手伝ってくれて、むこう(家内)がやったがゆえに、私は二日間全くその部屋から、船員会館の部屋から一歩も出ずに徹底して明想ができたとき、それを観せつけられてますよ。
1秒の1秒の落ち込みは、これもはもう、たとえしか言えないですよ。私が完璧に捉えている状態、観ている状態は、皆さんに言葉で語れるものではないですよ。
たとえばですよ、1秒の落ち込みが本質から何百メートル遠ざけていくと思いましょうか?
あるいは一言「あの者を…」って、批判しただけで、どれほど皆さんを本質から何メートル、何百メートル、何千メートル遠ざけているか、知っている者はこの世にいないです。
だから悟れないんです。
だから本質に帰れないんです。
もし、皆さんが今日24時間、身・口・意(しんくうい)が完璧に正されているならば、どんどん近づいていくはず。どんどん輝いていくはず。
どんどん自分自身に、智慧が、力が、愛が満ち満ちていくことを体験しますよ。
(正されて)ないということは、遠ざかっていくんですよ。
一昨日、その前、二日間、その部屋にこもって徹底して明想したときに、それを全部教えられました。全部観せられました。
それそのものが何につながっていくか。
見えない状態で生まれてくる子。あるいは耳が聞こえない状態で生まれてくる子。あるいは手足が動かない状態で生まれてくる子どもたちに、一昨日、あるいはその前に観せられた明想の答えが全部そこにつながっていきますよ。
カルマとは、やり残した宿題であり、やり残した学習と私はいいます。
たとえば、この肉の目が見えるがゆえに、常に相手を悪く見る……「あの者、この者」で悪く見る。悪い思いグセ、悪習。
で、耳に聞こえるがゆえに、人の非難や批判や噂話に明け暮れて、この耳を傾けて、で、それその者のカルマを克服するどころか、また上乗せして帰っていく人間の多いこと。
じゃあ、そこにどういう子どもたちが、意志の強い子どもたちが、どう生まれてくるのか?
幾転生も幾転生も「見る」、あるいは「語る」、あるいは「聞く」で、「手足を動かして表現ができる」。それそのもので常に宿題をやり残して、やり残して、ここまで歩んできた者。
「今生こそ、それを、この五感を完璧に愛そのものとして制御してきます」と言いながら、上乗せ、上乗せして帰っていく。これを逆にすれば、近づいていくどころか、本質から遠ざかっていく人間。それは、残して、カルマそのものに上乗せ、上乗せしていくのと同じなんですよ。
そこに意志の強い子が、「ああ、この目は見えるゆえに、見るカルマを常に上乗せしていくこと。今生こそ克服してきます」って、肉体衣装をまとったにもかかわらず、一層見えるがゆえに見るカルマ。あるいは聞こえるがゆえに聞くカルマ。あるいは語れるがゆえに、人をうらみ、怒り、嫉妬でカルマをおかす…なんて厳しいことか。
見えなければそれをおかすことない。聞けなければおかすことない、で、そこに皆さんが言われる「障がい児」として生まれてくるんですよ。
あれは障がい者ではないんです。障がい児ではないんです。
そういう子どもたちは「力ある、勇気ある、意志の強い者」と私は言いたいですよ。
だから、そういう方々のオリンピックを「パラリンピック」と言っているでしょうけど、私は、去年か今年スタート(した研修センター)で、私は名前を変えたんですよ。
あれはパラリンピックではなく「愛の大会」という言葉に変えてほしいと言いました…愛の大会。
いかに愛ある子どもたちか。
いかに愛ある者たちか。
我々こそが障がい児であることを知らねばなりません。
正しく見えない、正しく聞けない、正しく語れない、正しい表現ができない。
これこそが障がい者なんですよ。
だから、世の人間、なんて全く逆さまに生きているんだろう、と私は思うんです。
勇気ある子どもたちですよ。
そういうカタチで生まれてくる子どもたちは、「今生こそ幾転生というカルマという宿題を、やり残した学習を、すべてを清算してきます」で、あのカタチをもってこの現象のこの世界に下りてみてください。まわりからは何と見られるのか。
障がい児、障がい者……そのような扱いされますよ。
それでいてもくじけない、その力をもってこの現象の世界を乗り越えようとしているんですよ。
その子どもたちを預かったお父さん、お母さんは、もっと偉大な方ですよ。
何もお父さん、お母さんが落ち込む必要なんてないですよ。
その子が勇気をもって強い意志で、それを望んで出てきている子どもたちがいっぱいいるんです。
今日皆さん、何かにつけてもし1分1秒、落ち込んだとするならば、それを早く切り替えて立ち上がることができぬというならば、皆さんは本質から何百メートル遠ざかっていっているということを、今日、心にしっかり留めてくださいよ。
どんなにもがいたって悟れるはずないですよ。本質から遠ざかっていくんだから。
簡単にたとえですよ。1分落ち込んで、皆さんは100メートル遠ざかった。また次に1分落ち込んで、また200メートル下がったなら、どうして近づくどころか今生もう諦めですよ。
よくよくここをしっかり心に留めてくださいよ。
だから、イエス・キリストはここまで説いたんですよ。
「もしこの目が悟りを妨げるならば、この目を潰せ」と言ったんですよ。
「この腕が悟りを妨げるならば、その腕を断ち切れ」と言ったんですよ。
ここまで厳しく説いたんですよ。
あまりにもこのアセンションというこの波動の厳しさに、皆さんがのんのんとしているかぎり乗り越えることができぬゆえに、ここから私は厳しく出たでしょうけど、遅いですよ。本来は。
スタートからイエス・キリストのように、もっと厳しく厳しく説いていたならば、もっと皆さんに成長があったのかな、と思うときがあるんです。
常にその一言が「愛」であるならばいいけれど、「完全意識」からの言葉であるならば、わが思い、わが言葉、わが表現、神の門を通って、というその境地であるならばいいけれど、その逆であるならば、本質から遠ざかっていくだけなんですよ。
Dさんが(研修センターの案内)にまとめて書いているように、
真理というのは自己改善、人間改造であって、で、その真理という真理を利用して相手を裁くためではないんですよ。
これ、何十年前から、何回も何十回も体験してきています。
たとえば家族の者ですよ。奥さんからすれば私の旦那さんは…、旦那さんからすれば私の奥さんは…、あるいは私の息子は…、私の娘は…、
「あなたの真理を学ばなければよかったのに。真理を学んだがゆえに、あたかもすべて自分が正しいというその錯覚で、お家で『お前は違う』『お父さんは違う』『お母さんは違う』『あるいは誰彼は違う』で、もう裁かれて裁かれて、もう混乱している」って、私はそう言われたことがあるんですよ。学ばなかったならばよかったのにって。学ばなかったならば我々の家族は平和だったのに、この学びをしたがゆえに。
あたかも真理という真理を間違った解釈で、仏壇を叩き壊して、私がその者のお母さんに呼びつけられて叱られたのと一緒ですよ。
真理は己を改善するためにあるんですよ。
己の至らないところを修正するために真理はあるんですよ。
相手を裁くために真理ではないですよ。
皆さん、まだあの実の入っていない稲穂が頭(こうべ)を垂れているのを見たことのないならば、Tさんたちも、毎年しっかりと稲をつくっています。Nさんもつくっています。
ぜひそこに出かけて見てほしい。
実の入った稲穂ほど頭を垂れていますよ。
できていない者ほど「私は偉い」と威張っていますよ。
実の入った稲穂ほど頭を垂れる。
そのように「我を悟った者ほど稲穂のように頭を垂れる」なんですよ。
「先生が先生であってはもう失敗」ですよ。
私は常に皆さんをとおして学んでいるんですよ。
皆さんひとりとりをとおして常に私は学び、成長しているんですよ。
先生が先生であっては失敗。
我を悟った者ほど稲穂のように頭を垂れる者となってほしい。
近づいていくどころか、本質に近づいていくどころか、本質から遠ざかっていく人間のなんて多いことか、ですよ。落ち込んだり、悩んだり、苦しんだり……。
なぜ?
皆さんが、本当にすべてのすべてとの一体感であるならば、そこに悩む、苦しむ、不調和…ありうるはずがないですよ。
いつ私が苦しんだことがありましょう。
いつ悩んだことがありましょう。
常にそこには智慧で解決する「愛」は渾々(こんこん)と湧き出てきますよ。
我々は「すべてのすべてを愛す」という、その特権は与えられていても、一人だって裁く権利は与えられていないですよ。
神だって皆さんを裁かないですよ。
皆さんの自由意志は絶対に無視しないですよ。
しかし、人間意識・肉体意識・個人意識という偽我たる者ほど、人を裁こうとしますよ。
私が正しい。
どこにどこに正しい物差しをもっていましょうか。
正しい物差しは、神のみにあるんですよ。本質のみにあるんですよ。
肉体衣装をまとっているかぎり、常に我々は謙虚で、常に根源に顔を向けてほしい。
誰を裁けましょうか?
裁いた相手は己自身であるとともに、神ですよ。
だから、裁けば裁くほど、皆さんは本質から遠ざかっていくのは当たり前ですよ。
神に反発しているんだから。神に抵抗してるんだから。
今までも皆さんに、1分落ち込めば1分曇る。で、1時間落ち込めば、切り替えるまでその1時間もう曇っている…と言ったけど、2、3日前に観せられたその距離というならば、想像もできないですよ。1分の落ち込みがどれほど神から遠ざかっていくか。
私が2、3日前に観た状況を、ここに大きなスクリーンを持ってきて、皆さんに見せたいと思いましたよ。
これを一見するならば、「百聞は一見に如かず」で身震いするほど、皆さんはその時こそ反省ができたでしょうね。ここまでか…って。
わずか1分の落ち込みが、1分の非難が、1分の批判が、これほどこの現象の世界の距離にして、ここまで何百メートルも、神から、本質から遠ざかっていくことかって、そのスクリーンを見せたかったですよ。本当に皆さんに。ここに持ってきて映し出して。
一瞬一瞬、我々は、神に近づきいくために、ここまで幾転生も幾転生も肉体という衣装をまとって人生の旅をここまで歩んできたんです。
とうとう本質と融合したときは、人(ひと)生きるという人生から、神(かみ)生きるという神生へ、変生(へんしょうへんせい)ができるんです。
一点の曇り、一点の汚れをもってして、どうしてどうして本質に融合できましょうか。
朝から晩まで目を閉じて座っていたって不可能ですよ。
目を閉じて座っているだけで神に融合ができるならば、あのカメさんなんて一日中でも目を閉じていますよ。もう悟ってますよ、カメのほうが。
おっぱい飲んで悟れるならば、赤ちゃんはとうに悟ってますよ。
草を食(は)んで悟れるならば、皆さんは肉食は嫌いとかなんとか言うけれど、その野菜食で悟れるならば、ウシ・ウマはとうに悟ってますよ。
武器を持たぬ、持たぬ、持たぬと言いながら、裁く武器を何の武器といいましょうか。
あの人を殺したい、あの国を攻めたいという、その人間の思いが、とうとうこの手にしてる武器をカタチつくっているということを知ってほしいんです。
これを私は「思いは実現」と言ってるんです。
大きなスクリーンにここで映しみせられるならば、皆さんに見せたいと思いますよ。
今日の24時間、何歩神に近づいたどころか、何百メートル遠ざかったかが早いですよ。
だから神の道は簡単ではないんですよ。
細くて長い道なんですよ。
それが簡単であるならば、皆さん、ここに肉体衣装まとって、ここに平気で座っているはずないですよ。
それが見えないし、知らないから、皆さん平気でここに座っているんですよ。
あたかも偉ぶって。もうそれを観られる我々からすれば、こうですよ。もう申し訳なかったって。もう少し我々は……
だから、今日Aさんが「自信がない」って私のヒーリング中に言うんですよ。
「自信のなさは、逆に、私は誰よりも悟っている、私は誰よりも偉い、誰よりもトップに、という傲慢さを持っている人間よりも、自負心をもっている者よりも良い」と私は言いました。
なぜならば、自信のない者は、努力に努力を積み重ねれば必ず到達しますよ。
しかし、「私は偉い」という自負心はもう終わりなんですよ。悟りはないんですよ。
もう私は偉いんだから。神よりも偉くなっているんだから。
そこに悟りなんてあるはずがないですよ。
しかし自信のない者は、それを努力して努力して努力して歩めば、必ずや到達しますよ。
だから、悟りに至る秘訣は二つですよ。
「謙虚」で「努力」することですよ。
我を悟った者ほど稲穂のように頭を垂れる。
なぜ今までの、あの宗教を教え説いた者、あるいはこういう真理を教え説いた者が全部、ありとあらゆる者が失敗をおかしてきたか?
先生が先生になったからですよ。
我を悟った者ほど稲穂のように頭を垂れることができなかったからですよ。
私が神を追求し、神は命として本質としてすべての原因として、神が完璧な答えを私みせつけたときに「全国・全世界へ真実の神を説いていけ」と言われたときに、ただ一つ約束させられたのは、
「先生が先生であっては失敗」、それだけですよ。
「先生は生徒でありなさい」を教えられたんですよ。
その言葉だけですよ。私に「立て」と言われて。
どんなに霊的素質に恵まれていても、偉い者になれば、その者はもうそこで終わりですよ。一層本質から遠ざかっていくことほかにないですよ。
霊的素質に恵まれていなくても、常に謙虚で努力をする者ほど、必ずや本源に到達しますよ。
我々は常に謙虚で、すべてに学ぶ姿勢をもってほしいんです。
本質、神のみが偉い者であって、は「我、肉体なり、我、人間なり」で、本質から分離している者に偉い者なんてどこにいましょう。
「我、何人も裁かず」ということを知ってほしいんですよ。
この何十何年、私が誰を裁いたのか。
皆さんは、裁くことにおいて、うらみ、怒り、嫉妬を向けることにおいて、とことん苦しみ、とことん悩み、とことんこの本質から遠ざかっていくことを知ることです。
早く神とともに皆さんはある、あなた方になってほしい。
それは、即、神であることですよ。
皆さんは、本来は神以外に何者でもないんですよ。
なぜならば、どこを観たって、どこを探したって「神一元」しかないんです。
神一元のなかに皆さんが、で、単なる人間であるはずないんですよ。
神一元のなかにあれば、皆さんは神一元であって当たり前のこと。
神ほかには何者でもないんです。
その何者かを知っていないんです。
何者なんだろう?
無智・無力・迷い人と皆さん思いましょうか?
皆さんは、無限の智慧、無限のすべての所有者なんです。
無限人(むげんびと)なんですよ。
人というカタチをまとった無限そのもの。
それを、「神人(しんじん)」「愛人」と説いていることであって、
もう「障がい者」から、皆さんは解脱してほしいんです。
障がい者というのは、この肉体というカタチが不自由さを生きている者ではないんですよ。正しく道具を使えていない…たとえば肉体という道具、感情という道具、理性という道具、で五感という道具、それを正しく使えてない人間を障がい者というんですよ。
皆さん、やるべきことをやれることを、「まとも」と言っているではないでしょうか。
当たり前のことを当たり前のようにやれる人間を、「当たり前の人間」と言っていることであって、当たり前のことをやれない者を、「おかしい人間」と言っているのと同じことですよ。
だから、我々は本質を生きることを当たり前。
当たり前のことを当たり前のようにやれない人間を、これが本当は障がい者なんです。今までの我々が障がい者だったんです。
ちょうど健康・病気をたとえで説いているのと一緒ですよ。
肉体が健康であれば「健康」。で、肉体がどこか病んでいれば「病人」と言っているけれど、全く逆ですよ。
たとえこの肉体という道具は、少しカタチが崩れていても、本質そのものを顕現しているならば、その者が「まとも」であり、その者が真我顕現者なんです。
で、肉体は健康そのものであっても、正しく道具を使えていない人間を、これが「病人」と言うんです。これが「死人」と言うんです。
だから、逆からものを見ている人間のなんて多いことか。
本当にすべての幸せのために、すべての成長のために、手を取り合って生きていける皆さんになってほしんです。
なぜそこにちょっとした間違いをゆるせない、すぐ裁く。
自らを遠ざけているんですよ。本質から。神から。
イエス・キリストだって「たかが子守り女ではないか」っていう(一言で)、愛の法則、愛の律法をおかして、どれほどのカルマを……。
(ホワイトボードを指して、書いていた「カルマ」の文字が)「あっ、カルマ消えた。“ない”ということですよ、カルマは。消えたんだから」。
どれほどカルマを背負ったかということを説いてますよ。
「たかが子守り女ではないか」って、ただ一言、見下げたその言葉で、どれほど自分自身を本質から遠ざけているかということですよ。
たとえば「たかが子守り女ではないか」という、ただその一言で、本質から約1キロメートル遠ざけたとするならば、我々は今まで「バカ」、そのような言葉も使いました。
その言葉でどれほど神から自分自身を遠ざけたか、ということですよ。
ただ一言で、皆さん自身の一回の裁きで、1分の落ち込みで、一言の裁きで、一つの表現の間違いで、距離にして神からどれほど遠ざけるのかということを、もしもう一度、神が私にたとえで観せるならば、私が全部メモって皆さんに伝えますよ。次は。
もう皆さんガッカリしますよ。一瞬一瞬、近づくどころか遠ざかっていたのかって。
もうそろそろ賢い者になってもらいたい。
まあ、本来は意識というのは無数だけど、で、今の今、我々に肉体の迎えがきたとき、肉体脱がされたとき、果たして自分はどの程度の…(右:ホワイトボードに絵)まあ、これは本当は想像できない意識状態ですよ、無数の館ですよ。これだけを私はまとめているんですよ。どのあたりに自分が居座れるかですよ。
去年の正月か、一昨年の正月に(観せられた)ドア…皆さんが肉体脱がされたとき、開けるドア(真っ黒く曇ったドアと光り輝いたドア)を観せられて、元子さんでたとえたこと、そのものですよ。
皆さんひとりひとり、自らが「光」をくぐれてないんですよ。神は皆さんに「光のドア」をくぐらせたいんですよ。
くぐれないのは自分なんですよ。
なぜならば、波長が合わないから。皆さんがここで破壊されるから。
これがアセンションの時期です、時ですよ。
今日の今日、心からすべての武器をすべて排除してください。
いちばんの武器は「無智という分離」です。
「無智という分離」さえなければ、そこにうらみや、怒りや、嫉妬が出るはずがない。
分離がそれをつくりあげているんです。
もう遠ざかった自分を早く早くその本質に引き戻してほしい。
「謙虚」で「努力」すれば、必ずやここに到達するんです。
これは神が私に約束しているんです。
共にひとりひとりの成長を喜び合える、手を取り合って前進できるあなた方でありますように。
今生こそいつ肉体脱がされても、喜び、微笑み、笑いながら、
わが人生、一点も狂いな。
わが人生、一点の後悔なし
そう言えるあなた方になってほしいんです。
そのために、神はこの上江洲という道具を使って40年も皆さんの前に語らせたんですよ。
共に神道、神の道を歩んでいきたいと思います。
ありがとうございました。
以上