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「これは邪宗門のはなし」――資源活用事業#26

植戸万典うえとかずのりです。恥の多い生涯を送って来ました。それは太宰だ。

教科書的なイメージからか、あるいは有名な文学賞に冠されているからか、高尚な文学者と思われがちな芥川龍之介です。
“高尚な文学者の高尚な文学作品”なので敬遠されがちでもありましょうが、実際に読むとその文豪的なイメージから想像されるような読みづらさより、娯楽性が印象に残ります。我が推し作家のひとりです。新規の供給はありませんが。

「地獄変」の続編的に新聞連載からスタートした「邪宗門」も未完のまま、100年前の11月に書籍として出版されました。
100年の結末お預けをくらっている読者としては、別の我が推し作家のひとりである某先生の「鵺の碑」を待つくらい、どうってことないというものです。

コラム「これは邪宗門のはなし」

 芥川龍之介の『邪宗門』初刊が春陽堂から発行されてちょうど百年が経つ。王朝時代の京を舞台に、公家の若殿の身に起きた顚末を描いた短篇だ。前半は説話集の翻案のような出来事から才走った若殿の人柄が表現されるが、あるとき洛中に「摩利の教」を布教する異形の沙門摩利信乃まりしの法師が現れると、物語は若殿と法師の因縁へ展開してゆく。
 摩利信乃法師は赤裸の幼子を抱く女菩薩の画像を幡に掲げて十文字の黄金の護符を頸に下げ、入信者には水で頭を濡らす灌頂めいた儀式を四条河原でしていたという描写から、作者は本作の「摩利の教」とはキリスト教の一宗派と設定していたのだろう。たしかに、すでに唐には「景教」ことネストリウス派が伝わっており、「摩利の教」はこれと見る説もある。ただ、ネ派はマリアを「神の母」とする教理を否定して異端とされたのだから、聖母子像と思しい聖画を掲げる法師の信仰と重ねるのも矛盾を感じる。飽く迄も切支丹物を得手とした芥川の創作と見るべきだろう。
 「邪宗門」はフィクションに過ぎないが、実際に社会的な混乱を齎す「邪教」とされた宗教は史上枚挙に遑がない。早い事例では、『日本書紀』皇極天皇三年秋七月条に見える一件が有名だ。
 皇極天皇の御代、東国の富士川周辺に住む大生部多おおふべのおおという人物が、橘や山椒の葉につく蚕に似た緑の虫を「常世神」と称し、これを祀れば富貴と長寿が得られると村里の人らに勧めた。これを巫覡が偽の神託で援護すると布教の熱はさらに高まり、都鄙を問わず人々は常世の虫を座に安置して歌い舞い、家財を擲つようになった。しかしそれで富むはずもなく、身代を失う者も出る社会混乱へと発展したことで、多は討伐されるに至った。
 以後の歴史でも淫祠邪教として弾圧された宗教は数多い。基本的には時の政権にとって好ましからざる信仰や教団が対象で、近世はキリスト教、近代では大本などがその代表に挙げられる。終戦後の神道も、表向きであれ権力によって信仰の変容を余儀なくされたという意味では他人事でない。
 宗教は世俗の常識と異なる論理を持つからこそ救われる人もある。ゆえに、脱社会的な面を本質的に内包せざるを得ない。釈迦族の王子ゴータマも、ナザレの大工の子ヨシュアも、その言行は当時の常識的なものとは云い難いが、世に容れられない人がそれで救済を得もした。そうした点まで考えると、世俗を司る政治との関係は実にセンシティヴな問題で、社会はその落とし所の正解を未だ出せていないのだと昨今あらためて思う。
 芥川の「邪宗門」は、さあいよいよ法師と若殿の直接対決だ、という佳境で未完のまま終わっている。京に混乱を齎しながら信仰を貫く法師と、敬虔な信仰心なんぞまるで意に介さない若殿の、ふたりの関係はその後どうなったか。その行方は、誰も知らない。
(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和4年9月19日号)より

『神社新報』掲載時の歴史的仮名遣ひは現代仮名遣いに直しています。
芥川作品を含めて近代文学の多くが戦後の出版の際にそうされていることにならったもの、というわけではありません。

「これは邪宗門のはなし」のオーディオコメンタリーめいたもの

おわかりのとおり、最後の部分は「それは羅生門のはなしでは?」ですね。

さて、「邪宗門」に出てくる「摩利の教」とはどんな宗教だったのか。コラム内でも書きましたが、もう少し詳しく考えてみたいと思います。

作中の描写を拾うと、「摩利の教」を布教する沙門には次のような特徴がありました。

  1. 見慣れない女菩薩(赤裸の幼子を抱いているらしい)の画像を旗竿に掲げている。

  2. 十文字の黄金の護符を頸にかけている。

  3. 水で頭を濡らす灌頂めいた儀式を経て入信させる。

これらから考えると、芥川自身は十中八九キリスト教として設定していたと見なして良いでしょう。
芥川龍之介は、「鼻」とか「芋粥」とかの王朝物作品が教科書などでも有名な一方で、「奉教人の死」とか「るしへる」といった切支丹物も手がけており、キリスト教への造詣はそれなりに深い人物です。
そうしたキリスト教設定で描かれたと思われる「摩利の教」は、さらにWikipediaでは「山田孝三郎の景教という説が有力」とされています。

「景教」とは唐の時代の中国に存在したキリスト教の一宗派のことですが、Wikipediaでは上記以上の詳細がわかりません。
どういったことなのか確認してみると、Wikipediaの記事は山田孝三郎編『芥川文学事典』を根拠としている模様です。
同事典は芥川作品の注釈集ですが、その106ページでは「摩利の教」を次のように解説しています。

摩利支なら摩利支天であり、単に摩利と云うのは供物の一種であつて、摩利の教と云うのは明らかでない。後の方を読むと、どうやらマリアの教のようでもあるが、景教などの布教者があつたものとして読むべきであろうか。(景教はネストリウス派の基督教で、波斯・印度を経て六五〇年頃中国に渡来し、日本にも京都の太秦にその遺跡が発見されている。)

※山田孝三郎編『芥川文学事典』(岡倉書房新社、1953)より

こちらの国立国会図書館の資料は「個人向けデジタル化資料送信サービス」で閲覧できるものです。ぜひ利用登録を。

山田孝三郎はあくまでも推測として書いていますが、Wikipediaの記事はこの説を述べたものと見て間違いないでしょう。
たしかに設定の時代的にも、沙門が中国大陸で知った景教を日本に持ち込んだと考えれば辻褄が合うように思えます。
ただ、そこには疑問も残ります。

景教ことキリスト教ネストリウス派は、エフェソス公会議で異端とされて東方に広まった宗教です。
問題は、その異端とされた理由。ネストリウス派が異端扱いを受けることになったのは、聖母マリアは「神の母」ではなく「キリストの母」であるとする教理にありました。
この辺の教理の解説はややこしいので避けますが、そうした事情を持つネストリウス派が、その後のカトリックのように「神の母」マリアを崇敬したとはちょっと思えません。実際、景教芸術では普通のキリスト教芸術では聖母の描かれるところにもマリア像が見られないようです。

景教では聖母マリアはイエスの肉体を育てただけであり、イエスに神性を与えるものではないとし、聖母マリアを礼拝の対象とすることに反対した。したがって阿羅本がペルシアから長安に将来した聖像はキリストの画像のみであり、一部の学者がいうように聖母像を含むものではない。1897年、ロシアPerm州Grigorovskoe村で出土した景教芸術様式の塗金銀皿はサンクトペテルブルクのエルミタージュ博物館に収蔵されている。銀皿にはキリストの受難、埋葬と復活の物語が描かれ、エストランゲロ文字(Estrangelo)で注釈がつけられており、物語の説明がされている。キリストの復活を画いた図像は非常に特別で、聖母マリア像がみられない。キリスト教芸術ではこの物語には普通聖母マリアが出てくるのである。よって、ペルシア景教宣教師阿羅本が長安にもたらした聖像はキリストの像であり、敦煌蔵経洞から出土したペルシア芸術様式キリスト像の断片は、阿羅本がペルシアから長安に将来した聖像を手本としたものであると推測できる。

※林梅村、ソニア・ブスリグ「西域における景教芸術の発見」より

芥川「邪宗門」の描写を見ると、「摩利の教」を布教する沙門が幡に掲げる画像には明らかに聖母子像のマリアが描かれている(ことを作者は仄めかしている)ので、これを景教(=ネストリウス派)と考えるのは無理があるのではないかと、宗教史的には考えられるわけであります。
もちろん、芥川がどこまで考証していたのかはわかりませんけど。

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植戸 万典
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