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「校閲畏るべし」――資源活用事業#06

植戸万典(うえと かずのり)です。皆さんは何を畏れますか?

このウイルス禍により、祇園祭も中止されるという報道がありました。
八坂神社さんのWebサイトの最新情報「令和2年度 祇園祭についてのおしらせ」を見ると、祭礼に関するすべてがなくなってしまうわけではないようですが。

もともとの祇園御霊会がまさに疫病の除災を祈ったことに由来するため、その祭礼の中止というニュースには一家言ある方も多いようです。かくいう自分も同じ穴のムジナですが。
ただ祇園祭は、そうした歴史を受け継ぎながらも、すでに千年を経て町衆の行事としてなどさまざまな側面をはらむようになっており、単純に断ずることはできないなぁ、というのが率直な感想。
また今般のCOVID-19は、人智の及ばない領域にただひたすら疫神を見出さなくとも学問の深化によりウイルスという人類社会の対処可能な範囲内に置けるようになった問題なのだと考えれば、従来の神賑わいをおこなわずに忌み籠もることも神祭りの選択肢のひとつなのかもしれません。少なくとも神社の祭りは社会と切れた存在であるわけにはいかないのですから。

さて、そんなわけで今回は、令和元年7月15日付の『神社新報』に寄せたコラム「校閲畏るべし」を再利用します。
例によって原文の歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに改めています。

コラム「校閲畏るべし」

 今月の京都は八坂神社の祗園祭で大層な賑わいであろう。
 前の一文で赤ペンを手にしたくなった方は校閲の素養をお持ちかもしれない。正しくは「祇園祭」だ。
 神祇の「祇」と祗候の「祗」は別字。「祇」は書体によって偏が「礻」となるので、それを嫌い「示」の字形を探したのだろうが、偏の「礻」は単に「示」を崩した形である一方、「氏」と「氐」は字種が異なる。矯角殺牛だ。しかし中には「祗」を正式とする固有名詞もあって、校閲泣かせである。
 ときに編輯業も担う身ゆえ、日常でも印刷物の微瑕が目についてしまう。主演俳優がとても素晴らしかった校閲が主題のドラマでもあったが、一種の職業病だ。粗探しそのものなので、あの地味どころかスゴく美しい俳優でなければ煙たがられるだけだが。
 先日、とある漫画を頂戴したときも思わず朱筆を執ってしまった。年号を扱った学習漫画だ。その歴史の解説部分に、年号は大化から「一四〇〇年余」にわたり用いられてきた、とあったのである。心中で「四」にそっと斜線を引き、脇に「三」と書き入れた。大化建元は西暦六四五年。二〇一九引く六四五は一三七四。余らない。むしろ足りない。
 新聞、雑誌、書籍など媒体にもよるが、この辺りの赤字はまだ確信を持って入れられる。しかし解釈の域になるとこうもいかない。校閲では、表現や事実関係に疑義がある場合、それを黒鉛筆で指摘する。これを「疑問出し」という。
 先日、とある冊子を頂戴したときも思わず鉛筆を執ってしまった。大嘗祭を扱った英文冊子だ。その悠紀・主基地方の卜定の解説部分に、約千年前の宮廷は「crisis」に直面するたび亀卜をおこなった、とあったのである。古代の朝廷では天皇の身体の吉凶判断や伊勢の斎王の選定などが亀卜の恒例だったが、それらは「危機的状況」なのだろうか。そう思い訳出元の和文冊子を読むと、「朝廷の大事」とあり、齟齬の経緯を察した。
 さらに編輯者目線で考えると、絶滅が危惧される動物を用いた占いを外国一般に向けて紹介するなら、表現や内容には相当の注意を払いたい。異文化相手に単なる翻訳では、あらぬ誤解や嫌悪感を与えかねない。
 杞憂だろうが、インバウンド対策で各地の社寺や文化財解説の翻訳が進むと、そうしたことが頻出するのではないか。日本人でも「祇」と「祗」を誤る。どれほど日本文化に精通した翻訳家に任せても、校閲しなければただの丸投げだ。この校閲人材は貴重だが、あの俳優でないから煙たがられるだけ。そも翻訳では不十分な場合もある。文化庁も多言語化の手引きを最近示したが、その周知のほどはいかばかりか。もっとも今更その理解に努めているようでは、後の祭りか。
(ライター・史学徒)
※『神社新報』(令和元年7月15日号)より

「校閲畏るべし」のオーディオコメンタリーめいたもの

校閲の奥深さは、やればやるほど実感します。帚葉とはさもありなん。掃いても掃いても無くならない落ち葉のようです。

何かを表現して伝えるということは、簡単だけど難しい営みです。
どれだけ考えて作り込んでも、書き終えたときには傑作だと思えたものでも、それが他人に伝わる段階になると完璧には程遠いと打ちのめされる。すべてを過不足なく完全に伝えられるなんて、思ってないけど。
だからこそ、知るほどに校閲はおろそかにしたくないと感じるのです。

達意の文を書きなさい、というのが、大学院までお世話になった教授が卒論指導で自分に云った言葉でした。
師の言葉を正確に理解できているかわかりません。
ただ、決して読み手に迎合するのではなく、さりとて自分の書きたいものを書きなぐるのでもなく、その間で何を書くべきか、今は少しだけ考えられるようになったかな、とは思っています。

#コラム #私の仕事 #ライター #史学徒 #神社 #校閲 #資源活用事業

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植戸 万典
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