自分が物書き的にこだわったりこだわらなかったりしている一つ二つ

植戸万典(うえと かずのり)は面倒くさい人間です。

こだわりがあると言えば聞こえは良いかもしれないけど、そもそも「こだわる」って言葉は些末なことに拘泥している執着しているってマイナスな評価が元の意味なのでぜんぜん聞こえは良くなってないし、こういうこだわりがすでに面倒くさい。

ただ、一般人にはどうでもいいことに燃えている人はその火が内燃している限りなら見ていて面白かったりもするので、自分も他人から理解されないこだわりを小出しにしてみたいと思う。
世間にとっては無意味なことを世の中に増やすのは、それはそれで豊かさのような気もするし。

画像1

(『神社新報』令和3年4月19日号「無税・公益・楽園」より)

例えば上の画像の拙筆にも、自分のこだわりの跡が残っている。

本文の5行目末「伊語や仏語」とある箇所、執筆途中までは「フランス語やイタリア語」だった。
略語にしたのは文字数が増えたから。このコラム欄は本文1100〜1200字相当という縛りがあるので、こういう細かい節約でいつも字数を調整している。

こだわったのは略語にしたときの順番だ。元は「フランス語やイタリア語」だったものを、略語では「伊語や仏語」とあえて逆にした。これは、少しでも読者の混乱を避けようとしてのことだった。

「仏語」にはフランス語という意味以外に、「ぶつご」と読んで仏の教えや仏教に関する言葉という意味がある。
まあ文脈的に仏教用語の意味で「仏語」と書いているのではないことなどわかるだろうなとは思ったものの、一瞬でも混乱させて読んでいる流れを阻害してしまうのは宜しくないな、と思った。

そこで、先に「伊語」を出すことにより「これは外国語の略語なんですよ」という意図をそれとなく伝えて無意識に「フランス語」の意味で読んでもらおうと考え、上の紙面のように書いたのだ。

ちなみに、スペイン語が例示の候補だったタイミングもあったけど、略語にすると「西語」になって仏語以上にわかりにくくなるのでやめた。

こうした益体もないこだわりが良いのか悪いのかはわからないながら、そんなことを日々考えながら自分は作文している。
我ながら面倒くさいなとは思うけど、それなりに楽しかったりもするものですよ。

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植戸 万典
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